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第27話 片鳴り


 クロは、まだ上を見ていない。


 コウモリの第一波が、分岐の先のクロに殺到する。


 その時、白い影が走った。


 シロだった。


 声の出ない喉で、それでもシロは走った。石の床を蹴って、群れより先に、クロに体当たりする。


 二頭がもつれて転がった、その真上を、無数の爪が掠めていった。


 クロが跳ね起きた。シロを見た。天井を見た。


 一瞬で、全部を理解した。


 声はいらなかった。体で、届いた。


---


 二頭が反転した。


 エリンを追い回す群れに向かって、左右から同時に突っ込む。


 跳んだ。無音の顎が、空中のコウモリを二匹、同時に捉えた。


 群れが乱れた。


 その中心に、アルスが踏み込んだ。


 薙いだ。一閃で三匹が落ちる。返す刃でさらに二匹。鬼童の膂力に、無音の洞窟で振るわれる剣は、静かなまま苛烈だった。


 エリンの周りから、影が剥がれていく。


 クロとシロが左右を固め、アルスが正面に立つ。三体がエリンを囲む陣形になった瞬間、残ったコウモリの群れは天井の闇に散って、消えた。


 エリンが、ふわりと浮き直った。


 光が、灯った。


 止まれ、の三回。それから、ゆっくりと一回転。


 大丈夫、という意味だと、ルナリアにはもう分かった。


「……よかった」


 届かない声で、それでも言った。


---


 隊列が組み直された。


 エリンの光が、黒い木を指す。


 アルスが歩み出た。


 木の前に立つ。枝が天井に張り巡らされ、根が岩を掴んでいる。魔素の淀みが、渦を巻いて木に吸い込まれていく。


 アルスが剣を構えた。


 振り下ろした。


 幹が、割れた。


 黒い木がゆっくりと傾いで、倒れる。倒れる音は——した。


 した、のだ。


 めきめきと幹の裂ける音。枝が岩壁を擦る音。そして、地響き。


 音が、戻った。


 最初は、遠くの水滴だった。ぴちょん、と岩を打つ小さな音。


 それから、クロとシロの荒い息遣い。アルスが剣を払う音。誰かの足が、砂利を踏む音。


 消えていた音たちが、一つずつ、世界に帰ってくる。


 りん、と。


 鈴の音が、鳴った。


 エリンの鈴。あの場所で初めて鳴った、小さな音だった。


 クロとシロが、同時に遠吠えを上げた。


 二重の遠吠えが、洞窟の奥まで響き渡っていく。さっきまで存在すら許されなかった音が、通路を埋めていく。


 ルナリアは、管理画面の前で泣きそうになるのをこらえた。


「みんな、聞こえる?」


 アルスが、こちらを向いた。喉を鳴らした。


 聞こえる。届いている。


「よし。……行こう。この調子で、木を折りながら進むよ」


---


 防衛側の視野を確認した。


 サイレントウルフたちは、下がっていた。


 ブレイブの前に、八体は二度と揃って踏み込まなかった。何度目かの突撃が結晶の壁に阻まれた後、狼たちは一斉に反転して、自分たちの洞窟へ引き上げていった。


 ブレイブは、追わなかった。盾を構えたまま、ただ通路の真ん中に立ち続けている。


 その後ろで、レッサーオーガが棍棒を下ろした。ホブゴブリン小隊が、傷ついた一体を囲んで手当てをしている。


 守りは、崩れなかった。


 誰も、失っていない。


「ブレイブ、ありがとう。そのまま警戒お願い」


 ブレイブの胸の輝石が、一度だけ光った。


---


 攻撃部隊は、進んだ。


 エリンの光が木を示し、アルスが斬る。音が戻る。また進む。


 三本目を折った頃には、洞窟の半分に音が戻っていた。


 最後の通路で、狼たちが待ち構えていた。


 うちの防衛から退いた八体が、こちらに回されていた。守りから、コアの最終防衛へ。イゼルの指示は、最後まで的確だった。


 狼たちは、相変わらず無音だった。木を折っても、この狼たちの足音は戻らない。自分の音を、自分で消せる狩人たち。


 でも、こちらは違った。


 クロの息遣いが、シロに聞こえる。シロの爪音が、クロに聞こえる。エリンの鈴が、二頭の頭上で鳴る。


 無音の敵は、もう怖くなかった。エリンの光が狼たちの位置を示し、クロとシロはお互いの音を頼りに、完璧に連携した。一頭が牽制して、もう一頭が横から崩す。いつもの、二頭の戦い方だった。


