第5話 「市川杏」という女
市川杏という女はストイックな女である。自分にも他人にも厳しい。
「浅倉さんリズムずれてる!大森さん歌覚えて!」
「あー!ストップストップ!まるでだめ!練習してきたの2人とも?」
「練習はしてきたけど、難しくて…」
「そうね、確かに難しい。でもそれくらいで負けてどうする訳?あと大森さん。歌覚えてないの論外だからね?」
「はーい…」
「よし、少し休憩するか!な!」
あの2人といたくなくて自販機スペースに来た。こんな時に結依がいてくれれば…。スマホの写真を見る。癒やされた。家に帰れば結依が待ってる。それだけが楽しみだ。
「だからリズム取れてないってば!もういい!各自練習!」
ライブまであと2週間。危機感を感じてるのは私だけらしい。イライラを隠すことが出来ず、自販機スペースで壁を蹴っていると、マネージャーがやってきた。
「おい、大丈夫か…」
「大丈夫かじゃないわよ!あの2人まるで危機感が無い!」
「まぁ…そうだな…」
「あー!平塚さんがいればなー!」
「そう腐るなって…頼むよ。」
「分かってるわよ!言われなくても!」
今日のレッスンはマネージャーの意向で、終わりとなった。私はレッスン場で1人振りの確認をしていた。
「杏」
「え!?結依!?」
「マネージャーから連絡があってね。なんか杏が荒れてるって聞いたから。」
「結依!」
私は小走りで結依の元へと向かい、抱きしめた。
「こらこら杏。」
「結依分補給〜」
「あんまりイチャつくなよ…」
「もう帰る?」
「うん帰る!」
いそいそと帰り支度をする。結依が来たなら話は別だ。
帰宅途中、マネージャーの車の中。私は今日あったことを結衣に話す。結依はうんうんと頷きながら私の話を聞いていた。手を繋いで。
「お前らほんと仲良いよな」
「同棲してる位だよ?今更だよ。」
そう言って結依が笑う。結依が笑うと私も嬉しい。
家から200m程離れた場所に車が停まる。スキャンダル報道に備えてだ。
「高山さんありがとう」
「じゃあまた明日。」
「市川…」
「じゃあね高山さん!」
私は結依の手を引き家に向かった。高山さんのため息が聞こえた気がした。
「先、お風呂入ってもいい?汗かいちゃった。」
「いいよ。今沸かすね。」
結依はこうして献身的に私をサポートしてくれる。そんな結依が私は大好きだ。
そう、結依の前では私は骨抜きになる。もちろん最初からそうではなかったが。最初の頃は話もしなかった。私が一方的に敵対視していたからだ。だけど結依は私にも浅倉さんにも、大森さんにも分け隔てなく接してくれた。その辺が大きいのかもしれない。
「結依〜」
「何?」
「好きだよ」
「奇遇だね私も」
「奇遇って何よ奇遇って!」
「冗談だよ」
笑ってくれた。やっぱり嬉しい。
翌日。再びレッスンである。体の柔軟体操を終え、発声練習をして、踊りのレッスンに入る。
「ちょっと待って!またリズムずれてる!練習したの!?」
「ごめんなさい…」
「謝罪が欲しいんじゃないの!武道館まであと10日だよ!事前リハは2日間だからあと8日しか無いの!」
「はい。」
「音源聴き込めばリズムは自然と付いてくるから、セットリストをプレイリストにして聞きこんで。まずはそこからだよ。」
「分かった。」
「なんか市川ちょっと柔らかくなったか?」
「心なしかね。」
結依がマネージャーと話している。それに気付いた浅倉さんが手を振っていた。むっとしたがそこは我慢だ。結依が浅倉さんに手を振っている。浅倉さんは嬉しそうだった。
「結依どうしたの?」
「差し入れ。プリンだよ。」
「プリン!!」
現場がざわめいた。プリン全員分とはすごいな。
「平塚さん久々だねぇ」
「浅倉さん元気してた?」
「うん!市川さんのおかげでまだまだだけど、覚えてきたよ!!」
「じゃあプリンのお礼にworld wonder!踊ってもらおうかな?」
「え…」
「冗談だよ。今はプリンを楽しんで。」
「ありがとう!」
休憩が終わり、またレッスンが始まる。私はこっそり高山さんに領収書を渡した。レッスン場ではworld wonder!が流れている。
「経費で落ちるよね?」
「…振り込んどく。」
「さすが。話がわかるね。」
「お前も踊ってくか?」
「もう踊れないよ」
そう言って私は笑った。もうブランクがあるしね。
「そういえば平塚にグラビアの話が来てるけど」
「杏が許すと思う?」
「…そうだな。」
「ね。じゃ私帰るね。」
「市川待たなくていいのか?」
「今日のお夕飯当番私だから」
「そうか。気をつけてな。」
「うん。杏をよろしくね。」
レッスン場の重い扉を開けて外に出る。まだ明るかった。
結依が行ってしまった。モチベーションが一気に下がったのが自分でも分かる。
「ストップ!杏ちゃん転調ミスったよ!集中して!」
「…はい」
レッスンが終わる。私は高山さんの車に乗り込み自宅まで向かった。
「大森さんとか浅倉さんとかを送ってがなくていいの?」
「あいつらは自分で帰れるからな」
「私が1人で帰れないみたいじゃん」
「お前はうちのアイドルのトップだし、顔が知られてるからな。平塚みたいに刺されたら何も言えないだろ。」
「へー、そういうこと思ってくれるんだ。」
「…まぁな。着いたぞ。」
「ありがと。またレッスンで。」
市川杏という人間は、プライドが高く、完璧主義だが、甘えるのを許してくれる人間にはとことん甘える。二面性がある訳だ。ライブの時でさえ笑顔を見せず、淡々と歌い踊る。それが一部のファンに受けているのだ。
「市川のファンはドMが多いんだな、きっと…」




