第七十三話 ラマヌ
「彼は大学院の時に私の研究室に参加していた。数字に関してある種の特別な感覚を持っていて、同じ研究室の仲間からは『ラマヌ』と呼ばれていたよ。インドの天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンにちなんだものだ。もっとも彼はどうでもよさそうだった」
そう言って上杉は、少し口元を歪めた。
「彼が博士課程に進む頃に、カリフォルニア工科大学とプリンストンから、研究員の誘いがあった。正直に言えば、私は嫉妬したよ。私もそれなりに評価は得ていたが、この二つの大学から同時に声をかけられたことはなかったからね」
そう言うと、佐藤から差し出されたペットボトルの水を一口飲んだ。
「彼はその話を『断る』と言った。驚いたよ。変人であることは分かっていたが、この話を断るというのは数学者としての成功を捨てるようなものだ。私は必死で彼を説得したが、その返事は変わらなかった。さらに驚いたのはその理由だった」
上杉はここで口を閉じると、私を見た。
「田中は言ったよ『新作のパトレイバーを見逃すわけにはいきません』と」
沈黙が車内を包んだ。長谷川がきょとんとしていた。
「伊藤君、君なら分かるんじゃないか」
「機動警察パトレイバーですか?」
即答した私に、彼は薄く笑った。
「そうだ。もちろん初めて聞いた時は分からなかった。よくよく聞いて、それが当時始まったテレビアニメだということが分かった。未だに彼の返事自体は、理解できていないがね」
それはそうだろう、と私は思った。この車内では一番田中の気持ちが分かるはずの私も、普通に(どうかしている)と思った。
私のリアクションが、上杉の期待通りだったかは分からなかったが、かつての教え子について話すことで少し舌が滑らかになったようだ。
「それからすぐに私は、現在のLPTの前身であるライフテック(LT)社の研究部門に籍を移した。情報処理に関する論文が目に止まったヘッドハンティングだった。当時LT社では膨大な顧客の紙データをデジタル化し、管理と顧客評価ができるデータベースを作ろうとしていた。最初こそ順調だったが、すぐに行き詰まった。毎日集まる膨大な紙データの量が予想を遥かに超えていて、私が参加した頃にはプロジェクトは破綻寸前だった」
上杉は手元のPCを操作して画面を私に向けた。そこには、0と1、あるいはAからFまでの英数字が、画面いっぱいにぎっしりと並んでいた。
「私たちはこのデータの山をどうやって圧縮するか、頭を抱えていた。既存のどんな圧縮アルゴリズムも歯が立たなかった。そこで私はまだ大学院に残っていた田中を呼んで相談した。すると彼はやって来て、そのまま半日以上、研究室のPCの前に座り込んだ」
その口調は、まるで昨日のことを話すようだった。
「そして、言ったよ、『先生、このデータは、ひどく耳障りなんです。白い部分はざらざらした音がして、文字の黒い部分は硬いガラスを引っ掻くような音がする』と」
私は黙って聞いていた。もちろん何を言っているかはさっぱり分からない。
「彼は、こう続けた。『大事なのはこの音を、音楽として扱うことです』と。私には、彼が何を言っているのか分からなかったよ」
分からなくて良いのだと、私は少し安心した。そこで上杉は目を閉じた。
「最初私は、田中はおかしくなったんだと思った。状況が変わったのはその五日後だ。彼が組んだプログラムを実行したところ、一〇〇メガバイトあったデータは、本当に数百キロバイトにまで小さくなっていた。しかも、それはただのプログラムではなかった」
目を閉じたまま、彼の顔が再び床に向けられた。
「彼はたった五日で、文字を認識するための原始的なAIを書き上げていたんだ……。そして、それが今、LPTの公式AIとして使われているアイラの原型だ」
私は彼が何を言っているか分からなかった。ただその理由は、最初のものとは違った。意味が分からないのではなく、信じられなかったのだ。一九八〇年代と言えば、まだ第二次AIと呼ばれる頃で、あらかじめ入力された答えを返すのが精一杯の時代だ。目の前の男は、それが、現在、最先端のAIのひとつであるアイラの原型だと言うのだ。
顔を上げることなく、私の反応を見透かしたように、上杉が続けた。
「信じられないのは当然だ。しかし、事実だ。それは現在と同じ学習型のAIで、スキャンした画像データから文字情報だけをテキストとして抜き出し、それを文脈として理解した。もちろん最初はそれほどの精度じゃなかったが、あっという間に実用レベルに達した。そして彼は言ったよ、『先生、大事なことは無駄な音を省くことです。そうすることで、彼女は美しい曲を歌い続ける』と」
佐藤が労うような目で彼を見た。
「私はあの日、初めて本当の天才というものを理解した。彼は数字を音として扱い、解いてみせたのだ。さらに驚くべきことに、その時点で、第三次AIをブレイクスルーさせるコア技術となった、勾配下降法の雛形的なものや、過学習の問題についても解決の方法を用意していたということだ」
そう語る声が震えていた。
「これはまったく信じられないことだ。大量のデータから特徴を自動検出する、ディープラーニング。彼はおよそ五十年前に、その基礎的なアーキテクチャーを完成させていたんだ」
上杉は目を開くと、思い出したように、自分の膝の上で開いていたノートPCをパタンと閉じた。
「結局この時に田中が書き上げたプログラムが、現在も我が社の基幹的なアーキテクチャとして生き続けている。それどころかLPTの今日の成功も、世界に先駆けて、アイラという魔法の杖を手に入れた結果だ。……私がその後の五十年でやってきたことと言えば、彼が遺したその技術に多少の付け足しを施して、保守管理してきただけだ」
車内に静けさが戻った。かつての愛弟子についての思い出を語り終えた上杉の姿は、七十歳の半ばを過ぎた老人らしい疲れたものだった。
「先生」
佐藤が心配しつつも、先を促すようにそっと声をかけた。上杉は顔を上げると、一瞬ここがどこか分からないように目を瞬かせた。そして、私に焦点を合わせると、口を開いた。
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