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理想の孤独死【完結済み21.5万文字】  作者: Shimizu Atsushi


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第二十九話 出社前の二人

 翌朝、始業前に会社の近くのコーヒーチェーン店で会った時、長谷川は明らかに寝不足の顔をしていた。彼女はバッグからノートを出しながら、


「全部読みました」


と言った。顔色が悪いのは寝不足だけではないようだ。私はノートを鞄に入れながら、


「どう思った?」


と聞いた。

 長谷川は、テーブルに置かれたコーヒーに何も入れずに一口飲むと、


「全部を信じることはできません。だけど……、放っておくわけにはいかないと思いました」


と言った。

 私はホッとしていた。昨夜の言葉に感じた香りには、それなりの自信があった。それでも彼女がそのままノートを本社に持っていく可能性を考えると、眠れなかった。もっともそれは自宅に帰れず、マンガ喫茶の椅子のせいもあった。

 そんな私の様子に気づいてか、長谷川が心配そうな顔をした。


「私も酷いですけど、伊藤さんも随分顔色が悪いですね」

「このところずっと寝れなくてね。昨日は特に」

「……でしょうね。……ところで、これからどうしますか?」


 私は恐らく間抜けな顔で聞き返していた。


「どう?」


 長谷川が呆れた顔をした。


「なにか考えてなかったんですか、私に話してから?」


 考えてみるとノートの心配はしていたが、これからのことは考えていなかった。


「そういえば、ないね」


 長谷川は心底呆れた顔をした。それはそうだ、こんな面倒なことに巻き込んでおいて、何も考えていないことに自分でも呆れた。それほどこの数日の出来事は、私の頭の処理能力を超えていたのだ。そう考えつつ、昨夜彼女に話したことを後悔し始めていた。

 そんな私の顔色を察したのか、長谷川はもう一口コーヒーを飲み、何事か考えてから口を開いた。


「じゃあ、とりあえず私たちは普段通り仕事をしつつ、これからどうするかを考えましょう。まず私は田中さんの記録を改めて読んでみます。伊藤さんが気がつかなかったことに気がつくかもしれませんし、お互いに同じ程度の情報を持っていたほうがこれから便利だと思いますから」


 私は、自分のアイスティーを飲みながら頷いた。


「昨日の本社の件を考えると、伊藤さんのパートナーである私の行動も、もう把握されている可能性は高いと思います。私たちのスマホにはLPTのアプリが入っていますから」


 考えてみればそうだった。建前上は業務外の時間はもちろん、社員のプライバシーを侵害することはない、となっているが、こうなるとそのまま受け取ることはできない。業務時間外ではあったが、昨日の夜の行動から、今朝ここで会っていることまで筒抜けである可能性が高い。思わずブルッと身震いをした。


「かといって、アプリを削除したり、SIMを勝手に交換したり、業務時間内に連絡が取れなかったりすれば、明らかな業務規定違反で、それこそなにをされるか分かりません。ただ……」


 ここで長谷川は持っていたカップをソーサーに戻すと、


「……なにかする気ならもうやっている気もします。伊藤さんから聞いた堤の思わせぶりな台詞や部屋のことを考えると、プレッシャーをかけつつも、あえて伊藤さんを自由にして、何をするかを待っているんじゃないかと思うんです」


と言った彼女の話は、理路整然としていて納得がいった。その一方で疑問も生まれた。


「――つまり、僕たちは彼らの監視を想定したうえで、彼らに分からないように田中の調査をしなければならない、と?」


 長谷川が右手の人差し指でテーブルを「トン、トン」と軽く叩き始めた。その数がちょうど十回目を迎えたところで、


「そう、なります」


という答えが出た。

(それは無理ゲーだろう)と思った。田中ですら「抜けられない檻」であったものを、既に監視の対象である自分たちが、LPTを出し抜いて行動するなんてまず不可能だ。おまけに彼らは、私の部屋に自由に入ってこられるのだ。寝不足の顔に絶望感が上書きされるのを感じた。


「だけど、ひとつ私たちにも良いところがあります」


 と長谷川が言った。その声に思わず彼女の顔を見上げた。


「堤ですら、田中さんが何をやっていたのかは分かっていない、ということです」


 確かにそうだった。堤は、田中が何か自分に不利益なものを遺し、その手がかりとなるノートを私が持っていることは分かっている。ただ、その詳細については分からず、それが何か明らかになるまでは手を出したくない訳だ。そして、その理由は分からないが、そこに私でなければ解けないものが存在するからこそ、私を自由にしていると考えられた。

 改めて(なんでこんなことになったんだ)と思ったところで、長谷川が飲み終わったコーヒーをトレイに載せて立ち上がった。


「もう、そろそろ行かないと」


 その声に、急いで残ったアイスティーを飲もうとすると、


「急がなくていいです。伊藤さんは、もう少しここにいてから出社してください」


と言った。私は意味がよく分からず、ストローを口にしたまま彼女を見た。

 彼女はトレイを片手に持ったまま、器用にショルダーバッグのストラップを肩に掛けると、


「一緒だと、周りに変に思われるかもしれませんから。少し遅れて来てください」


 そう言うと、彼女はさっさと店から出ていった。

 その姿を見送りながら、私は氷で薄くなった残りのアイスティーを、ずるずると啜った。


 長谷川に遅れること五分、私が出社した時には彼女はもう席に着いて、モニターに向かっていた。「おはよう」という自分の声が、ぎこちなくて驚いた。返ってきた彼女の、「おはようございます」という自然な返事に、「敵わないな」と思った。

 その日は五日ぶりに午前中から緊急対応が入り、長谷川と二人で現地に向かった。亡くなったのは八十四歳の女性で、死因は狭心症だった。もちろん一人暮らしだった。救急の担当者は伊沢という女性で、手際よく処理してくれたが、ずっと喋りっぱなしなのには閉口した。現場は田中と同じくらいのアパートの一室で、広さも同じくらいだったが物は少なく、ドローンでの作業は田中の半分程度の時間で終了した。

 ただ部屋は、いわゆる汚部屋と呼べるもので足の踏み場がなく閉口した。実際、田中の部屋が整いすぎていたぐらいで、程度の差はあるがこんな感じの部屋が多かった。LPTでは、家政婦兼ヘルパーの派遣サービスもやっていて、こちらのサービスを利用している部屋はそれなりに整っていた。汚部屋化する割合は、所得と相関関係にあり、少ない人ほど高かった。ただ一方で、外見は綺麗なのに、部屋の中は滅茶苦茶というケースや、所得が決して高くなくても、室内が整った、いわゆる「清貧」のなかで亡くなる人もいた。どちらも、自分をどう扱うかというメンタルが影響しているのだろう。

 この間、長谷川とは業務以外のことは喋らなかった。私も作業に集中するうちに、この数日のことを多少忘れることができた。

 長谷川のメモに気がついたのは、一連の処理が終わり、社内に帰ったあとだった。

お読みいただき、ありがとうございました。


次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。


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