第六十六話 朝
何時間にも思えたカーチェイスだったが、実際は数分だっただろう。やや下り坂の、先の見えないタイトなヘアピンカーブに差し掛かった時だった。
長谷川は、神業的なブレーキングとシフトダウンでインプレッサを減速させ、ほとんど真横に近い体勢でコーナーに滑り込む。後方のAMGも、それに続こうとした。
「……フェードした」
バックミラーの中で減速しきれないAMGが、膨大な運動エネルギーを抱えたままコーナーにオーバースピードで突っ込んでいく。
秩父の闇に、AMGの鋼のボディーが、ガードレールを引き千切る衝突音が響いた。車はそのまま半回転しつつ、後ろから山肌に突っ込んだ。
長谷川はミラー越しにチラリとその光景を一瞥すると、何も言わずにアクセルを踏み続けた。完全に追手がいなくなったことが確認できた頃、彼女が口を開いた。
「今の車はファミリーカーもスーパーカーもみんな同じ。エンジンの大きさや形は違っても、結局は似たような電子制御でつまらない車ばかり。でもこの子には魂がある……」
そう言うと、愛おしげにシフトノブを撫でた。
「そんな車には絶対に負けない」
今なら分かった。長谷川が昨日の帰り道に不機嫌だった理由が。折角のドライビングロードをAIの自動運転で走ることが不満だったのだ。そしてこの車が彼女にとって特別な存在だということも。
そこで私は昨日から、ずっと聞こうと思っていたことを思い出した。
「それにしても、どうしてこんな運転ができるの?」
「私、大学時代に自動車部だったんです」
カーチェイスのアドレナリンがまだ残っているのだろう、長谷川は快活な声で言った。
「自動車部?」
「はい。私、結構速くて。幾つかの企業から若手育成プログラムに誘われたこともあるんです」
「そうだったんだ!」
「だけど私が好きなのは車を運転することで、色々な制約があるのが嫌になって。そんな時に出会ったのがこの子なんです」
そう言うと優しくハンドルを撫でた。私はその笑顔の迫力に、
「……そうなんだ。……僕もいい車だと思う」
と言うのが精一杯だった。
「はい。最高の相棒です」
彼女はそう言ってにっこり笑った。
目的地の雁坂トンネルに着いたのは四時過ぎだった。長谷川はトンネルの少し手前にある旧道に入ると、封鎖されたゲートの僅かな隙間にインプレッサを滑り込ませ一〇メートルほど進んだところで車を止めた。ここなら走ってきた道路からは完全に死角となり、見つかることはなさそうだった。
私たちはここで、夜が明けるまで仮眠を取ることにした。この時間から山に入るのは無謀だったし、考えてみれば昨日朝からここまで、ほとんど休むことなく文字通り走り続けていた。
車のエンジンを切るかどうかで悩んだが、この辺りが氷点下になることや、体力の温存を考えると、エンジンは切らずに休むことにした。ヘッドライトを切ると辺りは闇に包まれ、アイドリング音だけが響いた。
長谷川は自分のスポーツバッグに入っていたコンビニの袋から、携帯食とチョコレート、ミネラルウォーターを取り出すと、
「これを食べてから少し寝ましょう」
と言った。
「用意していたんだ」
「食べる暇がないのは分かってましたから」
私は改めて、彼女がいてくれたことに感謝した。
「ありがとう」
「いいんです。早く食べて寝ましょう。今寝れば日の出まで二時間位は寝られますから」
そう言うとトランクからブランケットを持って来て、一枚を私に渡し、もう一枚を自分の膝に掛けた。
それから二人とも無言で食べ始めた。やたら喉に引っかかる携帯食を水で流し込み、チョコレートを口に放り込む。緊張の連続に食欲は全くなかったが、それでもなんとか長谷川が用意してくれたものは全部食べることができた。
彼女はゴミや空になったペットボトルを、入れてきたコンビニの袋にまとめて元のスポーツバッグにしまった。恐らくこの車は彼女にとって聖域であり、ゴミを散らかすことなどありえないのだろう。
五分ほどで食事を終えると、長谷川が座席を倒して、ブランケットで体を覆った。
「伊藤さんも倒してください。多少は体を伸ばせますから」
「うん」
と私も座席を倒し、首元までブランケットを引き上げた。確かにひと心地つくことができた。横になると体から疲れが染み出るような気がした。少し首を右に捻ると、こちらを向いていた長谷川の顔があった。思いがけず距離が近かったので驚いた。彼女の顔は煤で少し汚れていたが、とても綺麗だった。私は、この数日のものとは違う種類の緊張を感じていた。それでも、できるだけ平静を装って、
「どうしたの?」
と聞いた。長谷川はそれに答えずじっと私の目を見ていた。
やがて、彼女は静かに口を開いた。
「顔色が悪いですけど。大丈夫ですか?」
そう言うと、そっと私の額に触れた。その予期せぬ、そしてあまりにも自然な仕草に、心臓が跳ね上った。
「……熱はないみたいですね。よかった」
彼女は、安堵したようにそう言うと、手を引っ込めた。
「少し休んでください。私が見ていますから」
私はその言葉に素直に従うことにした。ここへきて遠慮するのは、むしろ彼女に悪い気がしたのと、その言葉にはなにか抵抗できない香りがあった。私は、彼女に見守られながら、ゆっくりと意識を手放した。この先に何が待ち受けていようと、今は一人ではない。その事実が、私を深い眠りへと誘っていった。
アラームで目を覚ますと東の空が、僅かに白み始めていた。ただ私たちが停めた車に陽が射すには、まだまだ時間が掛かりそうだった。
私は外に出ると体を伸ばした。冷たく澄んだ冬の山の空気を吸い込んだ。吐く息が白い。長谷川はもう外に出ていて所在なげに立っていた。寝起きでボーっとしているのかもしれない。私が、
「おはよう」
と言うと、長谷川は素っ気なく、
「おはようございます」
と返事をした。二時間ほど前の優しいトーンは微塵もなかった。
「寒いね」
「はい」
「大丈夫?」
「はい」
「どうしたの?」
「……コーヒーが飲みたいだけです」
話をしながら、長谷川が今朝から私の顔を見ずに返事をしていることに気がついた。私は無理に理由は聞かず、車を出ると、これからの行動に備えてストレッチをした。こんな早朝に山登りをするなんて、人生で初めてだ。
長谷川が車のエンジンを止めると、まだ暗い山に底知れない静けさが覆った。心なしか温度も下がったように感じた。
彼女が小さな声で、
「寒い」
と言った。確かに寒かった。まだ氷点下かもしれない。彼女はちらっと私を見ると、
「分かりましたか?」
と尋ねた。
私は助手席から自分の鞄を取り出すとドアを閉め、
「うん、基本この旧道を真っ直ぐ進んで、途中から外れるみたいだ」
と応えた。長谷川は小さく頷くと、インプレッサにロックを掛け、道を歩き始めた。
私は慌てず彼女の後を追った。さっさと前を歩く長谷川の後ろ姿を見ているうちに、私は知らずに笑みを浮かべていた。今朝の彼女の態度や言葉はとても冷たかったが、言葉には昨日と変わらない温かさがあったからだ。
ふいに彼女が足を止めると、顔を前に向けたまま、
「あんまり離れないでください。また迷子にならないように」
と言った。やっぱり日だまりの香りがした。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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