第四十五話 スマホ
幸い車はそのまま自走できたので、高崎駅に向かうことにした。さすがにこの車で練馬の会社に戻る気はしなかった。その間私は、ずっと黙ってこれまでのことを考えていた。特に思い出されたのは、本社で会った堤の薄笑いと、なんの匂いもない言葉だった。そのうちに言いようのない怒りが体の中に込み上がってきた。
車は車体のあちこちに傷があるので、路駐では目を引くと考え、駅の近くのコインパーキングの奥に置いた。後で請求書は会社に届くだろう。
私は駐車場を出たところで立ち止まると、ズボンのポケットからスマホを出した。
「どうしたんですか?」
と尋ねてくるのを無視して、私はLPTのアプリを立ち上げた。画面にはいつものようにアイラが現れた。彼女は私に向かってにっこりと笑い、水色の髪を揺らした。
「会社に事情を説明したほうがいいかな?」
私の質問に、長谷川は答えなかった。
「さっきの事故は、彼らの仕業だと思う?」
彼女は少し黙ってから、
「はい」
と答えた。
「やっぱり、そうだよね」
私はそう言うと同時に、持っていたスマホを地面に叩きつけた。
長谷川が息を呑んで私の行動を見ていた。私は転がり画面にヒビが入ったスマホを、さらに踵で踏み潰した。一回、二回、三回。踏みつけているうちに、それまで抑えていたものが溢れてきた。粉々になった筐体からバッテリーが飛び出した。それでも構わず踏みつけ続けた。
「伊藤さん!」
長谷川が私を背中から抱きしめた。
「……大丈夫。大丈夫です」
癇癪を起こした子どもを落ち着かせるようなその声には、人を落ち着かせる温度があった。
「もう終わったんです。もう安全だから」
私は長谷川のその言葉の暖かさを、ゆっくり胸に吸い込んだ。
一分くらいそうしていただろうか。長谷川がすっと体を離した。
私は自分の行動が恥ずかしく、なにか言うべきだと思った。その時、
ガチャン
と何かが砕ける音がした。振り返ると、長谷川が自分のスマホを地面に叩きつけ、低いパンプスの踵で踏みつけていた。彼女は呆気にとられて見ている私に、
「一度やってみたかったんです」
と笑った。つられて笑った私を見ると、彼女は笑顔を消し、さっさと歩き出した。
「じゃあ、駅に行きましょう」
私は慌ててその後を追った。
********
【LPT社用車 GL-EV8 取扱説明書 P.248より抜粋】
第七章:緊急時の対応
7.2:自動運転システムの強制手動オーバーライド
警告:本操作は、AIによる車両制御が何らかの不具合で、乗員の生命に危険を及ぼすと判断された場合にのみ実行してください。本操作を行うと、パワーステアリング、ブレーキアシストを含む全てのアシスト機能が停止し、車両は完全な手動操作モードに移行します。運転には高度な技術と、通常時以上の筋力が必要となります。
不適切な状況で本操作を行った場合、重大な事故に繋がる危険性があり、当社は一切の責任を負いません。
手順1:プライマリ・コントロールモジュールの物理的切断
AIによる車両制御の主系統を物理的に遮断します。
・運転席足元、ステアリングコラムの右下にある緊急アクセスパネルを開けてください。
・内部にある、黄色と青色の二本のコネクタケーブルを、引き抜いてください。
・注記:これにより、AIからの主要な制御信号は遮断されますが、安全のため、自動運転ユニット自体はバックアップ電源で稼働し続けます。
手順2:自動運転ユニット電源リレーの除去
AIの頭脳であるECUへの電力供給を、完全に遮断します。
・助手席側のグローブボックスを開け、その奥にある内部リレーボックスのカバーを外してください。
・リレーボックスの左上隅にある、ECU電源リレーを引き抜いてください。リレーの位置は、図7―2を参照してください。
・リレー番号: R-17
・名称: AUTO-DRV / ECU
・リレーを引き抜いた瞬間、全ての自動運転機能が停止し、車両の制御が完全にドライバーに戻ります。ただちにハンドルを握り、ブレーキを踏む準備をしてください。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
よろしければブックマーク、星の評価をお願いします。




