第5話 足りない
七歳になる少し前。
私は、自分の部屋の床を本で埋めていた。
「未来」
「なに?」
「入っていい?」
「いいよ」
ドアが開く。
母が顔を出して、固まった。
「……増えてない?」
「増えたよ」
「やっぱり?」
「うん」
「この前、本棚買ったよね?」
「入らなくなった」
「早くない?」
私もそう思う。
本棚を見る。
上下二段。
きっちり詰まっている。
最初は英語の本ばかりだった。
それが人体図鑑になり、生物の入門書になり、今では高校生向けの参考書まで混ざっている。
化学も増えた。
数学も始めた。
必要になったから。
生物だけやっていれば身体のことが全部分かると思っていた時期が、私にもあった。
甘かった。
本を一冊読む。
知らないことが出てくる。
調べる。
その説明に、また知らないものが出てくる。
化学。
仕方ないから化学を読む。
すると今度は式が出てくる。
数学。
読む。
また知らない。
戻る。
進む。
戻る。
進む。
一向に終わらない。
「あと本棚ほしい」
「どこに置くの?」
「そこ」
「そこ机置くって言ってたじゃん」
「じゃあ机いらない」
「いるよ」
「床で読めるよ」
「姿勢悪くなるよ」
「……それは嫌」
即答した。
母が笑う。
「じゃあ机は置こうね」
「うん」
「本棚はパパと相談します」
「大きいやつがいい」
「はいはい」
母が床の本を一冊拾った。
「これ、本当に分かるの?」
「全部は分かんない」
「じゃあ読んでて楽しい?」
「分かんないから読むんでしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
少なくとも、私にとっては。
分かる本だけ読んでも意味がない。
分からないところがあるから、次にやることが分かる。
母は本を元に戻した。
「未来って、勉強好きなんだね」
「んー」
少し違う。
勉強そのものが好きなのかは、よく分からない。
テストで百点を取りたいわけでもない。
学校で褒められたいわけでもない。
いい大学に入りたい、というのも今のところない。
欲しいものがあって。
そこまでの道に知らないことが山ほど落ちている。
だから拾っている。
それだけ。
「老けたくないから」
「あ、まだそれなの?」
「まだって何?」
「いや……本気だったんだなと思って」
「本気だよ」
何だと思ってたんだろう。
*
老化について調べ始めて、一つ分かったことがある。
思っていたより、ずっと面倒くさい。
前世の私は、老化をもっと単純に考えていた。
肌がたるむ。
シワができる。
髪が変わる。
骨が変わる。
筋肉が落ちる。
だったら、それぞれ対処すればいい。
実際、美容医療はそういうものが多かった。
足りなければ入れる。
余っていれば取る。
下がったら上げる。
肌質が落ちれば治療する。
でも、今の私はそれでは満足できない。
そもそも、どうして下がるのか。
どうして減るのか。
どうして細胞は若い頃と同じように働き続けないのか。
そこを調べ始めると、一気に話が広がった。
DNA。
細胞分裂。
ミトコンドリア。
タンパク質。
炎症。
免疫。
一個じゃない。
しかも、それぞれが勝手に存在しているわけでもない。
繋がっている。
一つ変えたら、別の場所に影響する。
「……めんどくさ」
思わず呟いた。
簡単な薬を一本打って終了。
そんな都合のいいものを、少し期待していた。
今のところ、そんな感じは全然しない。
でも。
ページをめくる。
やめるという選択肢もなかった。
面倒だから老けます。
意味が分からない。
*
ある日の放課後。
図書室で本を読んでいると、蓮が来た。
「ミラ」
「なに?」
「帰んないの?」
「まだ」
「何時まで?」
時計を見る。
「あと三十分」
「分かった」
蓮は向かいに座った。
ランドセルから宿題を出す。
最近、こういうことが増えた。
私が図書室にいると、蓮もいる。
別に誘ってはいない。
最初は話しかけてきたけれど、私が本を読んでいる間は相手をしないと分かったらしく、今では勝手に宿題をしている。
静かだから放っている。
しばらくして。
「ミラ」
「なに」
「これ分かる?」
プリントを見せられた。
算数。
「そこ違う」
「どこ?」
指を差す。
「ここ」
「あ」
蓮が消しゴムで消す。
