第四十七話 電車に乗って
私たちは高崎駅からJR湘南新宿ラインに乗り、池袋を目指すことにした。警察に駆け込んだり、このまま身を隠したりといった選択肢も考えたが、これまでの経緯を考えるとどちらも明るい展望は持てなかった。警察に駆け込んで「LPTに命を狙われています」と訴えても、それを裏付ける客観的な証拠はない。これだけのことをやれる彼らであれば、車のログを残していないわけがないだろう。せいぜい自動運転の誤作動が関の山だ。また田中のノートから始まった一連の経緯を話しても、とても信じてもらえるとは思えない。
かといってこのまま逃げても、ほとんど全ての電子空間に監視の目を広げている彼らから逃げ切ることは絶望的だ。そもそもLPTの社員は、クライアントと同じようにLPT系の金融機関をメインバンクにすることを義務付けられている。そのため、現金を引き出してもカードを使っても、すぐにそこから足がつく。逆に訴えられ警察に追われる可能性のほうが高い。
三番線で待っていると、電車が入って来た。空いていたので、長谷川と並んで座った。二人とも疲れ果てていて、これからのことを話す気力もなかった。
気がつくと、彼女の頭が私の左肩に乗っていた。知らない間に眠ってしまったようだ。
無理もない。今日は朝から大変だった。いや、今日に限らず、私が田中のノートについて話した時から、彼女の日常は変わってしまった。私が変えてしまったのだ。静かに寝息を立てている彼女の顔を改めて見た。女性の寝顔をゆっくり見たのは何年ぶりだろう。形の良い唇に、少しすましたような鼻があり、閉じられた長いまつ毛の下には、力強い光を宿した瞳があることを私は知っている。ただ今の彼女は、オフィスで見せる常に完璧に整えられた彼女とは違い、少しあどけない感じがした。そこで額の左に小さな擦過傷があることに気がついた。恐らくあの暴走する車の中でできたものだろう。秀でた額に残った赤い傷は、あの恐るべきことが現実だったことを主張していた。
胸が痛んだ。私がノートの秘密に気がついたことが全ての始まりだった。そしてそれは私一人で処理すべきことだったのだ。しかし、私にはそれに耐える能力も精神力もなかった。その結果、彼女に助けを求めて巻き込んでしまったうえに、怪我までさせてしまった。それなのに私は車が暴走するまで、田中のチラシの秘密、それも一部が分かったくらいでいい気になって、堤の秘密を暴くことができると思っていた。田中は天才だし堤もそうだ。だが私はただのしがない元SEで、今はハイテクの葬儀屋、所詮、彼らに敵うわけもなかったのだ。鞄を握る指に力を入れて耐えようとしたが、これも失敗した。涙で彼女の顔が滲んだ。
その時、気配を察したのか、長谷川が目を覚ました。
「あ、私寝てましたか?」
そう言うとゆっくり私の肩から頭を離した。私は彼女に気づかれないように顔の汗を拭うふりをして涙を拭った。
「うん、ちょっとね」
「そうでしたか、すみません」
「いや、別に……。あのさ」
「はい?」
「額のここ」
と私は自分の額の左を触った。
「赤くなってるよ」
長谷川が自分の額を触った。
「あ、そうですか。自分では分からないですけど、ちょっとヒリヒリするかも」
「大丈夫?」
「全然大丈夫です。多分、ケーブルを抜く時にどっかに擦ったんだと思います」
話している間に、私にはある疑問が浮かんできた。
「あの時にどうして分かったの? 自動運転を解除する方法」
長谷川は、(あ〜)という風に視線を宙に泳がせると、
「読んだんです」
と言った。
「読んだ?」
「はい。あの車のマニュアルを読んだんです」
「いつ?」
「あの騒動の間に。暇だったので」
「ずっと読んでたの?」
「いえ、最初は手持ちの本を読んでいたんですけど、まさかこんなに待ち時間が長くなるとは思わなくて。他に読むものを持ってきていなかったので、仕方なく車にあったものを読んでたんです」
少しの沈黙の後、長谷川はポツリと、
「私、活字中毒なんです。なにか読むものがないと落ち着かなくて」
と、言いながら、目が車内の広告を追っていた。残念ながら中刷り広告はずっと前になくなっていた。彼女の扉に貼ってあった、少し変わった予備校の広告をジッと見ていた。
また沈黙が生まれた。そのうちに、長谷川がバックの中から先ほど壊したのとは別の、私との連絡に使う古いスマートフォンを取り出して、ネットを見始めた。私はその様子を見ながら、
「すまない」
と言った
長谷川は画面から目を離し、不思議そうな顔をした。
「どうしたんですか?」
「僕が君を巻き込まなければ、こんなことにはならなかった。本当にすまない」
私は頭を下げた。少し増えてきた乗客がこちらを見ているのが分かったが、構わなかった。長谷川が慌てた。
「何しているんですか! こんなところで謝らないでください」
「いや、でも」
「いいから! 人が見てますから」
私は長谷川に促されて頭を上げた。
「そんなことよりも、これからどうする気ですか?」
私は少し考えたが、何も浮かばなかった。
「分からない」
長谷川は間髪入れず、
「そうだと思いました」
と言った。ちょっと癪に障ったので、
「じゃあ、君は?」
と尋ねると、長谷川はきっぱり、
「分かりません」
と答えた。その答えに少し気が抜けた私に向かい、
「――けど、このままでは終われません」
と言った。
「どのみち逃げ切れないんだったら、戦うしかないですよ」
そう言う長谷川の目には凄みがあった。私は逆にその様子を見て、スマホを踏み潰した時に感じたLPTへの怒りとは違う、不安とある考えが頭に広がった。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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