第十四話 車内 一
私が車に着くと、長谷川はもうシートベルトを着けて運転席にいた。私が助手席に座り、シートベルトを着けると、彼女は無言でハンドルに手を置き、アクセルを踏んだ。車が静かに発進した。細い路地を出て大通りに出たところで、彼女が口を開いた。
「さっき、何であんなことを言ったんですか?」
なんのことだか分からなかった。
「うん?」
と答えた。(グレンガーディアンの話が長すぎたことを言っているのだろうか? それとも違う話だろうか?)私は部屋でのやり取りを、急いで思い出していた。
「さっきご遺体にブランケットを掛ける時に言ってました、『ご苦労さま』って」
そう言われたものの、まったく覚えがなかった。
「そんなこと言った?」
「言いました。遺体の目を閉じながら『ご苦労さま』って」
「全然覚えてないよ」
「言ってました」
そこで会話が途切れた。ブランケットを掛ける前に、田中の目を閉じたのは覚えていた。しかし、「ご苦労さま」と声をかけたことは、思い出せなかった。ただ、長谷川が嘘をつく理由がない。そう考えると、多分、彼女が言う通りなのだろう。五十歳を過ぎた辺りから、独り言が多くなった自覚はあった。
「本当に覚えていないんだよ。だけど……」
長谷川がちらりとこちらを見た。
「たぶん、考えずに、ポロッと口から出たんだと思う」
長谷川が視線を前方に戻した。深夜の道は空いていて、街灯の明かりが規則的に車を照らしていた。暫く後、長谷川が口を開いた。
「ご苦労さま」
そう呟くのを、私はぼんやり聞いていた。(このまま会社まで黙って過ごせればいいな)と思った。その矢先に、
「どうしてそんなこと言ったんですか?」
と長谷川が聞いてきた。
(面倒くさい奴だな)と思った。それでも疲れた頭を絞って理由を思い出そうとした。寝たふりをするには、ちょっと時間が足りなかったからだ。数秒間、頑張ったものの、何も浮かばなかった。そもそも言った本人が覚えていない独り言の理由なんて思い出せるわけはなかった。半日待機明けと部屋での長広舌もあって、私は疲れていた。
「なんでかなぁ……」
そんな、ただ言葉を継ぐために開いた口から、考えることなく言葉が続いた。
「この仕事はさ、死んだリスの巣穴を覗くような感じがしてね」
長谷川は顔を正面に向けたまま、目の端でちらっとこちらを見た。急速に強い眠気を感じていた私は、そのまま言葉が口から出るのに任せた。
「リスはどんぐりや椎の実を、コツコツ集める。毎日毎日。だけどそれを食べ切ったり使い切ったりすることなく、リスはある日、死んでしまう。なにかの病気か、狐やカラスにやられたり、理由は色々あるだろうけど、ある日、ポッと死んでしまう。なんの価値もない木の実を残して」
長谷川は黙って運転を続けている。私はさらに深い眠気を感じながら喋り続けた。
「人間はあの世、そんな世があるのかどうかは分からないけど……、仮にあったとしてもそこには何も持って行けない。そんなことは分かっているはずなのに、普段はそれがないように振る舞って、何かを買ってはせっせと家に溜め込む。リスが集めた木の実なら、まだ芽を出して新しい木になることもあるし、それは自然の摂理だよね。だけど人間が残すものは、ほとんどは紙やプラスチック、ビニール製のゴミさ。そう思ったんだろう。だから『ご苦労さま』と言ったんじゃないかな」
「ゴミじゃないですよ」
と長谷川は前を向いたまま静かに言った。私は本格的にウトウトしながら、長谷川のことを見た。眠気のせいだろうか、普段よりも少し優しく見えた。
「だって私たちの仕事は残されたものを社会に還元しているんですから。その過程で田中さんが価値を感じて集めた人形だって、田中さんの思い入れを含めて価値あるものとして、また誰かの手に渡るんです。……無駄なんかじゃないですよ」
眠気が本格的になっていた。フィギュアについて何か言うのは諦めた。
「……まあ、そうとも言えるか。そう思いたい気持ちもあるよ」
「あります、きっと」
とそうきっぱり言うと、彼女は私を見て、
「もし伊藤さんが一人で死んだら。伊藤さんが大事にしてたもの、大切に思っていたものは、私がきちんと次の誰かに繋げていきますから」
と言った。その言葉が温かく、なんだか嬉しかった。ちゃんと答えたほうがいいと思ったが、
「ありがとう。そりゃあ、理想の孤独死だ」
と答えるのが精一杯だった。そこで私は寝ていた。この後に起きることを考えたら、そのまま死んでもよかった。
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