第38話 ブレイクポイント
その夜の着信は、いつもより早かった。
《薄桃の庵 ミルティア》
受けた瞬間、分かった。
泣いている。
《レイナ、さん……》
「……どうした」
《ごめんなさい、こんな、泣いたりして……でも、他に、話せる人がいなくて……》
声が、震えていた。過呼吸の手前の、浅い息継ぎが混ざっている。
「落ち着いて話せ。何があった」
少しの間、泣き声だけが続いた。それから、途切れ途切れに、言葉が来た。
《……昨日の夜、対戦申請が、来たんです》
「申請」
《……精霊の遊庭から》
レイナの思考が、一瞬、止まった。
《私、前に……ルナリアさんに、お願いしたことがあったんです。怖い話ばっかりだったから……何があっても、私とは戦わないって、約束してほしいって……》
声が、また崩れた。
《……断られました。約束は、できないって。それでも、私、信じてたんです。あの人は、優しい人だって……なのに……》
なのに、申請が来た。
レイナは、目を閉じて、情報を並べた。
精霊の遊庭が、初めて、自分から申請する側に回った。
相手は、407位。戦闘の記録が、一つもない箱庭。
勝敗は、考えるまでもない。
対戦ゼロで407位、という数字の作られ方に、思考が一瞬だけ引っかかった。引っかかって——今は、それどころではない、と処理された。
「……申請は、今、どうなっている」
《……断りました。勝手に、ごめんなさい。ポイントが減っても、戦うなんて、無理で……怖くて、すぐ……》
断った。
つまり、申請の画面は、もう存在しない。拒否された申請は、記録に残らない。
物証は、最初から、ない形でこの話は来た。
残っているのは、ミルティアの証言だけ。
レイナの中の、検証の手順が、自動的に立ち上がった。
確認の方法は、一つだけ残っている。当事者の、もう片方。精霊の遊庭、本人。回線は、まだ生きている。発信して、聞けばいい。あなたは薄桃の庵に申請したのか、と。
指が、通信欄へ動きかけた。
《……レイナさん?》
涙声が、耳元で揺れた。
《ごめんなさい、変なこと話して……疑いたく、なかったんです、私……ずっと、いい人だって、思いたくて……》
指が、止まった。
今、ルナリアに確認を取るということ。
それは、泣いているこの子の証言を、疑うということだ。
噂に晒されて、それでも自分との通信を「大事な時間」と言ってくれた子に、証拠を出せと言うのと、同じことだ。
それに——もし、万に一つ、噂の側が正しいのなら。
この確認の通信は、「次の標的が、自分から名乗り出る」のと同じ意味を持つ。
レイナは、通信欄から、指を離した。
確認は、しなかった。
データを取る手段は、あった。取れば、確定する。白か、黒か。
取らなかった。
取らないという選択を、レイナは、生まれて初めて、した。
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通信を終えたあと、レイナは一人で、計算をした。
説の真偽は、不明のままだ。ミルティアの証言は、検証していない。だから、これは確定情報ではない。
確定情報ではない。それは、分かっている。
その上で、期待値の計算をする。
精霊の遊庭が、噂の通りの存在である確率を、仮にpと置く。
pの値は、分からない。データが足りない。ずっと、足りないままだった。
でも、判断に必要なのは、pの正確な値ではない。
繋がり続けた場合の、期待損失。切った場合の、期待損失。その比較だけだ。
繋がり続ける便益:検証可能性の維持。あの未構築の説明モデルを、いつか埋められるかもしれない、唯一の回線。
繋がり続ける損失:pが真であった場合——次の申請先。自分。あるいは、ミルティア。
ミルティア。
その名前が計算に入った瞬間、天秤は、音を立てて傾いた。
切る場合の損失は、検証可能性の喪失。つまり、あの項目が、永遠に《未構築》のまま残ること。
知りたいという欲求と、守りたいという欲求。
観測の人間として生きてきた自分が、観測を捨てる側に、重みを置いている。
その事実を、レイナは、正確に認識していた。
認識した上で、実行した。
《精霊の遊庭:受信拒否》
設定の確認画面が出た。
《この操作により、当該ダンジョンマスターとの通信は双方向で遮断されます。よろしいですか》
はい、を押した。
