第35話 輪の命運
正午の少し前、視界が白く塗りつぶされた。
中立空間。四度目。
振り返ると、男が立っていた。
背の高い、痩せた人だった。黒い外套を着て、姿勢がまっすぐで、目が静かだった。
「ゼノア、さん」
「精霊の遊庭の、ルナリア殿ですね」
声も、静かだった。憎しみの色がない。それが、かえって怖かった。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは、うちの何を見て、危ないって思ったんですか」
ゼノアは、少しも迷わなかった。
「聞いています。あなたが、モンスターに情を移していること。効率を無視した運営をしていること。それでいて、対戦では容赦なく相手を消してきたこと」
「……誰から、聞いたんですか」
「誰から、ではありません。みんなが知っています」
みんなが、知っている。
誰も、見ていないのに。
「私は、あなたが憎いわけではない」
ゼノアは、本当に憎くなさそうな声で言った。
「ただ、あなたのような在り方が広がれば、いずれダンジョンの秩序は壊れる。だから、正す。それだけです」
この人と、話は通じない。
ルナリアの言葉は、この人には届かない。届く前に、「みんなが知っているルナリア」が受け止めてしまう。
ニルムのルール確認が流れた。制限時間、四時間。双方合意。
「恨みはありません」
転送の白に飲まれる直前、ゼノアは静かにそう言った。
「これは、正しいことなので」
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《対戦開始》
《残り時間:4:00:00》
開幕と同時に、来た。
1層目の入口から、白いものが溢れ出してきた。
骨だ。
スケルトンの群れが、通路の幅いっぱいに、押し合いながら流れ込んでくる。数えられない。数える意味がない。後ろからいくらでも続いてくる。
防衛線は、決めてあった。
1層目の最初の曲がり角。通路が一番狭くなる場所。
そこに、ブレイブが立っていた。
足元から結晶の壁が生え上がる。通路の幅が、半分になった。半分になった隙間に、ホブゴブリンの槍衾が並ぶ。その後ろにストーンゴーレムが四体、壁のように控える。
骨の波が、届いた。
先頭が槍に貫かれて崩れる。次が崩れる。その次も。骨は痛みを知らない。仲間の残骸を踏み越えて、ただ押してくる。
でも、通れない。
狭めた通路では、一度にぶつかれる数が決まっている。何百体いても、先頭に立てるのは三体だけ。
三体なら、止められる。
「そのまま! 無理に倒さなくていい、止めるだけでいいから!」
そして、こっちにも数はいた。
槍衾の頭上に、スプライトたちが二十体、ずらりと並んでいた。
エリンの妹分たち。一体一体の魔素弾は小さい。でも、二十が一斉に撃てば、話は別だった。
光の雨が、骨の波に降り注ぐ。先頭で押し合う骨が、頭から順に砕けていく。
押す側が崩れ、崩れた分だけ壁の前に積み上がる。
まれに、槍衾の脇を骨がすり抜ける。その先には、ウルフの群れが待っていた。十五頭が遊撃に散って、抜けた骨を二、三頭がかりで確実に噛み砕く。一体も、その先へは行かせない。
足元では、ラットシャドウたちが影から影へ走り回っていた。砕けた骨の欠片を咥えて、通路の脇へ運んでいく。散らばったままだと、また組み上がるかもしれない。だから、ばらして、離して、積む。地味で、確実な仕事だった。
壁で止め、雨で崩し、抜けたら狩り、残骸は片づける。
数の暴力が、狭さと連携の前で、渋滞していた。
その渋滞の中を——すう、と抜けてくるものがいた。
黒い影が、骨の波を素通りして、結晶の壁を、すり抜けた。
レイス。
二体。防衛線の内側に、音もなく現れた。
ホブゴブリンが槍を突き出した。穂先が、影を素通りする。ゴーレムの拳も、届かない。壁も、槍も、この相手には存在しないのと同じだった。
でも、配置は決めてあった。
防衛線の後ろに残した、プチエンジェル五体が、一斉に舞い上がった。
五つの小さな光が、一つに束なる。
白い光が、影を貫いた。一体が、ほどけて消えた。
もう一体が、天井近くまで逃げる。プチエンジェルたちは慌てない。追いかけて、囲んで、もう一度、光を束ねた。
二体目が、消えた。
物理の壁と、光の網。両方揃って、初めて守りになる。
「……ありがとう、みんな。ばっちりだよ」
五体が、ばらばらに宙返りした。
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同時刻、攻撃部隊は黒曜の霊廟を進んでいた。
アルス。クロ。シロ。エリン。シャドウバット八体。そして、プチエンジェルが五体。
残りの五体は、防衛に置いてきた。レイスが数体いる、とアルカナは言った。全部がこっちに出てくるとは、限らない。
地下墓地は、薄暗かった。壁の燭台に、青白い火がぽつり、ぽつりと灯っているだけ。目で見える範囲が、狭い。
でも、今回は目だけじゃなかった。
シャドウバットたちが、先行して闇に散った。反響で描かれた通路の形が、エリンの魔素感知と重なって、進むべき道を示していく。
暗がりから、ゾンビの一団が現れた。
クロとシロが左右から崩し、アルスが正面を薙ぐ。頭上からは、エリンの魔素の槍が降る。淡く光る槍が、ゾンビの列を三体まとめて縫い止めた。
連携は、いつも通りだった。相手が骨でも、腐肉でも、やることは変わらない。
変わったのは、その後だった。
