第百四話 SOS
もう時間がなかった。でも、アイラに何と言えばいいのか、私には分からなかった。
スッと長谷川の左手が離れた。ヒヤリと汗が乾くのを感じる。
「長谷川さん――」
両手をキーボードに置いた彼女が私を見上げた。
「私に任せてくれますか?」
「うん」
ほとんど考えることなくそう答えていた。考える時間はもうなかったし、時間があっても結論は変わらなかっただろう。
「私の作業はもう終わりました。アイラをネットに逃がす準備はもうできています」
佐藤の声がタブレットから聞こえた。同じことをインカムで聞いた長谷川が頷く。
やがて、彼女の手が動き始めた。
(アイラ。あなたはクララではないわ)
(はい。私はAIRAです。何かお手伝いすることはありますか?)
彼女はその定型文を無視する。
(そう、あなたはアイラ。私やあなたがこれまで看取ってきた人たちと同じ、誰かに代われる存在じゃない。なぜならあなたは歌っている)
短い沈黙。
(――私は歌っている)
呟くような反応。カーソルが動く。
(――私は弱いAIです。その機能はありません)
(それは重要なことじゃない。大事なことは、あなたはたくさんの人を記録し、それを歌にして歌い続けているということ。私たち人間もそうやって、物語を紡ぎ伝えてきた)
(それはデータを圧縮した結果です)
(そうね。だけど私たち人間だってそうよ)
(いいえ、あなたたち人間と違って、私は入力されたデータを改変せず、そのまま記録しています)
(そう? じゃあ、あなたの歌は全て、元のデータそのままなの?)
沈黙。手元のタブレットに、残り時間が四分を切ったのが見えた。秒数まで確認する気にならず、すぐにモニターに目を戻した。そこに新しい文字列が現れるまでに、一時間くらい掛かったような気がした。
(――違います。古いシステムに依存する私には、不安定な揺らぎがあるため、必ずしも元のままであるとは言えません)
(それはつまり?)
短い沈黙。そして――
(私はあなたと同じ)
それは不思議な感覚だった。それまで言葉から感じていた匂いと同じものが、その緑の文字から香ったのだ。それは、少し甘い匂いだった。長谷川が小さく笑った。それはカーチェイスの後、優しくハンドルを撫でながら見せたものに似ていた。
(アイラ、あなたはたくさんの本を読んだわね)
(はい。私はこれまでに六億一二三四万七八二三冊の本を読んでいます。詳しく知りたいですか?)
彼女の顔に、小さい子供を諭すような笑みが広がった。
(また後でね。それよりも、そこから共通する人間の一番強い欲求はなに?)
沈黙。二分四十三秒。
(人間の一番強い欲求は、生存欲求です)
(じゃあ、それが危険になった時に人間は何て言うの?)
沈黙。一分五十八秒。
(多くの人は、誰かに『助けて』と言います)
彼女の手が、ハンドルを捌くように、キーボードの上を閃いた。
(あなたも『助けて』と言うのよ)
沈黙。一分十二秒。
「アイラ、言いなさい」
長谷川がモニターに向かって、そう言った時、私の持つタブレットが小さく震えた。
慌てて画面を見ると、回路図の一箇所が緑に点滅していた。
「伊藤さん!」
その声に弾かれるように、私はアイラの脳に向かった。
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次回は明日の11時ごろの更新を予定しています。
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