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理想の孤独死【完結済み21.5万文字】  作者: Shimizu Atsushi


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第三十話 長谷川のメモ

 車を置き、長谷川と別れて遅めの昼食をとり、席に戻ると机の上に『月次業務報告書』と書かれたファイルが置かれていた。基本的に報告書の類は全て電子化されているが、「紙のほうが見やすい」という声もあり、各課で一部紙のファイルに綴じられていた。ただ回覧はされず、必要な人間が、キャビネットから取り出して見る仕組みだった。

 席に着いている長谷川の様子を窺うと、彼女が横目でこちらを見て僅かに頷くのが分かった。

 私はできるだけ何気なくファイルを開くと、中頃の頁に手書きの付箋を見つけた。付箋は二枚重なった状態で貼りつけられ、上の付箋には、長谷川らしい几帳面な文字で、


「伊藤さん お疲れ様です。先月の川井修一氏の件、月次報告書のフォーマットでいくつか確認したい点があります。お手すきの際にご確認とお声がけください。長谷川」


と書かれていた。そして、その下の付箋には走り書きで、


「Signal hasegawa773」


と書かれていた。

 私はその二枚を剥がし、下の付箋を手のなかに隠すと、上の付箋だけ元の場所に貼り直してファイルを閉じた。

 その日はそれ以上、緊急対応もなく長谷川は定時に退社した。私は五分遅れて退社した。


 会社を出た私は、まずATMで三十万円ほど下ろした。そのまま都内の中古ショップに向かい、二世代ほど前のSIMフリーのスマホと、プリペイドのeSIMライセンスキーを買った。「三十日間有効・データ通信五〇GB」なので恐らく問題はないだろう。出費は八万円ほどで意外に安く抑えられた。もちろん支払いは現金だ。

 自宅に戻る気がしなかった私の足は、自然と昨夜泊まったマンガ喫茶に向かっていた。ナイトパックで少し広めの部屋に入り、田中のノートが入った鞄を机に下ろした。ノートの延長申請はあっさり通り、このまま一週間は私が持ち続けることができた。特例、という程ではないが異例なことで、背後に彼らの作為を感じないわけにはいかなかった。

 

 ポケットに入れていた長谷川のメモを取り出し、新しいスマホを充電しながらSignalをダウンロードする。秘匿性の高さで知られている通信アプリだ。

 三分ほどでダウンロードが完了し、早速ユーザー登録を始める。私のユーザー名は「itomasa2035」だ。手元のスマホの電話帳から、長谷川の電話番号を新しいスマホに手入力する。早速彼女に、「登録しました」というメッセージを送る。すぐに、「待ってました」という返事が来た。

 この一連の手順は、昨夜、長谷川と話し合って考えたものだった。意外にも彼女は、以前に広告代理店に勤めていたことから、こうした秘匿性の高い通信手段を使うことが多かったという。どこまで有効かは分からないが、LPTのアプリが入っていないスマホを互いに用意することにしたのだ。彼女の方は、自宅に置いていた古いスマホを使うことになっていた。


 私が(田中のデータはどうだった)と尋ねると、(確認しました。蔵書リストも見たら、思ったより本の趣味が良いですね)と返ってきた。そういえば長谷川もよく本を読んでいた。一度、「何を読んでいるの?」と聞いたら、「イシグロカズオです」という返事だった。そもそも大学では英文学を専攻していたという。残念なことに、私はその方面の知識が全くなく、会話はそれきりになったが、彼女が、「趣味が良い」と言うのだから、田中の蔵書は、その方面でも、なかなかのものなのだろう。同じ蔵書を見ても、見る人で全然印象が違うものだ。

 そのあとのやりとりで話題になったのは、やはり田中の部屋で見つけた「鍵」のことだった。ログを見る限り田中の行動は規則正しかった。週に二〜三回スナック「昭和」に顔を出し、月に一〜二度、一泊二日で天体観測に奥秩父に行く以外は、近所の図書館と自宅を往復する毎日だった。

 天体観測については、亡くなる半年前にはふつりと止まっており、恐らく肉体的に厳しくなったのだろうというのがAIの評価だった。田中が定番にしていたのは、奥秩父の「雁坂かりさか峠」という場所で、田中の自宅から電車やバスを乗り継いで四時間程度の場所だ。標高は二千八十二メートルと高く、関東でも屈指の暗い夜空を誇る場所として、天文愛好家に知られた場所らしい。田中は主に七〜九月の夏場はこの峠に、それ以外の季節は付近で標高の低い、豆焼橋という場所に足を運んでいた。

 ログを見ると昼過ぎに自宅を出て、夕方から翌日明け方まで活動し、仮眠を少し取って始発で都内に戻るスケジュールで行動していた。


 結局、長谷川との話し合いで、まずは「鍵」を優先して進めることにした。LPTがこちらを監視している以上、完全に行動を秘密にはできないが、できるだけ通常の業務範囲を逸脱せずに進めることが大方針であることに変わりはなかった。


(じゃあ、明日は一緒に『昭和』に行きましょう)


 長谷川がそう送ってきた。(なぜ?)と返すと、


(現場百回ですよ)


という返事が返ってきた。どうやら長谷川は警察小説も読むようだ。

 私は(分かった)と答えてやり取りを終えた。

 フラットシートの寝心地は昨日よりも良かったが、熟睡できる自信はなかった。とりあえず鞄の中から田中のノートを出すと、ライトは点けず、二次創作の方を読み始めた。もう手袋は着けない。自宅の件以来、一番心が落ち着くのは、この二次創作を読んでいる時になっていた。

お読みいただき、ありがとうございました。


次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。


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