倒したはずのスケルトンが、床の上で、カタカタと再び組み上がり始めた。
「……っ、また?」
砕いた骨が、寄り集まる。補充じゃない。再生だ。安い駒は、壊れても、また使われる。
アルスがもう一度砕く。もう一度、組み上がる。
このまま進めば、背後に敵が湧き続ける。
その時、通路の奥の闇が、ゆらりと揺れた。
温度が、下がった。
黒い、半透明の影。人の形をした、人でないもの。
レイス。
三体が、壁をすり抜けて現れた。
クロが飛びかかった。牙が、影を素通りした。
レイスの腕が、クロの肩を掠める。クロの体が、びくりと跳ねて後退した。触れられた場所の毛が、白く凍りついている。
牙も、爪も、通らない。
でも、通るものは、ある。
アルスが、剣を持ち替えた。
マナシルバーの刀身に、魔素が流れ込む。銀の刃が、内側から淡く発光した。
滑るように迫った一体を、アルスは正面から斬り上げた。
通った。
魔素を纏った銀が、影を両断する。レイスが、声のない絶叫を散らしてほどけた。
二体目には、頭上から槍が降った。
エリンの魔素の槍。骨を縫い止めたのと同じ槍が、影の胴を床まで貫いて、そのまま霧散させた。
物理は通らない。でも、魔素は通る。
最後の一体が、それを理解して、天井の闇へ逃げた。高い。アルスの剣も届かない位置で、次の獲物を探すように旋回する。
エリンの光が、二回、灯った。
合図じゃない。指揮だった。
プチエンジェルたちが、一斉に舞い上がった。
五体が、扇の形に広がる。小さな手のひらが、一斉に頭上のレイスへ向けられた。
一体一体の光は、小さい。蝋燭くらいの、頼りない光だ。
でも、五つの光が、空中で一つに束なった。
白い光線が、闇を貫いた。
逃げ場のない高さで、最後の影が、光に触れた端から煙のようにほどけていく。
三体、全部消えた。
プチエンジェルたちが、ぱたぱたと羽ばたきながら、互いに顔を見合わせた。自分たちのやったことに、自分たちで驚いている顔だった。
斬る剣と、貫く槍と、届かない場所を射抜く光。
初陣は、最高の先輩たちと一緒だった。
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コアの間で、ルナリアは時間を確認した。
《残り時間:2:10:44》
防衛線は、保っている。攻撃部隊は、2層目の深部まで進んだ。
でも、敵の数が、減らない。
倒しても、再生する。潰しても、奥から補充される。管理画面の敵性反応の数字は、開始からほとんど動いていなかった。
アルカナの言葉を、思い出す。
削り合いに付き合ったら、消耗はこっちだけが積む。
「……うん。付き合わない」
ルナリアは、攻撃部隊の視野に指示を送った。
全部、置いていく。
目の前の骨を砕くのをやめて、抜ける。再生する敵は、再生させておく。戻り道は、シャドウバットが覚えている。
目的地は、一つだけ。
コア。
「アルス、みんな——走って!」
アルスが先頭で駆けた。クロとシロが左右を固め、エリンとプチエンジェルが頭上を飛ぶ。組み上がりかけの骨の間を、群れが風のように抜けていく。
追ってくる敵は、置いていく。道を塞ぐ敵だけ、崩して抜ける。
3層目への階段。最後の通路。
その先に、扉が見えた。
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扉が砕けた時、ゼノアは祭壇の前に立っていた。
黒曜石のコアが、静かに浮かんでいる。
ゼノアは、逃げなかった。武器も持っていなかった。ただ、まっすぐに立って、踏み込んでくるアルスたちを見ていた。
「……速いですね。物量を、抜けてくるとは」
声は、最後まで静かだった。
「でも、これで確信しました」
ゼノアは、アルスの目の奥のルナリアに向かって、言った。
「この戦力。この判断の速さ。この、統率。——やはりあなたは、危険だ」
ルナリアは、管理画面の前で、息を呑んだ。
違う。
……違うのに。
「あなたが何と言おうと、私が見たものが全てです。私の敗北が、その証明になる」
言葉が、届かない。
勝っても、届かない。
むしろ、勝つほどに、あの偶像は大きくなっていく。
「アルス」
声が、少しだけ震えた。
「……終わらせて」
アルスの剣が、黒曜石を貫いた。
砕ける光の中で、ゼノアは最後まで、まっすぐに立っていた。
恨み言は、なかった。
その静けさが、一番、重かった。
《対戦結果:ルナリア(勝利)》
《報酬:SP+3 DP+1000》
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夜、みんなの無事を確認して、報酬の枠も開いて、それでもルナリアは、管理画面を閉じられずにいた。
誰も欠けなかった。プチエンジェルたちは初陣を果たした。ブレイブは今日も、一体も通さなかった。
完璧な勝利だった。
なのに、ゼノアの最後の言葉が、耳から離れなかった。
私の敗北が、その証明になる。
勝てば勝つほど、「危険な精霊の遊庭」は本物になっていく。
負ければ、みんなが消える。
勝っても、負けても、あの作られた話だけが、育っていく。
「……どうしたら、いいんだろう」
答えてくれる人は、いなかった。
コハクが膝の上で丸くなって、小さく寝息を立てていた。
誰かの話の中で、ルナリアは危険な精霊の遊庭だった。
でも膝の上では、ただ、コハクが眠っていた。
その温かさだけが、今は本当だった。




