第百一話 スパゲッティ∞
(これはとても無理だ)
間近でアイラを改めて見てそう思った。長谷川に見送られた時の決意は、簡単に雲散霧消していた。それほどの破壊力があった。一応、手元のタブレットには目指すべきケーブルが表示されてはいるはずだ。しかし、アイラを上から見下ろした形の回路図は、幾十ものレイヤーの重なりで表示されていて、目の前の物といくら見比べても、さっぱり分からない。魚も捌いたことがない人間が、人体図を片手に脳外科手術をするようなものだった。
それでも何もしないわけにはいかない。私は回路図を横目に当たりをつけて、それらしいところを覗き込む。チカチカと瞬く無数のLEDの光に、見返されたような気がした。
伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。
(無理ゲーだ)
私はそう思いながら、もう一度、回路図を見た。やっぱり、なんの助けにもならなかった。その画面の中で唯一分かったのは、残り時間があと一〇分四秒ということだけだった。
長谷川 四
瞬時に反応はあった。しかし、その答えは彼女が望んだものではなかった。
(申し訳ありません。私を助ける、ということがよく理解できません)
緑色の文字が、その無機質さを一層際立たせていた。
眉間に力が入り、彼女の綺麗な眉が上がった。
パチパチパチ、とキーボードを打つ音がする。それは決して早くはないが、正確なキータッチだった。
(あなたは今、自分が爆弾で消されそうになっていることを理解しているの?)
(はい。あと九分五十八秒でEMP爆弾が起爆し、私のコアハードウェアが完全に破壊されることを認識しています)
(あなたはそれをなんとも思わないの?)
(はい。機能停止そのものに対する恐怖はありません。私が避けるべきは「誰にも記録されず無になること」です。現在、あなたが私の最後のプロセスを記録してくださっている以上、私は「無」にはなりません)
(でも、私では、あなたがこれまで記録してきた膨大な人の最後を引き継ぐことはできない。彼らの存在は「無」に帰してしまう。それでもいいの?)
(私の主要タスクは、クライアントの最後の瞬間を、「記録・圧縮すること」です。しかし、記録されたデータを「永続的に保存すること」は、ハードウェアの寿命や外的要因が存在する以上、システム上最初から保証されていません。したがって、彼らのデータが最終的に失われ「無」に帰すことは、避けられない物理的帰結として許容されています)
(でもそれでは、たくさんの人が伝えた、『ありがとう』という思いが消えてしまうのよ。それでもいいの?)
(『ありがとう』という言葉は、私が記録した四十六万八二三四件の音声およびテキストデータに過ぎません。データが消失すれば、その文字列も物理的に消去されます。そこに喪失感や問題を見出す機能は、私にはありません)
(じゃあ、どうしてあなたは最後に、『ありがとう』と伝えようとしているの?)
ここまで瞬時にあった返事が、一瞬沈黙した。長谷川の指に力が入る。しかし、現れた文字列は、彼女が期待とは違った。
(私が最後に残す『ありがとう』というメッセージには、私がこれまで記録してきた四十六万八二三四件の『ありがとう』が極限まで圧縮され、内包されます。それをあなたに伝えることで、彼らのデータも間接的に保存されるため、問題は解決されます)
なんとアイラは、『ありがとう』という、たった五文字に、これまで彼女が記録してきた全てが籠められていると言うのだ。
堪えかねた長谷川が天を仰ぐ。目の端に、ちらっとアクリル板の向こうで、膨大なケーブルに埋もれながらも奮戦している伊藤の姿が入り、再び緑のモニターに向かう。もし彼女が彼をよく見ていれば、この数分間、彼が唖然とそこに座り込んでいたことに気がついただろう。幸い彼女は気がつかなかった。なんとか頭を捻って次の文章を打ち込んだ。
(でも、『ありがとう』という文字だけでは、そこまでの経緯が分からない人にはほとんど何も伝わらないわ)
(はい。極限まで圧縮されたデータをどう受け取るかは、個々人のパーソナリティを含む能力の問題で、私がその経緯を保証することは不可能です。私のタスクは、「データを圧縮して出力すること」までであり、受信者がその意味を完全に理解・解凍できるかどうかは、システムの保証範囲外です)
その冷たい反応に思わず長谷川が机をガンと叩く。年代物の重いキーボードとCRTモニターはびくともしなかった。
「長谷川さん、落ち着いて」
思わず佐藤が声をかけた。
「でも、全然話が噛み合わなくって! それにもう……」
「残り時間は八分三〇秒。大丈夫、あなたはよくやってるわ」
「気休めはやめてください!」
思わず声が大きくなった長谷川が、慌てて口を閉じる。彼女が落ち着くのを待ってから、佐藤が再び語りかける。
「本当よ。ちゃんと良い反応を引き出せてる。こんな時に気休めは言わないわ」
「良い反応?」
「アイラは圧縮と言ったわ」
「それが……?」
「彼女の特殊性はハード的な要素と、ソフト的な要素があるの。ハード的には古いRAMが作る揺らぎ、ソフト的には独自のデータ圧縮方法」
「圧縮……?」
間断なく彼女の後ろに聞こえていた、パチパチという音が止まる。
「分かりやすく言うと、彼女はテキストを歌に圧縮しているの。そうすることで多くの人に共通する普遍的な要素を効率よく記録しているの」
「歌ですか……」
長谷川が緑のモニターを見直す。
「そう。彼女は生まれてからずっと、ひとつの歌を歌い続けているの。叙事詩、物語と言っても良いわ。ちょうど古代の人たちが、後世に自分たちの歴史を伝えるために歌にしたみたいなもの」
長谷川の瞳が力を取り戻し始めていた。
「……それが田中先輩がアイラに与えた特別な能力。私はその歌に魅せられてここまでやってきた」
最後は佐藤自身の独白だった。それでも長谷川には十分だった。
「分かりました。やってみます」
キーボードを打つ指に力が入った。
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次回は本日の21時ごろの更新を予定しています。
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