第五十三話 チャイルドシート
私は黙って後ろのバッグを取ると、自分の膝に乗せた。バッグはスポーツバッグで、中にはタオルや簡単な着替えと、何かが入ったコンビニの袋などに混じってノートPCが入っていた。天板がピンクで薄いが意外に重く、そこそこ古いもののようだ。
取り出して開くと自動でパスワードの入力画面が立ち上がった。
黙って長谷川の方に向けると、彼女は左手をハンドルから離し、中指でキーボードの隅にある認証キーに触れた。
ポロン、という音とともに画面が変わった。そこには小さな子どもと一緒に写る長谷川の写真が壁紙になっていた。かわいい男の子と長谷川が楽しそうに笑っていた。
さすがに何も言わないのは不自然だと思ったが、私には何を言うべきかが分からなかった。幸いなことに、彼女の方から口を開いてくれた。
「……子どもなんです。樹木の樹と書いて『いつき』。『いっくん』って呼んでました」
ファミレスの時と同じく過去形で、その言葉からは、底なしに深く、氷のように冷たい香りがした。私は黙って彼女の言葉を待った。
「とってもいい子で……。なんでも上手にできる子だったんだけど、靴を脱ぐのだけは下手で、そこはちょっと伊藤さんに似てました」
そう言って、彼女は少し笑った。
「――病気が分かったのは五歳になってすぐで、六歳の誕生日まで一緒にいられませんでした……。最初はせっかく上手に使えるようになったお箸がうまく握れなくなったり、真っ直ぐ歩けなくなったりして」
私は黙って前を見ていた。
「『ママ、なんだか物が上手く見えないんだ』って。びっくりして眼科に連れて行ったら、『神経の問題かもしれない』と言われました。紹介された大学病院で何度も検査をした挙げ句、聞かされたのは、小児脳幹部グリオーマという病気だということでした。名前だけでも恐ろしいですよね……。脳幹に腫瘍ができるという病気で、それが分かった時には、『もう手の施しようがない』と言われました」
車内は、僅かに猫が喉を鳴らすようなエンジン音がするだけだった。
「それまでは本当に元気な子で、だけど本当に靴を脱ぐのだけは苦手で……。何度言っても泥だらけの小さな靴を玄関に放り出して駆け込んで来て。だから……」
その声は、疾走する夜の闇に吸い込まれていった。
私は彼女がいつも、私が玄関で転がした靴を揃えてくれているのを思い出した。彼女のようなタイプの女性が、そんなことをするのがずっと不思議だったのだが、その理由がようやく分かった。
「……いっくんが逝ってしまったあと、結局、夫とも上手くいかなくなって……。向こうは前に進もうとしているみたいですけど、……私は駄目で」
彼女がミラー越しに、後部座席のチャイルドシートをちらっと見た。
「――そういうことなんです」
そう言って長谷川は話を終えた。彼女が語るべきことはまだあったはずだが、状況を優先させたのだ。彼女らしかった。あの時、暴走する車の中で呟いたのは『いっくん』という名前だったのだろう。私は散々考えた挙げ句、
「……そうだったんだ」
と言った。それが私の精一杯だった。彼女も、私がなにか気が利いたことが言えるとは思っていなかったのだろう。黙って前を向いていた。
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次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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