第四十四話 グローブボックス
車の速度はさらに上がり、カーブの度に左をガードレールに擦り、右に反対車線車に飛び出していた。谷に落ちるか山に突っ込むかは時間の問題だ。
長谷川が小さな声で何かを呟くと、思い切りよくハンドルから手を離し、上半身を捩らせハンドルの下に潜り込んだ。自動運転でハンドルを操作できないのは分かっていても肝が冷える光景だった。
「長谷川さん、何を?!」
そう言った瞬間、何かが抜ける鈍い音とともに、長谷川が再び運転席に戻ってきた。右手にはコードが二本握られていた。彼女はそのコードを後部座席に放り込むと、両手の指を左右に動き回るハンドルに軽く掛けた。長谷川の長い指の下で、ハンドルが忙しなく回転している。彼女は真っ直ぐ進行方向を見据えたまま、
「伊藤さん、グローブボックスを開けて! 中蓋を取ってヒューズボックスを!」
と言った。鞭のような声に打たれた私は、彼女に言われるままにグローブボックスを開けると、中に入っていたマニュアルを掻き出し中蓋を取った。そこに彼女の言う通りヒューズボックスが現れた。横目でちらりと私の行動を確認した長谷川が、
「ボックスの左上にあるリレー! それが自動運転ユニットの電源です。それを抜いてください!」
と鋭く命じた。私は体を前に折り曲げて中を覗き込んで確認しようとしたが、車が左右に激しく揺られてなかなか届かない。
「一番右端に縦に並んでいる一番上!」
長谷川は今にも谷底に突っ込みそうな風景を見据えたまま、私をアシストしている。私は目視を諦めると、狙うリレーに当たりをつけて腕を伸ばした。指先がツルツルしたプラスチック製のそれらしきものに触れる。左右に揺られながらも、なんとか指先で形を辿ると、彼女の言うリレーらしきものに指が触れた。私は半ばやけくそ気味に、
「あった!」
と長谷川に声をかけた。彼女は正面を見据えたまま、
「抜いて!」
と短く答える。
私はなんとか指先に力を込めて抜こうとするがびくともしない。何か硬いものでなければとても駄目だ。その時、ポケットに入れたままのものに気がついた。
突っ込んでいた手を引き戻して、それをバタバタと探す。
「伊藤さん?!」
私の様子に驚いた彼女がさすがにこちらを見た時、それが指先に触れた。
「これ!」
そう言って見せたのは、田中の『秘密基地』の鍵だった。そのまま再びグローブボックスに手を突っ込む。揺れる車に苦戦しつつも、鍵先がカチリとリレーの端を捉えた。
「捕まえた!」
「一、二、三で抜いて!」
と言った。私が、
「分かった!」
と答えた瞬間、車が右へ大きく揺れて鍵先が外れた。
「一!」
なんとかもう一度、鍵先でリレーを探る。ツルツルと滑って掴めない。
「二!」
中止を申し出ようと目を上げると、フロントガラス越しに白いガードレールが迫って来ていた。
「三!」
恐怖を力に突っ込んだ鍵先が、何かに嵌まるのを感じた。強引に引き抜く。
その瞬間、車の全のコントロールが長谷川の握るハンドルに戻った。彼女はそれまで溜めていた鬱憤を晴らすかのように、ダイナミックなハンドル捌きとブレーキングで車を滑らせた。正面に迫って来ていたガードレールが、左後方に吹っ飛んでいく。そのハンドリングに驚いて見た彼女の口元には、小さな笑みが浮かんでいた。私は足を踏ん張り、背中をできるだけシートにつけると、左手でアシストグリップを全力で握り、目をつぶった。何かに祈りたかったが、何も思い浮かばなかった。
気がつくと車は路肩に止まっていた。ゆっくり目を開けて隣の長谷川を見る。彼女は両手をハンドルの上に乗せ、組んだ手の上に額を乗せていた。丸くなった背中が微かに震えていた。私はその姿を畏敬の念をもって眺めていた。
暫くすると彼女は顔を上げ、天井を仰いだあと、ゆっくり視線を私に合わせた。
「伊藤さん……。大丈夫ですか?」
私は、
「おかげさまで、大丈夫です」
と答えた。その返事を聞いて、長谷川が微笑んだ。
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次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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