悪魔召喚
五本の燭台が小さな灯火で、石造りの部屋を仄暗く照らす。
「私に、力を。
天使に負けず劣らぬ、力を」
男の声が、石造りの壁に反響する。
部屋の中央には外套を頭から被った人が一人。
その足元の床には、燭台を頂点とした正五芒星とそれを囲む正円が組み合わされた陣が描かれ、言葉に反応して、白色の光を弱く発する。
「天使を屠る、力を」
さらに重ねられる声によって、陣には不可読の文字が連なっていく。
「人を、神の御許へ」
外套から右腕が差し出され、握られた拳から床へ、何かが溢れ落ちる。
「人を、楽園へ」
そろりと開かれた掌には、爪が食い込んで皮膚を破った痕が刻まれている。
溢れる血は多くはないものの、確実に床へと落ち、陣の白色の光は少しずつ赤く染まっていく。
「人を、故郷へ」
刻まれていく文字はやはり不可読で、それでも意思を持つかのように陣を隅々まで埋め尽くした。
「天使に対成す闇の者、地の底深く闇に蠢く黒き者。
我が呼び声に応えろ……悪魔」
最後の一言。
と、同時に、陣の光は完全な赤に染まり果て。
床で光る陣に対成すように中空に同じ陣が現れる。
どす黒く、禍々しい濃紫色の光を放つそれから、“それ”はまるで生れ出るように現れ、床に落ちた。
しかし、床へ衝突する前に、それは滞空した。
「我を呼んだのは御前か」
少し低いが、女のものと思われる通る声が問う。
それを呼び出した人は、すぐその問いに答えることはなく、それを観察した。
ぼろ布を纏った体は人と同じ。
布が空気を含んでいるせいで体格から性別を識別することは出来ない。
布からはみ出て見える肌は白く、長い黒髪が顔を隠すように垂れていて、顔は見えない。
それよりも注目すべきは、それに付随している人としては異質な物、二つ。
背中から生えるのは、二対四枚の黒い翼。
鳥のような羽毛で覆われたものではなく、蝙蝠のように骨格に皮膜を張った、醜いそれ。
上の一対はそれの身長と同程度がそれ以上の幅を持ち、緩く羽ばたいて石造りの部屋の空気を動かす。
下の一対は上の一対の半分程もなく、時折動いて方向修正をしているらしい。
そして、頭には、どんな生物にも例え難い、二本の黒いねじれ角。
額の両生え際辺りから後頭部上方へ伸びるそれは、みるからに滑らかそうな表面をしており、蝋燭の灯火で不気味に煌めく。
しかし、左はその中程で折れており、そのすぐ下には金環がはめられ鈍く輝いている。
そこでようやく観察を終え、人は口を開いた。
「そうだ、私が呼んだ」
「何を望む」
「力を」
「如何様な力を望む」
「天使に屈さず、天使を屠ることのできる強い力を」
「何故、天使を屠る」
「楽園に入るために」
「楽園大戦か……天使の法術がよほど邪魔と見える」
「邪魔と言わずに何と言う」
だから、呼んだのだ。
あの邪魔な天使達に抗う力を求めて。
人は、続けて口を開いた。
「望むものは決まっている。
お前が、私に、仕えろ」
人の言葉に、悪魔は一瞬固まった後、喉を鳴らして笑った。
「我が軟弱な悪魔だったらどうする?」
「お前を贄として、別の悪魔を呼び出す」
外套の下から抜き出されたのは、微かな灯火の下でも清く輝く、銀の剣。
その切っ先が、悪魔に向けられる。
「聖白銀で出来た剣だ、と言えば通じるか」
白銀から打ち出された後に聖なる水に幾年も浸り続けたと言われるそれは、闇の者にとって凶器となりうる。
白銀に弱いのではない、白銀が取り込んだ聖なる力が嫌いなのだ。
しかし、それでも悪魔は笑いをおさめることなく。
ふわりと床に降り立った。
既に陣は消え失せ、石造りの床に白い足が立つ。
「御前は、運が良い」
「……どういう意味だ」
「我が操る魔術は、天使が最も厭う、闇。
天使を屠ることも、捕えることも、糧の量によっては可能となるだろう」
「糧を欲するか」
「我ら悪魔とて糧無くして強大な力の行使など不可能だ。
しかし、その点でも御前は運が良い」
「今度は何だ」
「我が求める糧は、人の心から溢れ蒔かれ伝染する欲望の総て。
憤怒に荒ぶ心、暴食を止めぬ心、怠惰に耽る心、色欲に濡れる心、嫉妬に染まる心、強欲に躊躇わぬ心、傲慢を傲慢とも思わぬ心。
