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第29話 残響


 対戦の翌朝、ルナリアは1層目の視野を開いた。


 ホブゴブリン小隊が、いつもの配置についていた。


 その中に、腕に布を巻いた一体がいる。サイレントウルフの牙を受けた子だ。


「コアさん、あの子の怪我は」


「……浅い裂傷です。回復薬を使用すれば、今日中に完治します」


「回復薬、在庫まだあるよね。届けてあげて」


「……はい。ラット隊に運搬を指示します」


 しばらくして、視野の端からラットシャドウが現れた。小瓶を背負って、器用に通路を走ってくる。受け取ったホブゴブリンが薬を使うと、傷口が淡い光に包まれた。


 腕の布を自分でほどいて、傷のあった場所を何度か叩く。それから、隣の仲間に向かって胸を張った。


 まわりのホブゴブリンたちが、槍の石突きで床を叩いた。こつ、こつ、と揃わない音が、通路に響く。


 たぶん、あれは拍手みたいなものだ。


「みんな、昨日はありがとう。よく守ってくれました」


 小隊が一斉にこちらを向いて、思い思いに頭を下げた。


 誰も、欠けていない。


 その事実を、ルナリアはもう一度だけ、ゆっくりと確認した。


---


 それから、3層目に降りた。


 鉱山回廊の入口に、ブレイブが立っていた。昨日と同じ場所に、同じ姿勢で。


「ブレイブ」


 歩み寄ると、ブレイブがゆっくりとこちらを向いた。


「昨日、見てたよ。八体を相手にして、一体も通さなかった。……本当に、すごかった」


 ブレイブは、何も答えない。いつも通り、動かない。


 でも、胸の輝石が、一度だけ、ゆっくりと明るくなった。


「ブレイブが後ろを守ってくれてたから、アルスたちは安心して攻められたの。みんなが無事だったのは、ブレイブのおかげだよ」


 輝石が、もう一度光った。


 その後ろの通路から、レッサーオーガが顔を出した。棍棒を持ったまま、少し遠慮がちに立っている。


「あなたもありがとう。初めての対戦で、ずっとブレイブの後ろを守ってくれてたよね」


 レッサーオーガが、慌てたように頭を下げた。その拍子に棍棒が壁に当たって、ごつん、と鈍い音がした。本人が一番驚いた顔をしている。


 ルナリアは、少しだけ笑った。


 守ってくれた子たちがいて、攻めてくれた子たちがいた。


 それが、昨日の勝利の全部だった。


---


 午後、管理画面の通知欄を整理していて、気づいた。


 《対戦報酬:未受領の項目があります》


 そういえば、あの日はSPとDPの表示を見ただけで、画面を閉じてしまった。それ以上、何かを見る気になれなかった。


 開いた。


 《報酬枠:3》

 《枠1:静音石×5》

 《枠2:静界の魔素結晶×1》

 《枠3:サイレントウルフの毛皮×1》


 静寂の天蓋の、素材だった。


 当たり前だ。対戦報酬は、相手のダンジョンに由来する。カルナの時も、牙砦の爪だった。


 分かっていても、少しだけ、手が止まった。


 あの静かな洞窟の欠片が、うちの倉庫に入る。


 静音石、の三文字を見つめたまま、指が少しだけ止まった。


「……コアさん、これって、何に使えるの」


「……音を吸収する性質を持つ鉱石です。壁材・罠素材への加工が可能です」


「魔素結晶は」


「……静界属性の魔素が凝固したものです。工房での加工素材として使用できます」


 工房。


 鍛冶妖精の顔が浮かんだ。素材を見ると目の色が変わる、あの職人。


「じゃあ、結晶は工房に届けて。毛皮と静音石は倉庫へ」


「……実行します」


 しばらくして、工房の視野を開いてみた。


 鍛冶妖精が、結晶を両手で持ち上げて、あらゆる角度から眺めていた。目が輝いている。作業台に置いて、小さな槌で軽く叩いて、耳を澄ませて。


 それから、ふるふると首を振った。


 作業台の隅——作りかけのマナシルバー杖を一度見て、結晶を見て、もう一度首を振る。


 これじゃない、らしい。


「……そっか。それでも何かには使えそう?」


 鍛冶妖精は、こくこくと二回頷いた。結晶を大事そうに棚へ運んでいく。


