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第26話 黙鳴


 正午の少し前、視界が白く塗りつぶされた。


 気づくと、白い空間に立っていた。


 光源がないのに、どこまでも明るい。音がない。風もない。自分の呼吸だけが聞こえる。


 中立空間。三度目だ。


 振り返ると、いた。


 背の高い男の人だった。白髪の混じった灰色の髪を後ろで束ねていて、深い皺の刻まれた目元から、静かな目がこちらを見下ろしていた。


「……イゼル、さん?」


 返事はなかった。


 イゼルは、小さく頭を下げた。丁寧な、けれど一言もない礼だった。


「初めまして。ルナリアです」


 また、頭を下げた。


 沈黙が流れた。


 カルナの時とは違う沈黙だった。あの時は、何を話せばいいか分からなかっただけだ。今は、話しかけても、返ってこない。


「……あの、聞きたいことがあって」


 イゼルの目が、少しだけ動いた。


「なんで、うちに申請したんですか」


 イゼルは、ルナリアを見た。


 じっと、見た。


 口が、わずかに開いた。


 何も、出てこなかった。


 口は動いている。形を作ろうとしている。でも、音がない。


 イゼルは口を閉じた。目を伏せた。それから、ゆっくりと首を横に振った。


 ルナリアは、理解した。


 この人は、声が出ないんだ。


 あの定型文。温度のない文面。この人にとって、文字は唯一の言葉だったんだ。


 何かが、胸の奥で引っかかった。でも、それが何なのか、確かめる時間はなかった。


 空間の中央に、光が集まった。


「ふたりとも揃ったねー」


 光の塊から、柔らかい声がした。


「……ニルム様」


「そうだよー。ルナリアちゃん、三回目だね。イゼルくんも、久しぶり」


 イゼルが、光に向かって頭を下げた。


「じゃあルール確認するね。ふたりとも聞いて」


 頭の中に、文字が流れ込んでくる。


 《制限時間:4時間》

 《勝利条件:相手のダンジョンコアを破壊すること》

 《層数制限:なし》

 《その他の特別条件:なし》


「異議ある人は今のうちに」


 ルナリアは首を振った。


 イゼルも、首を振った。


「じゃあ合意確認。イゼルくんは、いつも通り頷きでいいよ」


 いつも通り。


 ニルムは、知っているんだ。この人の声のことを。


「イゼル」


 イゼルが、頷いた。


 迷いのない、静かな頷きだった。


「ルナリア」


「……合意します」


「はい、成立ー」


 ニルムの声が、少しだけ弾んだ。


「今回は面白い組み合わせだよねえ。賑やかなダンジョンと、静かなダンジョン」


 賑やか。うちのことを、そう見ているのか。


「それじゃあ、楽しんでね」


 視界が白く塗りつぶされる、その直前。


 ルナリアは、イゼルがもう一度こちらを見たのに気づいた。


 その目が、何かを言おうとしていた。


 でも、白が全部を消した。


---


 気づいたら、コアの間にいた。


 管理画面が自動で開く。


 《対戦開始》

 《残り時間:4:00:00》


「コアさん、みんなの位置は」


「……攻撃部隊は1層目入口に待機。防衛部隊は各配置についています」


 攻めるのは、アルス、クロ、シロ、エリン。ラットシャドウが偵察で先行する。


 守るのは、ブレイブ、レッサーオーガ、ホブゴブリン小隊。シャドウバットが天井の影から目を光らせる。


「みんな、無理はしないで。危なくなったら、下がっていいから」


 1層目のアルスが、一度だけ喉を鳴らした。


 入口の視野の先に、暗い洞窟の口が現れていた。


---


 最初に動いたのは、相手だった。


 洞窟の暗がりから、影が流れ出てきた。


 狼だ。灰色の毛並みに、白い斑。数は——八。


「コアさん」


「……サイレントウルフ。八体。1層目に侵入」


 速い。そして、静かだった。


 八体の狼が走っているのに、足音がひとつも聞こえない。石の床を蹴っているのに、映像だけが流れて、音がついてこない。


 天井の影で、シャドウバットが動いた。無音の侵入者を、影から影へ追いかけて、位置を伝え続けてくれている。


「小隊、正面は受けないで! 通路の奥へ引き込んで!」


 ホブゴブリン小隊が槍を構えたまま後退を始めた。狼たちが追う。無音のまま、影のように。


 一体が、隊列の横に回り込んだ。速い。槍が間に合わない。


 牙が、ホブゴブリンの腕を掠めた。悲鳴が上がる。


