第37話 シグナル
ダンフェスの翌日、ルナリアは管理画面の前にいた。
《Dランク昇格報酬:SP+30》
受け取りを済ませると、残高の表示が変わった。
《SP残高:56》
「……ごじゅうろく」
過去最大だった。コツコツ貯めて、対戦で増えて、昇格で跳ねた。
使い道は、もう決めている。コアさんのレベルだ。
レベルの画面を開いた。
《DコアLv:4》
その下に、次のレベルの項目が——なかった。
「……あれ?」
Lv4の表示の下は、ただの余白だった。Lv5という文字が、どこにもない。
「コアさん、次のレベルって、ないの?」
「……現在、表示されていません」
「え、コアさんのレベルって、4で終わりなの?」
「……不明です」
不明です、って。自分のことなのに。
せっかく貯めたSPの使い道が、宙に浮いた。
首を捻った、その時だった。
着信音が鳴った。
《白氷獄の宮 シエル》
「……通話?」
ルナリアは、画面を二度見した。
シエルさんとのやり取りは、いつも文字だった。打って、消して、また打って——あの慎重な人が、通話を、かけてきている。
レベルの謎は、後だ。
ルナリアは、少しだけ姿勢を正してから、受けた。
「シエルさん」
《……ルナリア》
初めて聞く声は、記憶の中の印象より少しだけ高くて、そして、低く抑えられていた。
《一つだけ、聞かせて。この半年、何をしたの》
「え、えっと……何、って言われると」
《私は堅く積んだ。取りこぼしは一つもなかった。八つ上げた。文句のない半年だったわ。——昨日までは》
早口だった。怒っているというより、整理が追いついていない人の速さだった。
《三十三よ。あなた、三十三上げたの。何をどうしたらEランクで三十三も動くのよ》
「た、対戦が二つあって、それで」
《知ってる。それも込みで計算が合わないって言ってるの》
シエルは、そこで一度、大きく息を吐いた。
《……一位差。この私が、一位差で下なのよ。分かる? この気持ち》
「……えっと」
《しかもランクまで並ばれた。半年前、私が先にDに上がった時、正直ちょっと安心してたのよ。ああ、まだ差はあるって。……その差、半年で消えたわ》
「……ごめんなさい」
《謝らないで。余計に腹が立つ》
少しの沈黙のあと、シエルの声が、ふっと緩んだ。
《……でも、まあ。あなたが積んできたのは、順位を見てれば分かる》
「順位、だけで?」
《順位だけで、よ。私はあなたの数字を、デビューからずっと追ってる。あなたの上がり方はね、ずっと不器用なの。急がない。跳ねない。綺麗に積む人の動きでもない。ジグザグで、遠回りで——でも、落ちたことだけは、一度もない》
呆れたような、少しだけ柔らかい声だった。
《ああいう順位の動き方をする人が、どういう運営をしてるかくらい、想像がつくのよ。……こっちは隣で、ずっと比べられてきたんだから》
それから、シエルの声が、また硬くなった。
《……掲示板、見た?》
「……うん」
《あの説、どう思う》
「どう、って……」
《私はね、一秒で捨てたわ》
シエルは、きっぱりと言った。
《弱みを握って、申請させて、受けた側の顔をする? 笑わせないで。あなたにそんな器用な悪事ができるなら、私はもっと早くに抜かれてたわよ。それも、こんな正面からじゃなく、もっと楽な方法でね》
「……シエルさん」
《それにね、思い出したのよ。あなたの噂、前にもあったの。覚えてる? ——侵入者を観察しすぎ。やたら待つダンジョンマスターがいる、って》
「……あ」
《私、あれであなたに興味を持ったの。変な人だって。……で、今度の噂は何? 弱みを握って、罠に嵌めて、申請させる策士?》
シエルは、鼻で笑った。
《やたら待つ人と、人を嵌める策士。正反対じゃない。二つの噂は、同時には成立しないのよ。どっちかが噓。そして私は、「待つ」方は自分の目で確かめてる。……あの説を書いてる連中は、去年の噂すら覚えてない》
鼻の奥が、つんとした。
噂じゃなくて、順位で。憶測じゃなくて、観測で。
この人は、ずっと、ちゃんと見ていてくれた。
「……ありがとう」
《礼を言われる筋合いはないわ。事実を言っただけ》
どこかで聞いたような台詞に、ルナリアは少しだけ笑ってしまった。
《でも——だからこそ、言っておく》
シエルの声が、真剣な温度になった。
《説を信じてる側は、本気よ。ああいうのはね、否定する材料がないから強いの。あなたが何をしても「そういう手口だ」で説明されてしまう。……気をつけなさい。次の申請が来ても、迂闊に受けないこと》
「……うん」
《それと、私は次で抜き返す。三十三だろうが何だろうが、知ったことじゃないわ。首を洗って待ってなさい》
「ふふ……うん。待ってる」
《何よその余裕。ムカつくわね》
言葉と裏腹に、声は笑っていた。
「あのね、シエルさん」
《何よ》
「今日、初めて声聞いた。……嬉しかった」
少しの、沈黙があった。
