第八十二話 選択
「急いでください。サブからの操作は、メインからに比べて三〇パーセント程度遅延が生じます」
佐藤の言葉に弾かれたように、私たちは動き出した。上杉がデスクに置いたアタッシュケースが、ゴトリと重そうな音を立てた。私はその姿に、車の中で感じた違和感を思い出した。それが何かを考える前に、その中から取り出した、私用のガジェットが入ったウレタンシートを上杉に渡されたため、また、それ以上は考えることはできなかった。
手早く用意を進める上杉に急かされるように、私も事前に教わった通りに身に着けていく。実際にやってみると、映画のように格好良くは進まず、特にコンタクトに手こずった。トム・クルーズはやっぱり凄いと思った。
それでも五分は掛からず全て着け終わった。
上杉は幾つかのモニターを確認して難しい顔になった。
「進行度は一八パーセントか……、予想より少し早いか」
そう呟くと、インカムに声をかけた。
「じゃあ、早速やろう。佐藤君、そっちは大丈夫かね?」
「はい……。堤CEOの位置情報の遮断は終わっています」
「分かった。伊藤君、始めよう」
上杉の声で私は指定されたコントロールパネルへと向かう。「頑張ってください」という長谷川の小さな声になんとか笑って応える。指定されたコンソールの前に立つ。上杉との距離は三メートルほどあった。
目の前には、車の中で見せられたPCの画面に映っていたのと同じパネルが並んでいた。
「緊張することはない。私と同じことをやれば良いんだから」
そう言って上杉が、喉に付けたデバイスのスイッチを入れた。そのアドバイスはあまり役に立たなかったが、それでも頷いて見せた。
「アイラ、現在進行中の『盾』プロトコルを中止する」
その声の若さに驚いた。恐らくそれが矢作氏の声なのだろう。メインスクリーンにアイラが現れた。彼女は目を数度瞬かせてから微笑んだ。
「稼働中の『盾』プロトコルの中止には堤翔CEOと、矢作新一CDOの承認が必要となります」
「ここにいるのは、私、矢作新一CDOと」
それに続いて、
「堤翔CEOである」
と私が言った。それは堤の声だった。自分の口から出たその声の気味の悪さにゾッとする。棒読みだったので心配だったがアイラは反応した。キラッと正面のカメラが顔を照らすのが分かった。
「声紋認証と網膜認証を確認しました。両手を所定の場所に置いてください」
アイラの声に従い、特殊な加工が施された薄いシリコン製グローブを着けた両腕をスキャンに載せる。佐藤の説明によると、このグローブの表面には堤と矢作の指紋が精巧に模写されているだけでなく、内部には赤外線を吸収する特殊なインクで、二人の静脈パターンまでもが完璧に再現されているという。
「指紋認証と静脈認証を確認しました。最後に、CEOのバイタル認証を行います。そのまま動かずにいてください」
私はできるだけ平静を装って立ち続けた。一秒が十分に思えた。水色の髪の少女が、じっとこちらを見ている。叫び出したくなったところで、
「確認。矢作新一CDOと堤翔CEOと認めます」
とアイラが言った。膝がガクガクしたがなんとか踏ん張った。
その場にいた全員がホッとした。
ただ、すぐに『盾』が止まるわけではなかった。田中が残した破片状のデータを、数えきれないほどのクローラーがネット上を駆け回り、発見し破壊していたのだ。その全てを止めるには時間が掛かる。特に当初予定していたメインではなく、このサブからとなるとさらに遅くなる。
それでもモニターに映る進捗度を示すグラフが、急激に速度を落としているのが分かった。起きていることはこの時代の最先端の技術を駆使しているはずなのに、私には蒸気機関車、C62がその重い車体をゆっくり止めようとしているように思えた。
どさり、と音がした。流石にホッとしたのだろう、そこには椅子に体を委ねるように座った上杉の姿があった。私もそれに倣って、近くの椅子に座った。
「やったん、ですよね……?」
モニターと私の顔を見比べていた長谷川がそう言った。私と上杉の様子が、あまりに静かなことに、戸惑っているようだった。
「……そう、僕たちは、……やったんだ」
私は静かにそう答えていた。不思議なほど高揚感はなかった。映画のように立ち上がって、彼女を抱きしめて、キスをすべきなのかもしれない。そう思ったが、お尻に根が生えたように、そこから動けなかった。それまでずっと頭のなかの大部分を占めていたものが、突然無くなり、代わりにぽっかりと現れた空間への戸惑いの方が大きかったのだ。
それでも、
「凄いですよ! 私たち!」
という彼女のその声に押されるように、胸に喜びと感謝の念が広がっていく。
「君のお陰だよ……、本当にありがとう」
彼女が私の声に嬉しそうに笑った。私もようやく笑った。
(終わったんだ)
改めてモニターを見る。そこには着実に『盾』と呼ばれた、LPTのクローラーが止まりつつあることが示されていた。その様子にじわじわと実感がわいてくる。
本当に私たちはやったのだ。天才、田中がネットに残した証拠を守り、堤を出し抜き、彼の恐るべき計画を止めることができたのだ。凡人である、私が。
気がつくと、上杉が私のことを見ていた。私は彼に微笑みかけた。彼も同じように微笑んだ。しかし、彼の口から出た言葉は意外なものだった。それは、古い油のような、すえた臭いがした。
「……伊藤君。そもそも君は、どうして自分がこの渦中にいると思う? たまたま君が田中のノートを見つけた、そんな都合の良い偶然が、本当にあると思うかね?」
私はドキリとした。その疑問は、この事件に関わって以来、ずっとあったからだ。それは、田中という男を知れば知るほど大きくなっていた。不穏な気配に気がついた長谷川が、硬い表情で私と上杉を見比べていた。
答えない私に代わって上杉が続けた。
「恐らくすべて田中の計画だよ。君が彼の担当になることすら、な」
その返事を全く予期していなかったわけではなかったが、それでも私はやっぱり驚いた。それも酷く。
「……でも、どうやって?」
そう言うのが精一杯だった。上杉はそんな私を見て、疲れた笑みを浮かべた。
「正直に言えば、私もその過程を完全に把握しているわけではない。ただ田中は、何らかの方法で担当者割り当てのロジックを把握した上で、君を見つけ、君の担当地区に転居し、アイラに君を自分の『最適任者』として選ばせたのだろう」
「グレンガーディアン」
私と上杉の視線が長谷川に集まった。
「多分、いえ、間違いなくその結びつきというのは、グレンガーディアンだと思います」
「それは田中のノートに書かれていたテレビアニメのことかね?」
「はい。田中さんと伊藤さんを結ぶ共通点は、二人ともそのグレンガーディアンというロボットアニメが好きだということです」
言いたいことがあったが、私は黙っていた。
「なるほど。しかし、それにしても……」
と上杉が考え込む。ここでインカム越しに佐藤の声が聞こえた。
「恐らくそのアニメは、パラメーターのひとつだと思います。LPTは入社時にかなり深いところまで人物調査をしています」
そこで言葉を切ると、
「お二人が思っているよりも、ずっと深いところまでです」
と言った。思わず私と長谷川が目を合わせた。
「田中先輩は侵入した際に、そうしたパラメーターを利用したうえで、アイラに自分の仕掛けた謎を解くに最適な人間である伊藤さんを選ばせたのだと思います」
上杉はその言葉に一定の理解をしているようだったが、どこか釈然としないものがあるようだった。
驚かされたことへの反撃、というわけではなかったが、私からも上杉に聞きたいことがあった。
「上杉先生。さっき、車の中で言った、『アイラが生きている』ってどういうことですか?」
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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