第十二話 瘴気を越えて紅残光は咲く
〜逃れられぬ毒と瘴気〜
牛鬼が地面を蹴った。
狂乱化によって強化されたその身体は、先ほどまでとは比べものにならないほどの勢いを見せていた。
桜花は桜蕾を構え、迫り来る巨体を見据える。
「……先ほどと同じようにはいきませんね」
牛鬼の口から毒と瘴気が吐き出された。
同時に、その足元の影からも黒い瘴気が広がっていく。
地面を這うように広がった瘴気は、牛鬼の影を中心に、以前よりも広い範囲を覆っていた。近づこうとする者にとって、それは容易には越えられない危険な領域となっていた。
「桜花さん、瘴気の範囲が広がっています!」
こはくの声が響く。
「ええ。無理に近づくのは危険です。お二人も、十分に距離を取ってください」
「分かった!」
白夜が返事をする。
しかし、牛鬼は三人に考える時間を与えなかった。
巨体が動くたび、影から毒と瘴気が立ち昇る。先ほどまでなら避けられた距離でも、今は安全とは言い切れない。
牛鬼の攻撃を避けた白夜が、思わず顔をしかめた。
「うっ……なんか、頭がくらくらする……!」
「白夜、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫! ちょっと気持ち悪いだけ……!」
強がる白夜だったが、その足取りはわずかに乱れていた。
こはくも顔色を引き締める。
この瘴気に長くさらされれば、身体の自由を奪われる。さらに狂乱化した牛鬼の毒と瘴気は、吐血や幻覚まで引き起こす危険なものへと変わっていた。
しかも、牛鬼自身は自らの毒に害されない。
近づくことも、長く留まることも難しい。
普通の相手なら、毒の届かない場所から攻めればよい。しかし、牛鬼の毒は口からも吐き出され、影からも広がる。
単純な遠距離攻撃だけでは、確実に仕留めることはできなかった。
桜花は静かに息を整えた。
「……分かりました。ならば、攻撃の瞬間を見極めます」
牛鬼が再び突進してくる。
桜花はその巨体を真正面から受け止めようとはしなかった。
攻撃の軌道を見極め、最小限の動きで身をかわす。
牛鬼が通り過ぎる。
その一瞬、桜花の視線が鋭くなった。
「紅残光 一刀流――玖之型:彰のように光る青柳」
しなやかに刃が動く。
牛鬼の攻撃を受け流し、その勢いを利用して間合いを外す。
力任せに押し返すのではない。相手の動きを見極め、柔らかく受け流す。
桜花は牛鬼の追撃を許さず、再び距離を取った。
「なるほど……。近づけば毒と瘴気に阻まれ、離れれば口からの攻撃が届く。厄介な相手ですね」
桜花は静かに息を整えた。
毒と瘴気の影響は、確かに身体へ及んでいた。人間である以上、それを完全に免れることはできない。
長く戦い続ければ、それだけ不利になる。
ならば、決着を急ぐ必要があった。
牛鬼が再び攻撃に移ろうとする。
桜花は刀を握り直した。
毒と瘴気が身体に影響を及ぼすなか、長期戦は避けなければならない。
玖之型で攻撃を受け流し、距離を取るだけでは決着はつかない。
牛鬼の動きと、攻撃が届く瞬間を見極める。
「……次で、決めます」
桜花は、反撃へ移る機会を見定めていた。
〜白石のように静かに〜
牛鬼が大きく口を開いた。
毒と瘴気が一気に吐き出される。
牛鬼の影からも、黒い瘴気が立ち昇った。
逃げ道を塞ぐように迫る攻撃。
その中で、桜花は牛鬼の動きを見つめていた。
「桜花さん!」
こはくの声が響く。
桜花は答えない。
毒と瘴気そのものではなく、その奥にいる牛鬼の動きを見極めていた。
巨体が迫る。
爪が振るわれる。
