第百八話 エピローグ 二
それから一年半が経った。結局、私や長谷川、上杉、佐藤に対する起訴は全て取り下げられていた。長谷川は事件後にできた、LPT契約者を救済するための公的団体で活動をしていた。佐藤は彼女の予想通り、ライフエンディグ・データ機構(LED)に移籍し、事件の後始末に従事していた。上杉は今もまだ入院していて、堤は相変わらず行方不明だった。
私と言えば、時折、LPT特調委やAIに関する倫理会議にオブザーバーとして招かれることを除けば、ぼんやりとした日々を過ごしていた。目減りしていく貯金を見るのは憂鬱だったが、何をする気にもならず、散歩とネット配信を見る隙間に、事件について自分なりにまとめた文章を、物理的なノートに書くくらいだった。今でも事件の生き証人として、地上波、ネットを問わずオファーがあり、そのなかには出版社からのものも少なくなかったが、全部丁重に断っていた。人前に出る気はなく、ノートも自分のためのもので、誰かに見せる気はなかった。田中のノートは重要な証拠として、特調委の下で管理されていた。
田中による堤の秘密の暴露と、堤が仕掛けた先端医療技術の破壊は、文字通り世界を激震させた。一年半経った今でも、関連ニュースがネットをそれなりに賑わせていた。
しかし全体としては幕引き傾向となっていた。一時は世界中のリーダーの首がすげ替えられる気配もあったが、ちょうど『盾』によって消された二〇パーセント分の人々は、証拠不十分ということで不起訴となり、彼らは声高に「捏造だ!」と主張した。その結果、八〇パーセントの下位の人々を対象とした、史上稀なるトカゲのしっぽ切りが行われることになった。それでも世界は回っていた。多少の入れ替えはあったが、もともとこの世界は、生き残った二〇パーセント程度の人が動かしていたのだ。変わるはずもなかった。
当初、「数十年単位で歴史が巻き戻った」と言われた先端医療技術への被害も、この頃になると、甚大であるが致命的ではないことが明らかになっていた。それどころか、これまで互いに隠し持っていた技術が白日の下に晒されることになり、一部の分野ではこれを契機に、次の段階に進む起爆剤となっていた。また、失われた十一パーセントを補完するために最も大きな力となったのは、AIだった。皮肉なことに、弱いAIが引き起こしたこの事件をきっかけに、停滞気味だったAI業界が活力を取り戻していた。彼らは、「AIによる、こうしたカタストロフィを防ぐためには、自律的に善悪や是非が判断できる、強いAIが必要だ」と主張していた。それを聞いた私は、プラズマライフルを持つ銀色の骸骨の姿しか浮かばず、暗澹たる気持ちになった。
我々の行動も、不起訴という結果とは別に、議論の対象となっていた。支持者、不支持者はもちろん、採るべきだった別の道を主張する者と様々だったが、ネットに並ぶ悪罵の量は、来世の分まで賄えるほどだった。それでも最初はできるだけ目に入らないように過ごしていたが、これも限界があり、結局、特調委から勧められたカウンセリングを受けることになった。知らない者からの一方的な攻撃と、デジタルタトゥーの恐ろしさは想像以上だった。
その間も私たちは時折連絡は取り合っていたが、三人が直接会ったのは、あの日が最後だった。それがどんなに奇妙な日常でも、一旦その流れに乗ってしまうと、それまでの日々は嘘のように遠くなった。一度、自転車に乗れるようになった後、乗れなかった時が思い出せないようなものだ。日常が夕闇のように、私たちの周りを包み始めていた。
そんな時、田中が残した最後の謎が、文字通り空から降ってきた。
※ ※ ※
最初に気がついたのはオーストラリアで農家を営むオリバー・ムーアだった。一日の仕事を終えた彼は、日課である無線機に向かうといつものように空を行き交う声に耳を傾けた。実際にはSDR(Software Defined Radio)と呼ばれるソフトを使い、電波を可視化しているので、「目を凝らしていた」というべきだろう。
モニターの中で、電波が滝のように上から下へ流れていく様子を眺めていたムーア氏は、通常使われているバンドプランから少し離れたところに、一本の見慣れない電波を表す線があることに気がついた。それは電波天文業務のために割り当てられた周波数帯で、危険ではないが、何か異常なことが起きていることは分かった。早速、興味を持ったムーア氏がその電波に注目すると、それがHF(短波)無線であり、切れなくずっと続いていることからも通常の会話ではなく、機械的なビーコンであることが分かった。益々興味を持った彼が実際にその周波数に合わせたところ、聞こえてきたのはトン・ツー・ツー・トンというモールス信号だった。
同じ頃、ハワイのジェミニ天文台に務めるマウリシオ・ブガリンもまた、その奇妙な信号に気がついていた。(また、誰かの悪戯か)と思いつつ信号の記録を取り始めてすぐに、その異常さにギョッとした。その信号は衛星軌道上から放たれたものだったのだ。
彼は上司に連絡するとともに、当該衛星の特定作業に移った。作業開始から一時間後、発信源が一九九〇年代後半に日本が打ち上げた科学衛星『すざく』であることが確認された。
それから数時間後、自分たちが観測した情報の精度に確信が持てた機関から順番に、JAXAへの問い合わせが始まった。最初の問い合わせから数分後には、JAXAには世界中の天文台、NASA、EST(欧州宇宙機関)、各種メディア、そしてアマチュア無線家から連絡が殺到した。JAXAとしては、当事者ですら忘れていた衛星のことで、そこから意味不明なモールス信号が出ていると言われても困惑するだけだった。しかし確認してみると確かに『すざく』からは信号が出ていた。慌てて信号を停止しようとリモートコントロールを試みるが、『すざく』がこの命令に従うことはなかった。
無論、田中の仕業だった。
この頃になると、あるアマチュア無線家から「これはモールス信号ではなく、バイナリーコードではないか?」という指摘が上がっていた。つまりトンは1、ツーは0だというのだ。そして信号の数が一〇〇〇〇であることから、これを一〇〇×一〇〇のマス目に当てはめることでQRコードが現れたというのだ。
最初、QRコードを読んでも何も起こらなかった。しかし、コードを実行する者が増えるに従って、世界中に散らばったデータサーバで何かが起動し始めた。やがてそれは世界中に分散された無数のデータとプログラムが覚醒し、一つのドキュメントファイルとなってそれぞれの端末に現れた。その内容は二年前のあの事件の際に、『盾』に消された二〇パーセントを含む、田中のLPTに対する告発文の完全版だった。
既に八割が公開された内容ではあったが、それでも残り二割に記されていた内容は十分衝撃的だった。そこにはLPT・堤が、いかにして各国の医療、AI、物理学などといった先端技術のコアに深く侵入したのか、政府要人やグローバル経済を主導する人物をコントロールした方法、更に詳細な臓器販売のネットワークと有力者たちとの関係など、未完だったピースを全て埋めるものだった。
人々は堤の立てた計画の闇の深さに改めて慄然とした。
もっとも、一番ショックだったのは、逃げ切れたと思っていた二〇パーセントの人々だろう。世界中が再びパニックに陥った。それは前回よりも深刻な、可塑性の衝撃だった。
今度こそ世界の形が変わった。
またそうした実際的な告発内容とは別に、田中自身がどうしてこんな計画を立てるに至ったかについて語られていた。その内容は、彼の陰謀論が色濃く反映されたもので、必ずしも正鵠を射ていたわけではなかったが、腑に落ちることも多かった。その一方で、新たな謎も生まれることになった。
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