第二十五話 匂い
私の嗅覚は少し変わったところがあった。香水や化粧品の匂いといったものとは別に、相手の言葉に、匂いや色、温度が感じられた。それは相手の外見や態度とは関係なく、直接会った人だけではなく、テレビやネットなどの画面越しでも、その人の本質的なものが香るのだ。人には説明できないが、後になって腐臭を感じた人物が事件を起こすことが度々あった。ただ、普段はそれほど感じることはなく、日常生活で気に留めることはあまりなかった。
それでも注意して意識を向ければ、どんな人間にも、言葉に匂いがあった。
しかし、堤の言葉にはなかった。
どんなに意識を集中しても、彼の言葉にはなんの匂いもせず、生活臭や人いきれといった存在に付随する匂いも、色も温度もなく、まるでAIの喋っているようだった。
それから堤と何を話したかはあまり覚えていない。堤は終始にこやかで、私が日々の業務の中で不都合に感じていることや、改善すべきことを丁寧にヒアリングした。途中でコーヒーが冷めていることに気づいた時は、冷蔵庫から水を取って来てくれたくらいだ。
話をしたのは二〇分くらいだっただろう、私にとっては永遠とも思える時間が過ぎた頃、堤は、
「なるほど、大変参考になりました」
と開放を示す結びの言葉を口にした。彼は私から視線を外すと、テーブルに置かれたコップの水に口をつけた。私はその言葉に少しほっとして、同じように水を口に含んだ。
その瞬間、
「ところで」
と言った。
「伊藤さんが先程おっしゃった通り、業務中に知り得た情報の共有は大変重要です。そうですよね、上杉先生?」
と彼を見た。自分がそんなことを言ったのを覚えてなかった。それに考えてみれば、この人はこの部屋に入って以来、口を開いていない。
上杉が小さく頷いた。
「私たちの仕事は、大事なクライアントが心残りなく旅立つためのお手伝いという、大変ユニークな仕事です。その過程で、価値評価が分からないものに出会うことも少なくないでしょう。AIもまだまだ万能ではありませんからね」
そう言うと、初めてここで会った時と同じように私の目を覗き込んだ。私は、その黒い瞳に、僅かな茶色味があることに気がついた。
「そんな時はいつでも相談してください。今でこそLPTはグローバル企業と呼ばれていますが、もともとは父が興した警備会社から始まった家族経営の会社です。それは上杉先生の方がよくご存知ですよね」
上杉が、また小さく頷いた。
「ですので、なにかあった時には家族に打ち明けるつもりで、遠慮なく相談してください。もし伊藤さんが必要と感じられたら――」
そこで堤は、私が膝の上に置いた鞄に軽く触れた。そこには田中のノートが入っていた。
体が固まる、カチンという音が聞こえた気がした。
「――いつでも私や上杉先生に直接連絡していただいても構いません。こうした機会でお知り合いになれたのですから、少しくらい手順を省いてもいいでしょう。詳しいことは後でご連絡します」
と言って微笑んだ。私は頭も体も痺れたようで、
「ありがとうございます」
と応えるのが精一杯だった。
結局、田中のノートのことは最後まで話題にはならず、話し合いは終了となった。堤は入ってきた時よりもギクシャクしている私を、エレベーターまで見送ってくれた。上杉はそんな様子をじっと見ているようだったが、確かではない。私は鞄を忘れないようにするのが精一杯だった。
私は心底恐怖を感じていた。堤の思わせぶりな台詞はもちろんだったが、そんな芝居がかった言葉を含めて、彼の言葉には最後まで香りがないことに恐怖した。
エレベーターが閉まると同時に力が抜けた。
「グランドフロアに向かいます」
コンパネの上にあるモニターの中に、水色の髪の少女が微笑んでいた。
それはLPTの公式AI、アイラだった。もちろんその声に、匂いはなかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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