第二十六話 CEOとCDO
伊藤を乗せたエレベーターが動き始めると、堤は踵を返して元のソファへ戻り、上杉の正面に座った。
「上杉先生はどんな印象ですか?」
上杉は、目の前の水の入ったコップを見ながら答える。
「見た通りの普通の男だろう。ただ……」
堤は黙って次の言葉を待つ。
「田中から、何かを託されたのは間違いない」
堤が満足そうに頷く。
「あの様子だと、もうノートの中身について何かを見つけたようですね」
「そのようだな」
「流石は田中氏の選んだ人間だ。頼もしい」
堤はそう言うと満足そうな笑みを浮かべた。
「随分嬉しそうだな」
「当然ですよ。あの天才、田中が遺した最後の仕掛けが、ようやく動き出したわけですから」
「危険だとは思わないのか?」
「もちろん、危険じゃなければ困ります。危険であればあるほど、クリアした時の喜びも大きいものですから」
その答えに上杉は小さく顔を左右に振る。堤はその様子を見てなだめるように言った。
「大丈夫ですよ、我々の『盾』は完璧です。それは揺るぎません。心配すべきはむしろ、ネズミがちゃんと私たちをゴールに連れて行ってくれるのかです」
「ネズミ?」
訝る上杉に、堤は笑顔で言う。
「ほら、ゴールにあるチーズを目指して迷路を走るネズミです。間抜けなネズミはいくら走ってもチーズにありつけないでしょう。彼が賢いネズミだと良いのですが」
上杉はそれまで堪えていた息をひとつつくと、改めて堤に向き直り口を開く。
「CEO、いや、お父様の時代からの古馴染みとして、堤君と呼ばせてもらうよ」
コップの中で氷が、カランと音を立てた。
「君は天才的な事業家だ。しかし、AI、アイラとサーバーの管理については以前から言っているように問題がある」
堤は視線を窓の外の風景に向け、つまらなそうに答える。
「またそれですか」
「保守管理の責任者として何度でも言うよ。現在の管理方法はリスクがとても高い。確かに中心となっているメインサーバーは印西にあり、そのバックアップは関西にある。しかし、核となっているコアプログラムや旧サーバーはいまだに本社内にある。これはLPTの企業規模を考えると異常なことだ」
堤は視線を外の風景に向けたまま、
「あれは、誰にも触れさせません」
と言った。微笑が消えていた。
「それに実際問題、何ができるというのです? 田中氏が作ったコアプログラム、アイラは誕生以来ずっと文字を読み、歌い続けている。誰もそれを止めることはできない。それは先生が一番良くご存知のはずです」
堤の顔に再び笑みが浮かぶ。そこには少なからず嘲笑の成分が含まれていた。上杉が表情を強張らせ、口をつぐむ。
「結局、我々にできるのは、アイラがより自由に歌える空間を広げることと、電力を絶やさないことだけじゃないですか」
それでも上杉が食い下がる。
「バックアップができなくても、いや、できないからこそ、ここより安全な場所に移す必要がある。そういうことを言っているんだよ」
「アイラは私の手元に置いておきます。これについては決定事項です。たとえ先生でも従っていただきます」
その声には、断固とした響きがあった。ややあって上杉が、
「……分かった」
と言った。何度も繰り返されてきた会話なのだろう、そこには深い諦めがあった。
両者の沈黙を破ったのは、壁のスクリーンに現れたアイラだった。
「CEO。そろそろ次の会議のお時間です。ご用意をされてください」
堤がスクリーンに向かい、
「分かった。ありがとう」
と答えると、アイラは微笑を浮かべて消えた。
上杉がソファから立ち上がり、
「じゃあ、私も行くよ」
と言った。堤は、
「分かりました。ご苦労さまでした」
と応える。普段は歳の割に姿勢が良い上杉だったが、エレベーターに向かう姿は、年相応かそれ以上に見えた。
エレベーターの前に辿り着いた上杉に、堤が声をかける。
「そうそう、彼、少し私に似ていると思いませんでしたか?」
上杉が怪訝な顔で振り返る。
「彼……? さっきの伊藤君が君に似ていると言うのかい?」
「ええ。似てませんか、私と?」
ポカンとした顔の上杉が、さっきの男と、目の前の堤の姿を重ねるようと試みるが、すぐに彼はゆっくり首を左右に振った。
「いや。背格好以外に似ているところは無いと思う」
その返事に、堤は少し残念そうな表情を浮かべた。
「そうですか……、似てると思ったんですが」
「どうしてそう思ったのかね?」
再び堤の顔に微笑が戻る。
「匂いがね、私に似ていると思ったんですよ」
「……匂いね」
そう呟くと、上杉が少し頭を振りながら、エレベーターに向き直るとボタンを押した。
その背中に、再び堤が声をかけた。
「先生、私は予定通り来週の週末に香港に行きます」
上杉がゆっくりその声に振り返った。
「ああ、そうだったな。君が行く必要があることなのかね?」
「ええ、非公式ですが政府の国家衛生健康委と国家安全部、それに党中央弁公庁主任と会えるそうです」
「すごい話だな」
そう言いながら、上杉は視線をエレベーターのボタンに戻し、右手の親指でタッチした。
「ええ、でも……」
「でも?」
上杉が再び視線を戻すと、そこにはいつもの微笑を顔に貼り付けた堤がいた。
「見逃せないのは朝粥です。あれを食べないのは人生の損ですよ。ぜひ先生も一度食べてみてください」
上杉はそれに返事をすることなく、視線を到着したエレベーターに戻すと、ケージに入った。そこで振り返ると、今度は彼から堤に声をかけた。
「堤君。君はさっきの伊藤君が自分に似ていると言うんだね?」
「そうです」
上杉の口に小さな笑みが浮かんだ。
「それは、君もネズミだということかね?」
冗談を粧したその言葉には、仕返しの響きがあった。しかし、ネズミと言われた堤の、仮面のような微笑が揺らぐことはなかった。やがて扉が互いの姿を隠すと、二人の距離は上下へと開いていった。
堤は暫く閉まったエレベーターの扉を見た後、再び視線を窓へと転じた。
眼下に昼時の東京の街が広がっている。オフィスビルからマンション、住宅、高層ビル、入り組んだ道路をさらに複雑にする首都高速などが目に入る。その一つひとつに、人々の生活がある。
それを眺める堤の顔に、それまでとは違う笑みが浮かんでいた。
「先生、分からないんですか? 我々はみんなネズミなんですよ」
その微かな呟きは、最初から宇宙に存在しなかったかのように、どこにも届かず散っていった。
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次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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