全ての欲が、我の糧となる」
身動き一つ、表情一つ変えずに交わす言葉の途中で、それの方が先に動いた。
白い手がぼろ布の裾からするりと出てくると、その指先の黒い爪が、天井を指差した。
黒髪の隙間から、赤い口唇が微かに覗き、笑い、さらに続ける。
「この上に溢れている分だけで、天使一匹、捕まえられる。
人にとってこれ程に安価で不要な糧で天使に対抗できる悪魔は我の他にいないだろう。
望み求めろ、さすれば契約は完了する。
御前が力を望むのは何故か。
その底に在る真の望みは何か、答えろ、人の子よ」
それの手はぼろ布の中へと戻り、問い掛けが投げられる。
「我ら人に、真の故郷を……楽園を、我ら人の手に」
人の手が差し出される。
自らの爪で傷つけ、それを呼ぶために血を流した手。
筋張り骨張ったその手を、それの白い手が握る。
「契約は、ここに成った」
黒い髪の隙間に覗く赤い唇が、紡ぐ。
握り合った手の隙間から赤黒い光と呼べるのかどうかもわからぬどす黒い力が放たれ、同時に、それの背中から生えていた二対の黒い翼がそれを包むように包み込み、黒い繭のような形状をとった。
白い手は人の手とつながれた状態で、繭から突出したまま。
「人とは、これほどに貧弱なのか……」
繭の中から呟きが漏れる。
同時に、繭は頭上の方から崩れ落ち、残滓も残さず闇の中に消えた。
ぽつりと、それの口からこぼれた言葉は人に語ったものではなく。
露わになったそれ自身の体を見下ろして呟かれた言葉で。
赤黒い双眸、体の表面近くを流れるどす黒い血液の色。
男とも女とも見れる中性的で妖艶な顔つきは、石膏人形のように血色が無く、生命感が皆無。
燭台の灯火だけが照らす闇の中で、黒光りする長髪は長く伸ばされているのに傷むことを知らないように艶めいている。
纏っていたぼろ布も、黒一色のしっかりとした作りの詰襟の法衣に変わっている。
体型がわかる服装であるのに、性別は判断出来そうにない。
微かに覗く喉仏は少し突出する程度、肩幅は細めだがしっかりとした骨格を持っていて、胸の膨らみは全く無く、それでいて腰から下は柔らかい曲線を描いている。
全ては人間の形をとっている上に完成された完全美であるはずなのに。
寄せ集められ無理矢理繋ぎ合わされたような酷い異質感に、人の背筋を悪寒が走り抜けた。
「さて……我は、御前のことを何と呼べば良い」
形の良いそれの口が問う。
まるで愛称を尋ねるような気軽さで。
それは首を傾げ、どす黒い赤の双眸で人を見つめた。
「名は、無い」
「……“無い”と呼べば良いのか」
「違う……呼び名と言うものが無い」
「可笑しな事を言うな」
「あったのだろうが、記憶に無い」
「……では、何と呼べば良い」
「皆、役職で呼ぶ。
お前もそうすれば問題無い」
「役職名で呼ばれて混乱せぬのか」
「この国で、私と同じ役職の者は無い、故に混乱のしようが無い」
「で、何なのだ、御前の役職は」
「王だ」
短く答えて、人が被り続けていた外套のフードをはずす。
戴くのは、磨き抜かれた金に繊細な彫刻を施した略冠。
中央には彫刻の葉に守られるように抱かれた黒い玉。
それを見つめ返す瞳も黒。
精悍な顔つきは、彫りも深く、顔を形成する部分ごとが完成されていて、完璧な左右対称。
略冠をい頂く髪も黒、癖の強い髪は、一本ずつが太くしっかりとしたもので、微かに波打っている。
「……アルステラの、戦王子と言えば、通じるか」
どす黒い赤が瞠目する。
瞬きが数度繰り返され、ようやく、口唇が動く。
「まさか、アルステラの戦王子に呼ばれたとは……思わなんだ」
「今は王だが、な」
燭台の揺らめく灯りに照らされる人――王――の顔に、自嘲の色が混ざる。
対して、それは愉悦に口角を吊り上げた。
「御前の下ならば退屈しなさそうだ」
漏らされた言葉に、王は眉間に皺を寄せ不機嫌さを露にする。
戦争へ向けて緊迫していると言うのに。
「我が渾名は、ベルノワル」
その意味は、黒の王。
闇を統べ、支配する者。
「さぁ、天使狩りと洒落込もうか」
まるで、新しい玩具を与えられた子供のように。
それ――悪魔ベルノワル――は、笑った。