「なんで間違ってるってすぐ分かるの?」
「見たから」
「見ただけで?」
「うん」
「先生みたい」
「先生に失礼じゃない?」
「なんで?」
「先生はちゃんと教えられるでしょ」
「ミラも教えられるじゃん」
「嫌だよ」
「なんで?」
「時間かかるから」
「ケチ」
「答え合ってるか見てあげたじゃん」
「じゃあここも」
「自分でやって」
「一個だけ」
「やだ」
「じゃあ終わったら見るだけ」
それなら早い。
「いいよ」
「やった」
蓮がまたプリントに戻った。
私は本に戻る。
静かになった。
十分くらいして。
「できた」
「見せて」
ざっと見る。
一問違う。
「ここ」
「えー」
「計算し直して」
「どこが違うか教えて」
「それやったら意味ないじゃん」
「さっき時間かかるから嫌って言ったじゃん」
「それもある」
「絶対そっちでしょ」
「うん」
蓮が笑った。
また計算を始める。
私は本に戻った。
しばらくして。
「ミラ」
「今度はなに?」
「これ」
机の上に何か置かれた。
小さな袋。
「なに?」
「グミ」
「なんで?」
「今日もらった」
「蓮が食べれば?」
「二個あるから一個あげる」
「いらない」
「え」
「今お腹空いてない」
「あとで食べればいいじゃん」
「じゃあ置いといて」
「うん」
本当に置いた。
帰る時。
私はそのグミの存在を忘れていた。
「ミラ」
「なに?」
「グミ」
「あ」
蓮が指差す。
「忘れてた」
「絶対そうだと思った」
「ありがと」
「うん」
鞄に入れる。
そのまま帰った。
*
家に着いて、本を開く。
十分。
二十分。
三十分。
腹が減った。
机の上を見る。
何もない。
そういえば。
ランドセルを開ける。
グミ。
「あった」
袋を開ける。
一つ食べる。
甘い。
普通に美味しい。
食べながら本を読む。
二つ目を取ろうとして。
止まった。
成分表示を見る。
癖だった。
前世からずっと。
カロリー。
炭水化物。
脂質。
確認する。
一袋くらいなら問題ない。
全部食べた。
*
夕食のあと。
父に呼ばれた。
「未来、ちょっといい?」
「なに?」
リビングへ行く。
父の前に紙が置いてあった。
「学校から電話があって」
「私なんかした?」
「してないよ」
じゃあ何。
「先生から、未来が授業中あんまり話を聞いてないみたいだって」
「ああ」
「心当たりある?」
「ある」
「あるんだ」
父が困ったように笑った。
母も隣にいる。
「授業、つまらない?」
「うん」
「未来」
母に軽く注意された。
でも聞かれたから答えただけ。
父は怒らなかった。
「簡単すぎる?」
「うん」
「どのくらい?」
「全部知ってる」
「全部?」
「今やってるところは」
父と母が顔を見合わせる。
「じゃあ、学校の勉強はどこまで分かる?」
どこまで。
考える。
学校の範囲なんて意識していなかった。
「知らない」
「知らない?」
「学校の勉強しようと思って勉強してないから」
「じゃあ普段は何してるの?」
「生物と化学と数学」
「数学?」
「必要になったから」
「どのくらい?」
「分かんない」
「教科書見せたら分かる?」
「たぶん」
父が黙った。
母も黙った。
何だろう。
「未来」
「うん」
「今度、ちょっとテスト受けてみる?」
「何の?」
「どのくらい勉強できるのか調べるやつ」
「時間かかる?」
「……そこ?」
「何時間?」
父が笑った。
「まだ分からない」
「長いなら嫌」
「なんで?」
「本読みたい」
「その本をもっと難しいところまで読むために、未来が今どこまでできるのか分かった方がいいかもしれないよ」
なるほど。
それなら意味はある。
「じゃあやる」
「いいの?」
「うん」
父が母を見る。
二人とも、少し変な顔をしていた。
心配しているような。
困っているような。
ちょっと嬉しそうな。
私にはよく分からない。
でも。
一つだけ思った。
今のやり方。
遅いのかもしれない。
本を読む。
分からなくなる。
戻る。
また読む。
それを繰り返してきた。
できてはいる。
でも。
もっと早い方法があるなら。
そっちの方がいい。
二十歳まで。
あと十三年。
最初は十五年もあると思っていた。
でも、身体のことを知れば知るほど。
十三年しかない。
そんな気がしてきていた。