通信欄から、名前が一つ、消えた。
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画面を閉じて、レイナは、コアの間の静けさの中に座っていた。
正しい判断だった。期待値の計算に、誤りはない。
ないはずだった。
なのに、座っているだけの体の奥で、何かが、ゆっくりと軋み続けていた。
保留を、手放した。
データが足りないまま、結論を出した。十人の断定を笑えない。検証せずに人を判定する——自分が、この世界で一番軽蔑してきたやり方を、今夜、自分がやった。
違う。あれは期待値の計算だ。判定ではない。リスク管理だ。
そう反論する声も、自分の中にある。
でも、もう一つの声が、静かに問うてくる。
観測は、二回分あった。穏やかな声。消した相手の最後の言葉を抱え続けていた人。あの観測と、今夜の判断は、両立しない。
観測が間違っていたのなら——自分の目は、信用できない。
判断が間違っているのなら——自分の計算は、信用できない。
どちらかが、確実に、間違っている。
今までの人生で、観測と計算は、いつも同じ方向を指していた。二つが揃っている限り、レイナは何も恐れずに済んだ。それが、レイナの背骨だった。
今夜、初めて、二つが別々の方向を指した。
そして自分は、観測を捨てた。
背骨の片方を、自分の手で折った。
どちらに体重をかければいいのか、分からなくなった。
判断の軸が、初めて、自分を支えなかった。
着信音が、鳴った。
《薄桃の庵 ミルティア》
指が、受けた。
《レイナさん……あの、大丈夫ですか。さっき、なんだか、様子が》
「……問題ない」
《……私のせいで、ごめんなさい。私が、あんな話をしたから……》
「あなたのせいではない。判断は、私がした」
《……レイナさんは、悪くないですよ》
その声は、柔らかくて、確信に満ちていた。
《レイナさんは、何も悪くない。ちゃんと、考えて、決めたんだから。……誰よりも、ちゃんと考える人だから》
悪くない。
その判定を、自分の外の誰かが、してくれた。
自分の中の二つの声は、まだ言い争っている。どちらが正しいのか、自分では、もう決められない。
でも、この声は、決めてくれる。
考えられなくなった自分の代わりに、考えてくれる。
その楽さに、レイナは、静かに、もたれた。
《……今日は、もう休んでください。私、レイナさんが眠るまで、繋いでますから》
「……ああ」
通信は、繋がったままだった。
切れた回線が一つ。繋がったままの回線が、一つ。
レイナの世界に、その夜、月はなくなった。
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同じ夜。精霊の遊庭。
ルナリアは、コアの間で通信欄を開いていた。
表示されているのは、紅理の苑の名前だった。
ずっと、気になっていた。掲示板で、レイナさんも叩かれていた。執着だとか、人質だとか、勝手な言葉を並べられて。
あの時は、かけられなかった。勝った直後の人に触れるのは違う、と思って、やめた。
でも、今は違う。叩かれている者同士だ。大丈夫ですか、の一言くらい、送ってもいいはずだ。
シエルさんの声を、思い出す。まともな視線は、ちゃんとある。なら、自分も、誰かにとってのそれになれるかもしれない。
「よし」
発信を、押した。
一秒。
画面に、見たことのない表示が出た。
《この通信は、接続できません》
「……え?」
もう一度、押した。
《この通信は、接続できません》
「コアさん、これって」
「……相手側の設定により、通信が遮断されています」
「遮断……って、拒否されてるってこと?」
「……はい」
ルナリアは、画面を見つめた。
レイナさんに、拒否されている。
いつから。どうして。
最後に話したのは、あの観測の通信だ。《確認したいことがある》って、まっすぐ聞いてきて、対戦の重さの話をして、少しだけ楽になったと言ってくれて、静かに切れた。悪い終わり方じゃ、なかったはずだ。
なのに。
理由の分からないまま、回線だけが、切れていた。
「……なんで」
答えられる人は、この部屋にいなかった。
コハクが、心配そうに膝へ前足をかけた。その頭を撫でながら、ルナリアはもう一度だけ、発信を押した。
《この通信は、接続できません》
同じ表示だけが、返ってきた。