桜花は必要以上に踏み込まず、牛鬼の攻撃が届く瞬間を待った。
「紅残光 一刀流――拾之型:沢の畔の白石」
殺気を抑え、静寂の中へ身を置く。
相手の動きを読み、攻撃が間合いに入った瞬間を待つ。
そして、牛鬼が桜花へと踏み込んだ、その刹那。
桜花の刃が動いた。
牛鬼の攻撃を見極めた反撃が、その身体を捉える。
牛鬼が大きく体勢を崩した。
だが、桜花はそこで立ち止まらない。
相手がまだ動けることを見抜いていたからだ。
牛鬼は怒りの唸り声を上げ、再び突進しようとする。
しかし、先ほどまでのように思いどおりには動けなかった。
傷を負い、体勢も崩されている。
狂乱化によって力を増していても、攻撃をすべて通せるわけではない。
「……今です」
桜花は桜蕾を握り直した。
こはくと白夜は、彼女の動きを見守っていた。
二人とも、瘴気の影響を受けないよう距離を保ちながら、牛鬼の動きに注意を払っている。
桜花は前へ踏み出した。
牛鬼が迎え撃とうとする。
その瞬間、桜花の姿が揺らいだ。
「紅残光 一刀流――捌之型:草薙の稲光、残光せし鳳」
激しい一閃。
稲光のような斬撃が、牛鬼を捉えた。
紅の残光が一瞬だけその場に走り、次の瞬間には静寂が戻っていた。
牛鬼の巨体が、地面へと崩れ落ちる。
それでも桜花は、すぐには刀を納めなかった。
牛鬼の動きが完全に止まったことを確かめ、周囲の瘴気が弱まっていくのを見届ける。
やがて、危険な瘴気は広がらなくなった。
桜花はようやく刀を納めた。
「……これで、終わりです」
牛鬼の動きが完全に止まったことを確かめ、桜花はようやく刀を納めた。
しかし、身体には毒と瘴気の影響が残っていた。
こはくと白夜が、慎重に近づいてくる。
「桜花さん、お怪我はありませんか?」
「毒の影響を受けてしまいました。こはくさん、治療をお願いできますか?」
「はい、すぐに!」
こはくは桜花のそばに寄り、治療妖術を施した。
桜花は静かに息を整えながら、その処置を受ける。
「……ありがとうございます、こはくさん」
「いえ。桜花さんが無事に牛鬼を倒してくださったからこそ、こうして治療する時間も得られたんです」
白夜も、ほっとしたように息を吐いた。
「もう、あんな瘴気の中で戦うのはごめんだよ……」
「ええ。長く戦い続けるのは危険でしたね」
桜花は、牛鬼が倒れている場所を見つめた。
この牛鬼は、最初から狂乱化していたわけではない。
人間を捕食したことで狂乱化し、身体能力だけでなく、毒と瘴気までも強化されていた。
その変化を前に、三人は対応を迫られたのだ。
「……間に合いませんでしたね」
桜花が静かに呟いた。
こはくも白夜も、すぐには返事をしなかった。
目の前で失われた命は、もう戻らない。
どれほど強くても、どれほど速くても、すべての命を救えるわけではない。
それでも。
「これ以上、同じことを繰り返させるわけにはいきません」
桜花は顔を上げた。
女郎蜘蛛は、まだ逃げたままだ。
そして、牛鬼のように、人間を襲う妖怪はほかにもいる。
三人の旅は、まだ終わらない。
〜残された脅威〜
牛鬼との戦いを終えた三人は、周囲を確認した。
落ち武者と盗賊、そして逃げ遅れた村人。
彼らを救うことはできなかった。
桜花たちは、せめてほかに被害者がいないかを確かめたが、現場に生存者の姿はなかった。
「……村へ戻り、今回のことを伝えましょう」
桜花の言葉に、こはくが頷いた。
「そうですね。牛鬼がいなくなったことと、毒や瘴気の危険性も伝えた方がいいと思います」
「うん。それと、女郎蜘蛛のことも忘れちゃ駄目だよ」
