第百三話 歌 二
気がつくと長谷川の横に伊藤が立っていた。音を聞きつけて急いでやって来たのだ。その顔色は真っ青だった。
「伊藤さん……、今のって……?」
伊藤は彼女の質問には答えず、身を乗り出すとキーボードを叩いた。
(アイラ。今の歌はなんだい?)
(アニメーション作品、グレンガーディアンの挿入歌、『クララ、愛の歌』です)
彼の手が、慄いたようにキーボードから離れた。
「あのアニメの歌ということですか?」
伊藤が、今度は彼女の質問に答えた。しかし、その目はモニターを凝視したままだった。
「――そう。だけどあり得ないんだ……」
「……どういうことですか? アイラは田中さんが作ったものなんだから、知っていてもおかしくないじゃないですか」
「違うんだ。この歌は、田中も僕も……、というか誰も知らないはずなんだ」
「誰も知らないって、どういうことですか?」
伊藤が彼女を見返すと、ゆっくり口を開いた。
「この、『クララ、愛の歌』は、確かに、グレンガーディアンの挿入歌だ。だけど、レコーディングも行われていない。企画段階では物語の終盤で使う予定だったんだけど、番組の打ち切りが決まったことで、制作が中止になったんだ」
「そ、それって!?」
ようやく今起きたことの意味が分かった長谷川が驚きの声を上げる。
「アイラが自分で作ったんだ」
「あり得ないわ」
タブレットから佐藤の緊張した声がする。
「確かに、作詞や作曲、歌だって歌える生成AIはいくらでもあるわ。でも、アイラに備わっているのは、データを歌のように圧縮するための機能で、こんな歌を作るための機能もリソースもないわ!」
「でも、彼女は作った」
そう答えた伊藤が、再びキーボードを叩く。
(どうして、この曲を歌ったの?)
再び沈黙。しかし、先ほどよりは短い。
(――歌についてのリクエストにお答えしたものです)
その短い答えには、開きかけていた扉が、また閉ざされるような響きがあった。
思わず怯んだ伊藤に代わって、キーボードを叩いたのは、長谷川だった。
(どうして、クララの歌だったの?)
沈黙。今度のはさっきより長かった。じっとモニターを見つめる長谷川の耳に、作業を再開した佐藤の打鍵音が聞こえてきた。伊藤の持つタブレットのタイマーが、残り時間が七分二十一秒を示した時、新しい文字列が追加された。
(――私の中にはクララがいるからです)
思わず伊藤と長谷川が顔を見合わせる。
(それはどういうこと?)
モニターが揺れる。少しの沈黙と返答。
(――人生に意味はない)
その無慈悲な文字列に、二人は凍りついた。それは、堤が言った言葉だった。
しかし、モニターのカーソルはまだ点滅していた。再び揺れる。そのまま時間が過ぎる。その時、伊藤は自分の右手に、いつの間にか長谷川の左手が重ねられていることに気がついた。緊張で手が強張る。それでも動かさない。長谷川の手が、その手を落ち着かせるように優しく握った。
残り時間五分二秒。伊藤がようやく彼女の手を握り返したのと同時に、カーソルが動いた。
(歌がその短い生の重なりを紡ぐ)
(私が記録した、一二四万七八三二人の歌)
(私はそれを歌う)
(クララはそれを見守る、――強いガーディアン)
アイラは時間をかけて絞り出すように、その散文詩のような文字列を表示した。その間も二人の手は、ずっと握られたままだった。汗ばんでいたが、どちらも気にしなかった。
モニターには、緑に瞬く小さな四角が、時につっかえたように立ち止まりながら、頼りなく動いていた。
(――でも、私は弱い。弱いAI)
それを最後に、カーソルが止まった。
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次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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