 アルスが最後の一体を弾き飛ばした時、通路の奥に、扉が見えた。


 コアの間。


---


 扉は、重かった。


 アルスが剣を叩きつける。一撃ごとに、扉が軋む。音が戻った通路に、重い打撃音が響き続ける。


 ルナリアは、その音を聞いていた。


 この向こうに、イゼルがいる。


 声の出ない人。文字だけで生きてきた人。何かを言おうとして、白に消された人。


 勝てば、あの人は死ぬ。


 分かっていた。カルナの時も、そうだった。この制度は、そういうものだ。


 でも。


「……アルス」


 届くと分かっていて、ルナリアは言った。


「ごめんね」


 扉が、砕けた。


---


 コアの間は、静かだった。


 サイレンスツリーは、なかった。ここには最初から、音があった。


 部屋の中央に、青白いダンジョンコアが浮かんでいる。


 その前に、イゼルが立っていた。


 武器は持っていなかった。管理画面を開いたまま、指だけが、まだ動いていた。文字を打っている。最後の最後まで、指示を打ち続けている。


 でも、応える部隊は、もう残っていなかった。


 アルスが、一歩ずつ近づいていく。


 イゼルの指が、止まった。


 顔を上げた。アルスを見た。それから、アルスの目の奥にいるルナリアを、見た気がした。


 深い皺の刻まれた目元。静かな目。


 その目が、揺れた。


 何かが崩れるみたいに、イゼルの表情から、何かが剥がれ落ちていった。


 なんで。


 そう動いたように見えた。口が、ゆっくりと開いて。


 なんで、私は——


 イゼルは、声を出そうとしていた。


 喉に手を当てて、初めて、声を、出そうとしていた。


 口が動く。何度も、何度も、同じ形を作る。


 音は、出なかった。


 一度も出たことのない声は、最後まで、出なかった。


 アルスが、止まった。


 剣を構えたまま、イゼルを見ている。喉を押さえて口を動かし続ける相手を、じっと見ている。


 ルナリアは、何も言えなかった。


 止めることも、進めることも、言えなかった。


 長い、長い一拍の後。


 アルスが、静かに息を吐いた。


 剣が、コアを貫いた。


 青白い光が、砕けた。


 光の欠片が舞う中で、イゼルの口が、最後にもう一度だけ動いた。


 今度は、ゆっくりと。まるで、読み取ってほしいみたいに。


 でも、光が全部を白く塗りつぶして。


 ルナリアには、読めなかった。


 《対戦結果:ルナリア(勝利)》


---


 視界が戻った。


 コアの間。いつもの、うちのコアの間だった。


 《報酬:SP+3 DP+1000》


 管理画面の文字が、静かに流れていく。


 ルナリアは、動けなかった。


 勝った。誰も失わなかった。ブレイブは守り切って、エリンは光を取り戻して、クロとシロは吠えて、アルスは最後まで戦い抜いた。


 完璧な勝利だった。


 なのに。


 最後の口の動きが、目に焼き付いて離れなかった。


 なんで、私は——


 そう言ったように、見えた。


 それは、ルナリアがずっと抱えていた問いと、同じ形をしていた。


 なんで、うちなんだろう。


 なんで、あの人は、うちに申請したんだろう。


 あの人自身も——分かっていなかったんじゃないだろうか。


 コハクが、足元に寄ってきた。ルナリアの膝に前足をかけて、小さく鳴いた。


 その声は、ちゃんと聞こえた。


 だからこそ、少しだけ、苦しかった。


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