白夜の言葉に、二人は顔を上げた。
そうだ。
牛鬼の事件は終わった。
しかし、女郎蜘蛛はまだ生きている。
しかも、あの個体は進化個体だった。
一度の戦いで倒しきれなかった以上、再び人を襲う可能性は十分にある。
「……急ぎましょう」
桜花たちは村へ戻り、牛鬼の事件について伝えた。
村人たちは、恐ろしい妖怪が倒されたことに安堵した一方、犠牲者が出たことを深く悲しんだ。
桜花たちは必要な情報を伝え終えると、再び旅支度を整えた。
向かう先は、女郎蜘蛛が逃げた方角。
今度こそ、その脅威に決着をつけなければならない。
〜再び現れた女郎蜘蛛〜
それから、三人は女郎蜘蛛が逃げた方角をたどり、残された痕跡を追い続けた。
やがて三人は、ひとつの村へとたどり着いた。
家々は並んでいるものの、人の気配はない。
村全体が、不自然なほど静まり返っていた。
「……誰も、いないのですか?」
こはくが周囲を見回す。
桜花は村の奥へ視線を向けた。
「慎重に進みましょう。まだ近くにいる可能性があります」
そして、木々の間には、かつて見たものと同じような糸が張り巡らされていた。
「……ここも、ですか」
こはくが小さく呟く。
桜花は周囲を見回した。
「慎重に進みましょう。まだ近くにいる可能性があります」
白夜も耳を立て、周囲の気配を探る。
そのときだった。
「――あら。あなたたち、また来たのね」
木々の向こうから、女の声が響いた。
三人が振り返る。
そこにいたのは、女郎蜘蛛だった。
以前の戦いで受けた傷は、すでに癒えているようだった。
身体の動きに鈍さはなく、こちらを見つめる様子にも余裕がある。
「……やはり、ここにいましたか」
桜花は静かに桜蕾の柄へ手をかける。
「あなたを、これ以上放置するわけにはいきません」
女郎蜘蛛は、口元に笑みを浮かべた。
「ふふ……。この村の人間は、みんな私が食べてしまったわ。おかげで、あのときの傷もすっかり治ったの」
こはくの表情が強張る。
白夜もまた、周囲を見回した。
人の気配がなかった理由を、三人は知った。
桜花は女郎蜘蛛をまっすぐに見据えた。
「……これ以上、好きにはさせません」
「ふふ……。あのときは、あなたたちのせいで思うようにいかなかったけれど、今度はそうはいかないわ」
「……前回とは状況が違います。今回は、あなたを逃がす理由もありません」
桜花は静かに桜蕾を構えた。
女郎蜘蛛は答えず、周囲の糸を揺らしながら三人を見つめている。
三人が身構える。
女郎蜘蛛は糸を操り、周囲の木々へと張り巡らせた。
その動きは以前よりも洗練されているように見えた。
一度敗れたことで、こちらの力を警戒しているのだろう。
だからこそ、油断はできない。
しかし、桜花は以前とは違い、守るべき人々の救助に意識を割く必要がなかった。
目の前の敵に集中できる。
「……参ります」
桜花が踏み出した。
女郎蜘蛛もまた、糸を放つ。
戦いが再び始まった。
〜繭を守る必要のない戦い〜
女郎蜘蛛の糸が、前方から、左右から、そして頭上から桜花へと迫る。
以前の戦いと同じように、糸で動きを制限し、距離を保とうとしているのだ。
しかし、今回は救助を優先する必要がない。
桜花は女郎蜘蛛だけを見据え、糸の位置を見極めながら前へ進む。
「逃がしません」
女郎蜘蛛はさらに糸を張り巡らせ、桜花の接近を阻もうとした。
だが、桜花は足を止めない。
女郎蜘蛛が糸を操る動き、そのわずかな隙を捉え、桜花は刀を振るった。
「紅残光 一刀流――陸之型:日の光に咲く森の花」
