第三話 LPTの成り立ち 一
十二年前に始まった、私企業であるLPT(Life Preservation Technologies:ライフ・プリザベーション・テクノロジーズ)と、公務員である救急隊との協業も、今ではすっかりスムーズになっていた。
始まりは二十年前の夏だった。猛暑。酷暑。炎暑。激暑。極暑。厳暑。大暑……。ありとあらゆる言葉を使っても、手に負えないほどの暑さが、その年の五月から日本を覆った。その結果、日本の至る所で異臭騒ぎが起こった。正確に言えば死臭騒ぎだ。独居で暮らす人々が、あらゆるところで立て続けに亡くなったのだ。
その多くは七五歳を越えた後期高齢者だった。だが、二十代から六十代も少なくなかった。彼らはちょっとした体調不良で職場から姿を消すと、そのまま連絡がつかなくなった。不審に思った関係者や遠くに住む家族、親類が大家とともに訪ねてみると、亡くなっている。そういうケースがほとんどだった。
この国ではそれまでも、年間十二万人以上の人間が孤独死していた。だが、その年の暑さは、その記録を軽々と抜き去った。七月だけで一四〇〇〇人。八月は二一〇〇〇人。九月は一一〇〇〇人。その三か月だけで年間死者数の二五パーセントを越えた。
その多くの死因は、暑さによる熱中症だった。しかし、そこに至る要因として、それまでとは違う側面が見えてきた。従来の孤独死は、身寄りのない老人を中心に、老朽化したインフラの途絶や、貧困が主な原因だった。だがその夏は違った。孤独死は比較的若い世代や、経済的には困窮状態にない人の中でも起きていた。
そこに多くの社会学者が注目した。
「手を伸ばせば助けを求められるはずの人たちが、なぜそうせずに亡くなったのか?」
若くして息子や娘を亡くした遺族が集まった。複数の団体が誕生し、社会問題として注目を集めた。そこに色々な肩書を持つ学者が加わり、厚生労働省などの官庁も動いた。その結果、国家規模の横断的なリサーチが行われることになった。実はそれまで孤独死は、法律上の明確な定義がなく、正確な数が把握されていなかったのだ。
こうした一連の動きの中、この年の夏は「孤暑こしょ」と呼ばれることになった。
「大抵のことは、半年も経てば忘れてしまう」と言われるのがこの国の国民性だと言われるが、その中にあっても、孤暑の悲劇は記憶に残った。冬を迎え、新しい年を迎えても、変わらず人々は関心を持ち続けた。暑さが過ぎて数こそ減ったが、孤独死自体は恒常的に発生していたからだ。
新しい死がテレビやネットで伝えられ、悲しみの声がSNSにアップされる。するとベソをかいたスタンプが山のようについた。当然、投稿者を罵る者も現れた。
「亡くなってからでは遅いんだよ」
「家族を見捨てたくせに」
「売名行為」
……誰かを傷つけたいだけの、刃物のような言葉が並んだ。
一部の政治家は「家族愛の大切さ」を主張し、「孤暑防止」を公約に出馬する者も現れ、遂には国会でも取り上げられた。孤暑は思うより簡単に消費されなかった。それは多くの人にとって、事故や殺人よりも、自分に近しい死に思えたからだろう。
見知らぬ誰かの訃報が流れるたびに、人々は機械のようにスタンプを送った。
人生の最後に、自分が異臭の発生源となることを、畳やフローリングの染みになることを、そんなことを望む人間はいなかった。多くの人がぼんやりとした、捉えどころのない恐怖を感じていた。次第にそれは、白いシャツについた黒いシミのように、抜きがたいものへとなっていった。
国のリサーチの結果が出たのは、およそ一年後だった。気象予報士が無駄な陽気さで「今年の夏も暑そうです」と言い出した頃だ。
結果は、「孤独」だった。老若男女を問わず、誰かに「助けて」と言えない人間が、静かに死んでいたのだ。
昨日まで一緒の職場で静かに働いていた人が、ある日姿を消す。最初のうちは欠勤の連絡があった。やがて有給を使った病欠となり、そのまま退職し、姿を消した。多くの場合、周りの人間が全く無関心ということはなかった。インタビューに対してほとんどの元同僚は答えた。
「どうしたんだろう? と心配していた」
一方、家族の答えは、
「普段からあまり連絡がないので、分からなかった」
というものが多かった。「便りがないのは無事の知らせ」だったのだ。ところが実はそうではなかった。まったく無事でも大丈夫でもなかった。亡くなった人の多くは、身体やメンタルの調子の悪さを自覚していた。しかし、ギリギリまで、市販薬やネットの情報に救いを求めていた。また病院を訪れても、精密検査や入院を勧められると断っていた。まるで自宅で静かに息絶えることを望んだようだった。
こうした現象は当初「茹でガエル現象」と呼ばれた。常温の水の中にいるカエルが、温度が上がったのに気づかず、茹で上がってしまうというものだ。これに対して別の社会学者は、「実際にはカエルは茹で上がる前に逃げる」と反論し、自らの造語、「レジャープールの溺死」が適切だと主張した。大勢の人が楽しむプールで、静かに溺れていく。誰かがそれに気がついた時には、既にプールの底に沈んでいる。それに近いと言うのだ。
どちらの例えが適切なのかはともかく、このリサーチではもうひとつ、驚くべき事実が明らかになった。全体の五五パーセントは六十五歳以上だった。だが、残りの四五パーセントは、その他の世代、なかでも目を引いたのは、未婚の五十代から六十代の死者の多さだった。その数は年間一六〇〇〇人にも及んでいた。この世代は既に親の介護をしているケースが多く、二重遭難のような形で親が亡くなることもあった。認知症が進み、我が子の死を理解できないケースも少なくなかった。
茹でガエルだろうが、レジャープールだろうが、事実の悲惨さが想像以上であることに変わりはなかった。
また新たに明らかになったのは、死に対して抗おうとする形跡が少ないことだった。彼らのほとんどは日常的にネットにアクセスできる環境にあった。実際、亡くなる直前までネットを使っていることが履歴から分かった。また大部分の者は、社会人として一定以上の生活を営み、保険にも加入していた。にも関わらず、彼らの多くは、救急車を含めて、結局誰にも助けを求めることなく死んでいった。
家族、親類、友人、会社の同僚、知り合い、学生時代の同級生、彼らが助けを求められる人はいた。だが求めなかった。もちろん、なかには家族に拒絶された者もいた。しかし、その多くは違った。もともと家族を含む人間関係を築く意識が希薄だったり、苦手だったりした者が、齢とともに交友関係の輪を小さくしていき、やがて閉ざす。そうした姿がリサーチからは浮かび上がってきた。彼らの多くは、緩慢な死を望んで受け入れているように見えた。
こうしたデータが明らかになると、国民の視線はマスコミの誘導もあり、内閣府にお飾りのように置かれていた、「孤独・孤立対策室」と担当大臣に向けられた。しかし議会で野党の質問に立った担当大臣は、用意された「孤独・孤立対策推進法」の概要を読み上げるだけだった。でも国民はそれほどがっかりはしなかった。誰も彼が答えを持っているとは思っていなかったからだ。




