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理想の孤独死【完結済み21.5万文字】  作者: Shimizu Atsushi


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第五十五話 GC8

 車は中央道を下り、国道140号を進む。秩父の山へと向かう道には、対向車を含めて他に車の姿はなくなっていた。

 本格的な山道に入り、暫くすると長谷川がバックミラーを見る回数が増えた。その視線には、先ほどチャイルドシートを見たのとは違う緊迫感があった。


「どうしたの?」

「後ろの車……。ずっとついてきてます」


 彼女が言い終わると同時に、車内を強い光が照らした。後ろの車がパッシングしたのだ。長谷川は黙って左にハンドルを切り、先を譲る動きを見せた。その目には青白い炎が閃いていた。後ろの車はそれを無視して私たちの車との距離を詰め、再びパッシングライトを浴びせた。長谷川が静かに、


「伊藤さん、グローブボックスを開けて、中にある手袋を出してください」

と言った。口調は静かだが、目に宿った炎は強さを増していた。急いで開けると、中には指先の部分がない黒い手袋があった。


「まず、右手から」


と彼女が言った。私は言われた通り右手の手袋を差し出す。


「ありがとう」


と小さな声で私に礼を言うと、彼女は左手をハンドルに置いたまま、右手で手袋を受け取った。どうするのかと思って見ていると、彼女はそれを口に咥え、器用に指を滑り込ませた。それはとても艶かしく見えた。

 彼女は手袋を着けた右手をハンドルに置くと、小指から順番にハンドルに絡めた。

 私は黙って残った左の手袋を彼女に差し出した。

 長谷川は正面を見たまま、黙って頷くと、それを先ほどと同じ様に着けて、小指から順番にハンドルに絡めた。

 再び車内にパッシングライトが閃いた。LEDの青みを帯びた光が、彼女の顔をひらっと照らした。

 長谷川が右手の人差し指で、トン、トンとハンドルを叩き始めた。ファミレスで田中のノートを見せた翌朝、会社の近くのコーヒーチェーン店で見た光景だった。その間にも後ろの車のパッシングライトは激しくなる。バンパーが触れそうなくらいの距離から、相手のエンジンの、猛獣が唸るような重低音が聞こえてきた。私が「どうするの?」と聞こうと口を開いた瞬間、彼女の指がきっかり一〇回目を叩いた。同時に踏み込んだアクセルにエンジンが素早く反応した。車はそれまでの機嫌の良い猫の皮を一瞬でかなぐり捨て、獰猛な虎へ変貌した。

 凄まじいスピードで目の前のコーナーに飛び込むと、矢のように走り抜けた。後ろの車も即座に反応して追ってくる。二台の車が深夜の峠道を、常軌を逸したスピードで疾走し始めた。山間にインプレッサの乾いた破裂音と、AMGの唸るような咆哮が響く。


「AMGさんはここをどこだと思ってるのかしら……」


 長谷川はそう呟くと素早くギアを操作した。車がタイヤを滑らせながら、ありえない速度でコーナーをクリアする。AMGのドライバーも凄腕なのだろう、必死にその背後に食らいついてくる。しかし直線では距離を詰められるものの、コーナーごとに距離が広がっていく。

 私は助手席のシートで左右に乱暴に振り回されながら、横目で長谷川の様子を見た。その口元には凄い笑みが浮かんでいた。半日ほど前の山道で、死にかけた時に見たのと同じ笑みだ。私の視線に気がついたのか、長谷川は私に向かい、凄い早口で話しかけてきた。


「この子……、インプレッサは最高なんです。みんな、この子のことを、うるさいセダンだとか、ランエボとどっちが速いとか、そういう話しかしない」


 彼女の声には、普段の冷静さとは違う熱があった。


「でも、本当は違うんです。このGC8は、特にそう。電子制御がまだ未熟な時代の、最後の純粋な子なんです。ドライバーの腕が、全部そのまま出る。付いているのもABSくらい。ちなみにこの子のエンジンはノーマルに見せかけて、中身は別物。EJ20を二・二リッターにスープアップして、中身も鍛造ピストンと強化コンロッドに入れ替えてある。タービンもIHIのRX6に換装して、ECUもMoTeCのフルコンに置き換えている。これで最大出力は四〇〇馬力くらい。ゼロヨンなら十二秒台の前半で走れます。だけどこの子は直線番長じゃない。最高速より、コーナーの立ち上がりが最高なんです」


 私は彼女の言ったことが一つも分からなかった。分かったのは、話し方が、グレンガーディアンのことを喋っている時の私に似ていることだけだった。彼女の言葉の熱さに鼻の奥が焼ける気がした。驚くべきことに、私に話しながらも車のコントロールに乱れはなかった。

 私はアシストグリップを全力で握りながら、


「すごい改造をしてるんだね!」


と大きな声で言った。何か言わなければと思ったからだ。


「そうなんです! だけどただパワーアップしているだけじゃないんです。エンジンパワーを上げても、それを受け止めるボディがなきゃ駄目。だからこの子のボディは、一度ドンガラにして、スポット溶接でフレームの隅々まで補強を入れて、四〇〇馬力のパワーを何十年先でも受け止められるようにしてるんです」


 そこで彼女は一度言葉を切ると、


「……この子とは、一日でも長く、一緒に走り続けたいから」


と言った。

お読みいただき、ありがとうございました。


次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。


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