第八十三話 アイラ 一
上杉が、ゆっくり私を見た。
「先生」
佐藤の声がインカムから聞こえた。上杉はそれに返事をせず、私のことを見ていた。
「先生」
もう一度、佐藤の声が聞こえた。今度は答えた。
「そうだな……。ここまで来たんだ。話してもいいだろう」
インカムが沈黙した。上杉は、両肘を膝に置き手を組むと、その上に顎を乗せた。それまで伸ばしていた背中が曲がり、ひどく老け込んだように見えた。
「生きている、というのはやや語弊がある」
(長い話になりそうだ)と私は思った。別に構わなかった。もうここですべきことはやったのだ。このあと、どこに行く予定もなかった。それに誰も言わなかったが、ここへ来る予定の人間が、最低でも一人いることも分かっていた。それから逃げずにいるためには、誰かが話し続ける必要があったのだ。
「さっきも話した通り、アイラのオリジンは開発当時のままだ。それは、ソフトウエアとしてはもちろん、ハードウェアとしてもだ」
私は、彼が何を言っているのか分からなかった。
「一九八〇年代の十六個のRAMモジュールが、彼女のコアなんだ」
名前を呼ばれたアイラが、メインモニターの中で微笑んだ。
「そんな、馬鹿な! アイラのコアシステムが、今から半世紀以上前のシリコンチップだって言うんですか?!」
彼は、今から五十年以上前の骨董品が、世界最高峰のAIのコアシステムだと言うのだ。百歩譲って、プログラムについては歴史的に、時代を先取りした理論を構築する者はいる。しかし、ハードウェアについては、技術的にはもちろん、経年劣化を考えれば、およそ考えられない。モニターに映るアイラがこちらを見てゆっくりと目を瞬かせた。気のせいだろうが、その瞳には、こちらの話を興味深く聞いているように思えた。
「信じられないのも仕方がない。だけど事実だ」
「でも……、一体、どうしてそんなことに?」
「理由は二つある」
どうやら上杉は、理由を二つに絞るのが好きなようだった。
「一つは、当時は他に選択肢がなかったからだ。君の世代なら知っているかもしれないが、当時のハードディスクでは遅くて話にならなかったし、技術的に並行配列で安定して稼働できるのは十六個が限界だった」
確かに当時のHDでは、田中の求める処理速度には遠く及ばないだろう。IDE接続はもちろんSCSI接続でも無理だったはずだ。考えてみれば、私が初めて買ったHDは一〇〇MBだった。私の感慨とは別に、上杉は二つ目について話し始めていた。
「二つ目は田中の設計思想だ。彼は並列配置されたRAM自体が揺らぐことを計算に入れていた」
「揺らぎ? それはデータがということですか?」
「そのままの意味だ。彼は微妙な電気的なノイズが紛れ込むことで、AIの思考プロセスにハレーションを起こし、必ずしも正確にデータを返さないことに魅力を感じていたんだ。田中はそれを成立させるために、積み重なるエラーで思考が停止するのを防ぐことや、データへの過剰な適応を防ぐプログラムを組み入れていた」
改めて田中の天才性、いや狂気性に私は怯んだ。
「でも、アイラを生かし続けたのは先生です」
それは佐藤の声だった。
「いくら田中さんが天才だからといっても、アイラを今日まで生かし続けてきたのは上杉先生です」
インカム越しにも、その声に師への思いが香った。一方、上杉の声は素っ気なかった。冬に立ち枯れた枝のように乾いていた。
「AIと言っても永遠に生きるわけではない。ハードウェアがタンパク質か、それともスチールやシリコンかの違いで、どんなものでもメンテナンスをしなければ動き続けることはできない。田中はそれすら見越して、コアであるRAMが一つや二つ壊れても、止めることなく機能し続けるホットスワップを取り入れていた。だから私はアイラのメンテナンスをし続けることができたんだ」
「でも、先生がやってきたのは、メンテナンスなんていう言葉で括れることじゃありません! CPUの換装や、貧弱なRAMモジュールを助けるために、特製のFPGA(Field-Programmable Gate Array)を作って最新の技術と繋げたり、アイラのパーソナリティをモジュール化して、外部の最新システムに分散したりすることで、アイラの機能の九九・九パーセントは最新のデータセンターで処理しているじゃないですか!」
「残りの〇・一パーセントが大事なんだ」
上杉の静かな声に、インカムが沈黙した。
「楽譜を譜面通り弾ける人間は腐るほどいる。しかし、同じ曲を弾いて、ショパン国際コンクールで優勝できるのは一握りの人間だ。その差は、同じ譜面をどう解釈し、どう出力するかという部分での個性の差、それが〇・一パーセントなんだ」
それは教え子であり、天才が遺した遺品の世話を半世紀以上続けてきた男が、感得した末の言葉だった。僅か〇・一パーセント。しかしそれは、天才とそうでない者を分ける、絶対的で、容赦のない差なのだ。
「……それでも、アイラを生かし続けたのは、先生です」
佐藤の声がインカムに白く響いた。上杉はサリエリだと思った。
「止まった! あれ、そうよね!?」
声の主は、いつの間にか椅子に体育座りで座っていた長谷川だった。裸足でずっと冷たい床に触れるのが辛くなったのだろう。モニターに目をやると、そこには進捗度二〇パーセントという数字が映し出されていた。私は恐る恐る上杉に声をかけた。
「……先生。これって?」
「田中がネットに残したデータのうち、二〇パーセントは『盾』によって失われた。しかし……」
「まだ確定ではありませんが、約八〇パーセントは無事です! これなら堤を告発することは可能です!」
インカム越しに佐藤の嬉しそうな声が響いた。
「やった!」
長谷川を見る。状況が分かったその顔には改めて笑顔が浮かんでいた。私は彼女に何と言えば良いのか分からなかった。何度か口をパクパクさせたあと、もう一度「ありがとう」と言おうとした時、コントロールルームの扉が開いた。
現れたのは堤翔だった。
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次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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