第三十八話 上杉の計画
LPT本社内にある上杉健一郎の部屋は、CDOという肩書きに比べると、ささやかなものだった。数台のパソコンや大型モニターが並ぶそれは、どちらかというと、大学の研究室のようだ。部屋にはキーボードを叩く小さな音と、部屋の主が愛聴するクラシックが流れていた。素朴なオーボエの三音を、クラリネットとバセットホルンが少しずらして繰り返し、そこへ再びオーボエの高い旋律が加わる。モーツァルトの。セレナード第十番、K.三六一、『グラン・パルティータ』だった。
「CDO」
目を閉じて、その豊かな旋律を追っていた上杉は、一瞬、自分がどこにいるのかが分からないように、パチパチと目を瞬かせた。やがて目の前の女性、佐藤が自分を見ているのに気がつくと、小さく苦笑した。
「すまない。ちょっとウトウトしていたようだ」
「いえ、こちらこそ。お疲れのところ申し訳ありません。CDO――」
「ここのカメラとマイクは大丈夫だ。先生でいいよ」
その声には普段とは違う響きがあった。
そう言われた佐藤が、僅かに表情を緩めて言い直す。
「……先生。計画は概ね予定通り進んでいます。ただ――」
「なんだね?」
佐藤はやや言い淀んだあと、
「本当に実行するのですか?」
「今さら何を言い出すんだ」
佐藤と上杉の視線がぶつかる。部屋には管楽器の伸びやかな音だけが響いた。ややあって、視線を外した佐藤が口を開く。
「先生。私もCEOに秘密があることは確信しています……。ですが、現在のところ証拠と言えるものはありません」
「その証拠を手に入れるのがこの計画ではないのかね」
「ですが本当に田中氏の遺したコアサーバーの中に、堤CEOの犯罪の証拠があるのかどうかは分かりません」
「それについては何度も話してきたじゃないか。あのコアサーバーは、アイラの運用のためと言いながら、今や堤の完全な専用領域だ。アイラのメンテナンスをしている私ですら、中身に触れることはできない。だからこそ、あそこに彼が隠したいもの、例の『方舟』に関わる一次データがあるはずなんだ」
「それは確かにそうですが……」
佐藤がチラッとモニターに映る水色の髪の少女、アイラを見る。
「……そんなに心配なのかい、アイラが?」
彼女はその質問には答えない。ただモニターを見る目に力が籠る。
「君の気持ちは分かるよ。私だって同じだ……」
その声のトーンが、急速に力を失う。それに気がついた佐藤が、再び視線を上杉に戻した。彼女の目に映ったのは、疲れた老教授の姿だった。
「五十年……。私は人生の大半をアイラのメンテナンスに費やしてきた」
「先生……」
「いや、私はいい。私が田中にアイラを作らせたんだ。その結果、今日のような事態を招いた以上、私にはその責任がある。……しかし、君は違った」
再び佐藤の視線が、モニターのアイラに向けられる。管楽器の音色が室内を満たした。
「確かに君のおかげで、アイラは今日まで稼働し続けている。私一人ではとても無理だった。ハードウェアについて私以上にアイラについて熟知している人間はいないが、ソフトウェアとしては、君なしではずっと前に終わっていたはずだ。正直に言えば、アイラの本質的な部分については、私以上に理解しているはずだ」
アイラを見る佐藤の口元に小さな笑みが浮かび、やがて消えた。
「……いいんです。これは私自身が選んだ道です」
佐藤がぽつりとそう言った時には、もう第三楽章が終わろうとしていた。
「しかし――」
「いいんです」
決して大きくはないが、その声は、第四楽章の明るいクラリネットの音色を打ち消すには十分だった。上杉が無言で演奏を止めた。この場に一番に合った音、静寂が室内を満たした。先に口を開いたのは、佐藤だった。
「以前も申し上げた通り、先生のご心配には及びません。あの研究室で、私はこの子……、アイラと出会ってしまった。先生がモーツァルトの曲を愛するように、私はこの子の歌を愛しているんです。そこに後悔はありません」
上杉は何か言おうと口を開きかけたが、それは言葉にはならなかった。彼の目の前にいる佐藤は美しかった。しかしそれは、初めて研究室で教え子として会った時のものとは違った。かつての好奇心と溌剌とした若さは、SEとしての実力とキャリアに裏付けされた、凛とした佇まいへと変わっていた。彼は知っていた。彼女には、学生時代から付き合っていたボーイフレンドがいたことを。何度か一緒に食事をしたこともあった。しかし、やがてその姿を見ることはなくなっていた。その頃から、彼女のアイラに掛ける時間がますます増えていった。そのおかげでアイラは今日まで稼働し続けてきたのだ。
もう一度、彼は口を開いたが、それは何も発することなく虚しく閉じられた。
「――だからこそ、アイラが心配なんです」
その言葉に、上杉が少し救われたように頷く。
「心配なのは分かる。僅かでもタイミングが狂えばアイラは止まる」
佐藤が僅かに口を動かす。上杉がそれに気がついていれば、彼女が「死ぬ」と言っていたことに気がついたかもしれない。しかし、彼は気がつかなかった。
「そのための用意は整っているだろう?」
「はい。VRですがシミュレーションも重ねています」
「堤が日本を離れるこの機会を逃せば、次のチャンスがいつになるか分からない。それに、田中のノートの件を考えると、あまり時間はない」
「やはり影響があるとお考えですか?」
「彼もそれが分かっているから、伊藤君……、ネズミが迷路を抜けて何かを見つけるのを待っているんだろう」
一瞬、佐藤が怪訝な顔で上杉を見たが、それには触れず、違うことを口にした。
「――それにしても、田中先輩が生きていたなんて」
「おまけにLPTの契約者とは。盲点だったよ。彼は『マイディグニティ』プランで契約していた。あのプランは契約者が亡くなるまでデータが完全に匿名化され、CDOの私でさえシステム上から身元を特定することはできない。LPTのその強固なプライバシー保護の仕組みを逆手に取られていたとは……」
「私、直接、話してみたかったです……」
佐藤がそう悔しそうに呟く。
「私もだ」
もし伊藤がこの場にいれば、彼のその声の匂いに驚いていただろう。もちろん佐藤がそれに気がつくことはなかった。彼女はもう一つ、気になっていたことを尋ねた。
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次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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