《…………文字だと、打ち直せるでしょ。今日は、打ち直してる時間が惜しかっただけよ》
早口でそう言って、通信は切れた。
ルナリアは、しばらく画面を見ていた。
まだらな世界の中に、まともな視線が、ちゃんとある。
それだけで、今日は息がしやすかった。
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同じ頃。紅理の苑。
レイナは、三日前から、一つの検証を続けていた。
検証項目:ミルティアへの発信を控えた場合の影響。
あの掲示板を見た夜、決めた。自分と繋がっていることが、あの子の重荷として語られている。なら、発信の頻度を落とすのが合理的だ。噂の材料を、減らす。
一日目。発信、なし。作業効率、体感で二割低下。判断の所要時間、平均で1.4倍。夜、着信が一件。ミルティアから。《今日、連絡なかったから……何かあったのかなって》。三分で切った。
二日目。発信、なし。作業効率、さらに低下。深夜、通信欄を開いて、閉じた。開いて、閉じた。回数、記録せず。
三日目。
今日だ。
レイナは、通信欄の前で、静止していた。
発信を控える。合理的判断だった。ミルティアのための、正しい選択のはずだった。
なのに、三日目の夜には、指が勝手に画面へ動いている。
これは、何だ。
名前は、つけなかった。
着信が、来た。
《薄桃の庵 ミルティア》
指が、迷わず受けた。
《レイナさん……あの、ごめんなさい、私からかけちゃって》
「……いや」
《あのね、私、気づいたんです。レイナさん、掲示板のあれ、気にしてるんじゃないかって……それで連絡、控えてくれてるんじゃないかって》
図星だった。
三日分の検証を、一言で言い当てられた。
《あのね、レイナさん。私は、平気です》
ミルティアの声は、静かで、まっすぐだった。
《誰が何て言っても、私が本当のことを知ってます。レイナさんは、私に執着なんてしてない。ただ、毎日お話ししてくれてるだけ。それのどこが悪いのか、私、全然分かんないです》
「……噂は、事実で構成されている。毎晩の通信は、事実だ」
《事実でも、意味が違います》
ミルティアは、少しだけ強い声で言った。
《レイナさんとの毎日の通信は、私の……私の、大事な時間です。それを、知らない人の言葉のために、やめないでください》
大事な時間。
その言葉が、胸の奥の、三日間ずっと軋んでいた場所に、落ちた。
《……だめ、ですか?》
「……いや」
レイナは、目を閉じた。
「……控えるのは、やめる。検証の結果、非効率だと分かった」
《ふふ。レイナさんらしい》
いつもの温度が、通信の向こうに戻ってきた。
レイナは、その温度を確認しながら、頭の隅で、今日の記録をつけた。
検証結果:発信制限は継続不要。理由:——
不要、と打った。不能、ではなく。
理由の欄は、空白のまま、閉じた。
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その夜、遅く。
通信欄に、通知が一つ灯った。
《鉄咬の穴 ガルド》
あの名前だった。ヴェルク戦の少し前、接点もないのに《消えろ》と送ってきた男。
開いた。
《まだ薄桃の庵に張り付いてるのか。いい加減にしろ。あの子まで壊す気か。みんな見てるぞ》
名前を、隠してもいなかった。
隠す必要がない、と思っている。それだけの数が、自分の側にいると思っている。
あの子まで、壊す気か。
壊す。自分が。ミルティアを。
その文の中で、自分は加害者の位置に置かれていた。守られるべき側に、ミルティアが。壊す側に、自分が。
レイナは、その文面を、三度読んだ。
みんなとは、誰だ。何人だ。どこから見ている。
問いはすべて、答えのない場所に吸い込まれていく。
観測できないものは、分析できない。
分析できないものには、対処できない。
あの夜と同じ結論の前で、レイナは、静かに画面を閉じた。
閉じてから、気づいた。
この文面を、ミルティアに話すかどうか、もう考え始めている自分に。
話せば、あの子は心配する。話さなければ、一人で抱えることになる。
天秤は、考えるより先に、傾いていた。
保留、と記録した項目の一覧を、レイナは久しぶりに開いた。
一番上に、あの項目があった。
《四人の申請の説明モデル:未構築》
保留のまま、動いていない。
動かせないのだ。当事者は、一人しか残っていない。精霊の遊庭、本人。
でも、今、あの回線を開けば——「執着」の的にされている自分が、「危険」の的にされている相手と繋がれば、噂は二つ合わさって、一つの物語になる。
唯一の検証手段が、社会的に封じられている。
保留は、いつまで保留のままでいられるのか。
その問いも、保留した。
通信欄では、ミルティアの名前が、今日も一番上にあった。
その名前を押すことさえ、もう、誰かの話の材料になる。
分かっていて、レイナは今夜も、その名前を押した。