 杖に足りないものは、まだ見つからない。でも、あの職人の棚に、また一つ材料が増えた。


---


 夕方、通知が来た。


 《エリンの進化条件が満たされました》


「……エリン!」


 ルナリアは思わず立ち上がった。


「コアさん、進化先は」


「……ハイフェアリーです」


 管理画面に、進化の詳細が表示される。魔素感知範囲の拡大。魔素操作の精度上昇。飛行速度の向上。


 昨日の戦いが、頭をよぎった。


 光の川みたいな洞窟。黒い木を見つけた目。コウモリに追われながら、それでも消えなかった小さな光。


 あの経験が、全部、この子の中に積もっていた。


「承認する。……ううん、その前に」


 ルナリアは2層目の視野を開いた。侵入者がいないことを確認して、階段を降りる。


 森の中で、エリンが待っていた。クロとシロが、少し離れたところから見ている。アルスも木々の間に立っていた。


「エリン、進化だよ」


 エリンがくるりと回った。鈴が、りん、と鳴る。


「昨日、エリンがみんなの目になってくれたから、誰も欠けなかった。ありがとう」


 エリンが、ルナリアの目の前まで飛んできた。小さな手を、ルナリアの鼻先にかざす。


 淡い光が、ぽっ、と灯った。


 一回。


「……それ、右、だよね」


 エリンがもう一度回った。違うらしい。


 少し考えて、分かった。


 合図じゃない。ただ、灯したかっただけだ。ずっと仲間のために使っていた光を、今は、ただルナリアに見せるためだけに。


「……うん。きれいだよ」


 ピクシーだった頃を、ふと思い出した。


 森に慣れなくて、木の陰でうろうろしていた小さな光。精霊石を合成した日、体の中の魔素が、少しだけ濃くなった。スプライトになって、フェアリーになって、いつの間にか、このダンジョンの目になっていた。


 その子が、また進化する。


 ルナリアは管理画面を開いて、承認を押した。


 光が、エリンを包んだ。


 小さな体の輪郭が、ほんの少しだけ伸びる。羽が二対から三対に増えて、その一枚一枚が、薄い硝子みたいに光を透かした。


 光が収まると、エリンはゆっくりと羽を広げた。


 りん。


 鈴の音が、鳴った。


 前より少しだけ高く、遠くまで届く音だった。


 コハクの時とも、レッサーオーガの時とも違う。一番長く、一緒に育ってきた子の音だった。


 目の奥が、じんわりと熱くなる。


「……おめでとう、エリン」


 声が、少しだけ震えた。


 《ハイフェアリー:エリン》


 クロとシロが、短く吠えた。アルスが喉を鳴らす。森の音が、エリンの新しい鈴の音を囲んでいた。


---


 夜、ルナリアはコアの間で、一人になった。


 管理画面には、今日の記録が並んでいる。回復完了。報酬受領。エリンの進化。


 全部、前に進んでいる。


 それでも、ふとした瞬間に、あの口の動きがよみがえった。


 なんで、私は——そう見えた、破壊の前の形。


 それから、最後の一度。ゆっくりと、読み取ってほしいみたいに動いて、光に消えた形。


 あれは、何を言おうとしたのか。誰に言おうとしたのか。


 考えても、答えは出ない。出ないことだけが、分かっている。


「……コアさん」


「……はい」


「静寂の天蓋って、どんなダンジョンだったのかな」


「……情報はありません」


「そうだよね」


 消えたダンジョンのことは、どこにも残らない。倉庫の石と、工房の結晶と、ルナリアの記憶にしか。


 膝の上で、コハクが丸くなっていた。その温かさを確かめるみたいに、ルナリアはゆっくりと撫でた。


 倉庫には、静かな石が眠っている。工房の棚には、静かな結晶が増えた。


 あの人のダンジョンの欠片は、ここで、別のものになっていく。


 それがせめてもの、と思うのは、勝った側の勝手なんだろうか。


 答えの出ない問いを、今日はもう、それ以上追いかけなかった。


 遠くの森から、りん、と。


 エリンの新しい鈴の音が、かすかに届いた気がした。


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