 でも、隊列は崩れなかった。隣のホブゴブリンが槍で狼を牽制して、傷ついた仲間を列の内側に引き込む。


 デビューの頃なら、ここで崩れていた。この子たちも、強くなっている。


 通路の奥。


 そこに、ブレイブが立っていた。


---


 ブレイブは、動かなかった。


 八体の狼が迫っても、盾を構えたまま、一歩も引かなかった。


 先頭の一体が跳んだ。


 ブレイブの足元から、結晶が生えた。


 半透明の柱が床から斜めに伸び上がって、跳んだ狼の腹を弾く。狼は空中で体をひねって着地した。音はない。でも、動きが一瞬止まった。


「……え」


 ルナリアは思わず声を出した。


 今の、狼が跳ぶ前に結晶が生えていた。跳ぶ場所を、読んでいた。


 二体目、三体目が左右に分かれて回り込む。


 ブレイブが盾を地面に突き立てた。


 床が光った。


 盾を中心に、結晶の壁が半円に立ち上がる。回り込んだ二体が、透明な壁に阻まれて足を止めた。


 その一瞬で、ブレイブは剣を抜いていた。


 正面の一体を、盾ごと押し込んで弾き飛ばす。返す剣で、壁際で止まった一体を薙ぐ。狼が跳び退いた。浅い。でも、確実に当てた。


 八体の狼が、初めて距離を取った。


 八体いて、誰一体として、ブレイブの後ろへ抜けられなかった。


「……ブレイブって、こんなに強かったの」


「……輝石騎士は特殊進化個体です。防衛戦における性能は、当ダンジョンで最高値です」


 読んで、防いで、反撃する。全部が、繋がっていた。


 狼たちが、無音のまま半円に広がって、ブレイブを観察している。


 ブレイブは動かない。盾を構え直して、ただ立っている。


 不屈。


 その後ろの通路の陰に、レッサーオーガが控えていた。棍棒を握って、ブレイブの背中を見ている。


 守りは、任せられる。


 ルナリアは視野を切り替えた。


---


 攻撃部隊は、洞窟を進んでいた。


 ラットシャドウが影を伝って先行し、アルスが本隊の先頭を歩く。クロ、シロ。エリンがその上を漂っている。


 入口をくぐった瞬間から、音が消えていた。


 アルスの足音がない。クロとシロの爪が石を掻く音がない。エリンの鈴が、鳴らない。


 管理画面越しに見ているルナリアにも、無音がそのまま流れ込んでくる。


 映像はある。音だけが、ない。


 まるで、世界から音の層だけを剥ぎ取ったみたいだった。


 ここから先、ルナリアの声は届かない。管理画面のテキスト指示だけが、唯一の線だった。


 《エリン:魔素感知を全開に》


 エリンの視野に切り替えた。


 世界が、変わった。


 暗い洞窟が、光の川になっていた。


 魔素の流れが、淡い金色の筋になって洞窟中を巡っている。壁の中、天井、床の下。そして——所々に、ひときわ濃い、黒に近い青の塊があった。


 木だ。


 枝を天井に張り巡らせた、黒い木。洞窟の中なのに、根を岩に食い込ませて立っている。


 その木の周りだけ、魔素の流れが淀んで、渦を巻いていた。


 音を、喰っている。


「……あれが、原因」


 《エリン:あの木をみんなに教えて》


 エリンが光を灯した。


 敵、の合図。鋭い明滅。それから、木の方向を指す。


 アルスが木を見た。クロが右へ、シロが左へ展開する。クロはそのまま先の通路との分岐まで進んで、前方の警戒についた。


 その時だった。


 エリンの視野の端で、魔素の流れが揺れた。


 天井。シロの、ほぼ真上。


 黒い青の塊とは違う、細かい光の粒が、いくつも、いくつも、天井に張り付いている。


 動いた。


 一斉に、降ってきた。


 コウモリの群れだ。音もなく、頭上から降り注ぐ。


 群れが、二つに割れた。


 半分が、真っ直ぐエリンに向かった。


 唯一の目を、最初に潰しに来た。


 エリンが身を翻した。


 光が、灯らない。


 二匹、三匹、四匹。群れがエリンだけを追い続ける。避けるだけで、精一杯。


 シロが見上げた。牙を剥いて、大きく口を開いた。


 何も、聞こえなかった。


 仲間に危険を報せる遠吠えが、存在しない。


 クロは、まだ気づいていない。分岐の先を警戒して、群れから離れすぎている。


 アルスも、木を見据えたまま動かない。エリンの光が届かなければ、誰も上を見ない。


 エリンの光は、出ない。シロの声は、存在しない。


 ルナリアは管理画面を掴んだ。


「クロ、上!」


 届かない。


 声は、届かない。


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