桜花の刃が、変化する軌道を描く。
女郎蜘蛛は糸で防ごうとするが、斬撃を捉えきれず、身体に傷を負った。
「くっ……!」
女郎蜘蛛はよろめきながらも、糸を使って距離を取ろうとする。
だが、桜花はその動きを見逃さなかった。
女郎蜘蛛が次の糸を放とうとした瞬間、桜花が踏み込む。
「紅残光 一刀流――参之型:朝日を羨む宵の花」
鋭い一閃が、女郎蜘蛛を捉えた。
女郎蜘蛛は大きくよろめき、地面へと膝をつく。
「そ、そんな……!」
「これ以上、誰も傷つけさせません」
桜花の声は、最後まで静かだった。
女郎蜘蛛は糸を操り、反撃しようとする。
しかし、桜花はその動きを見極めていた。
今回は、繭に囚われた人々の救助を優先する必要はない。
桜花は女郎蜘蛛の攻撃をかわし、間合いを詰める。
「紅残光 一刀流――壱之型:紫雲の時」
静と動。
一瞬の斬撃。
そして、静かな納刀。
女郎蜘蛛の動きが止まった。
しばらくして、その身体がゆっくりと地面へ崩れ落ちる。
もう、立ち上がることはなかった。
桜花は女郎蜘蛛の様子を確認し、静かに息を吐いた。
「……終わりましたね」
こはくと白夜が近づいてくる。
「桜花さん……」
こはくは、女郎蜘蛛が倒れている場所を見つめた。
「これで、もう誰かが繭に囚われることもありませんね」
「うん……。やっと終わったんだね」
白夜もまた、ほっとしたように呟いた。
桜花は、静かに頷いた。
「ええ。ですが、忘れてはいけません。私たちが救えなかった命もあります」
二人は黙って頷いた。
女郎蜘蛛は倒れた。
牛鬼もまた、倒された。
それでも、失われた命は戻らない。
三人はその事実を胸に刻みながら、現場を後にする準備を始めた。
〜旅は続く〜
すべての確認を終えた三人は、女郎蜘蛛が倒れた場所を離れた。
長く続いた事件は、ようやく終わりを迎えた。
しかし、旅そのものが終わったわけではない。
桜花は空を見上げた。
雲の向こうから、柔らかな光が差し込んでいる。
「……行きましょうか」
「うん!」
白夜が元気よく返事をした。
こはくも頷き、二人と並んで歩き始める。
しばらくの間、三人は言葉を交わさずに歩いていた。
やがて、白夜が小さく口を開く。
「ねえ、桜花。これからも、こんな妖怪と戦うことになるのかな」
「そうかもしれませんね」
桜花は穏やかに答えた。
「ですが、何が起きるか分からないからこそ、私たちは旅を続けるのでしょう」
「……そっか」
白夜は少し考えた後、顔を上げた。
「じゃあ、あたしも頑張らなきゃね!」
その言葉に、こはくは優しく微笑んだ。
「はい。一緒に頑張りましょう、白夜」
「うん!」
三人は再び歩き出す。
その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。
紅残光 一刀流にまつわる謎も、黒衣の男の正体も、未だ明らかにはなっていない。
けれど、旅を続ける限り、いつか新たな手掛かりに出会う日が来るかもしれない。
桜花は腰に差した桜蕾へ、そっと視線を落とした。
その刀が歩んできた歴史。
受け継がれてきた技。
そして、まだ知らない何か。
それらすべてを知る日は、まだ遠い。
それでも、桜花は歩みを止めなかった。
散りゆく花が残す、紅の残光。
その軌跡を追うように、三人の旅は続いていく。
第十二話でした。次回からそろそろ紅残光一刀流の謎を追うお話に移ります。ちなみに妖怪は喋れます。妖狐の白夜が話せてるので薄々気づいている読者もいたかもしれませんが次からはなるべく妖怪も喋らせますので
次回お楽しみに




