第4話 便利な男の子
六歳になった。
小学校に入った頃には、英語を読むことにはほとんど困らなくなっていた。
日常会話もできる。
英語そのものは、もう大した問題じゃない。
問題は、その先だった。
医学系の文章を開けば、書いてある英語は読めるのに意味が分からないことがある。
最初は少し腹が立った。
でも考えてみれば当たり前だ。
知らないものは、英語だろうが日本語だろうが分からない。
だから今は、生物と化学を基礎からやっている。
前世で美容について散々調べていたから、聞いたことのある言葉は多い。
表皮。
真皮。
線維芽細胞。
コラーゲン。
活性酸素。
知っている。
でも、知っているだけ。
じゃあ線維芽細胞が何をしていて、どう制御されていて、なぜ年齢とともに変わるのか。
そこまで行くと、途端に怪しくなる。
前世の私は美容オタクだった。
でも研究者ではなかった。
知らないことが山ほどある。
悪くない。
しばらく暇にはならなそうだった。
*
小学校の授業は暇だった。
これは仕方ない。
先生が悪いわけでも、周りが遅いわけでもない。
身体は六歳でも、中身まで六歳ではない。
そこに、一度理解したことをほとんど忘れない妙な頭までついている。
一年生の授業がちょうどよかったら、その方が困る。
その日も、昨日読んだ本の続きを頭の中で考えていた。
途中で分からなくなったところ。
帰ったら調べること。
そこから別のことへ飛ぶ。
今日は晴れている。
朝の日焼け止めは塗った。
帽子もある。
帰る前には一度塗り直して――
「九条さん」
顔を上げる。
先生が私を見ていた。
「はい」
「聞いていましたか?」
「……はい」
「では、ここの答えは?」
黒板を見る。
答える。
「正解です。でも、お話も聞いてくださいね」
「はい」
素直に返事をして座った。
聞かなくても分かる、なんて言う必要はない。
正しいことを全部口に出す必要なんてない。
相手に合わせた方が早い。
これは前世で嫌というほど覚えた。
隣から、小さな声がした。
「絶対聞いてなかったでしょ」
横を見る。
男の子がいた。
同じクラスなのは知っている。
たぶん隣の席だから、何度か話したこともある。
名前は知らない。
名札を見れば書いてあるのだろうけど、わざわざ見たことがなかった。
「聞いてなかった」
「やっぱり」
「教えてくれてありがとう」
「何考えてたの?」
「日焼け止め」
「……授業中に?」
「うん」
「なんで?」
「塗り直す時間」
男の子が私の顔を見る。
「朝も塗ってなかった?」
「塗ったよ」
「また塗るの?」
「必要なら」
「ふーん」
先生がこちらを見た。
二人とも黙った。
*
休み時間。
私は机で本を開いた。
家から持ってきた生物の入門書。
最近は同じ分野の本を何冊か並行して読むようにしている。
一冊で分からなければ別の本。
それでも分からなければ、もっと簡単な本まで戻る。
一度ちゃんと理解してしまえば忘れない。
だったら、最初だけ丁寧にやればいい。
「それ何?」
さっきの男の子だった。
「生物」
「せいぶつ?」
「うん」
「一年生の本じゃないよね」
「違う」
「分かるの?」
「分かるところは」
「分かんないところは?」
「調べる」
「それでも分かんなかったら?」
「もっと簡単なの読む」
「それでも?」
「もっと前からやる」
男の子が黙った。
私は本に戻った。
数秒後。
「なんでそんなの読んでんの?」
まだいた。
「知りたいから」
「何を?」
「身体」
「なんで?」
「老けたくないから」
変な顔をされた。
まあ、そうなる。
「九条さん、六歳だよ」
「知ってる」
「おばあちゃんになるの、めっちゃ先じゃん」
「だから今からやるんでしょ」
「なんで?」
「時間かかるかもしれないから」
「何に?」
「老けない方法探すの」
「そんなのあるの?」
「今はないんじゃない」
「じゃあ無理じゃん」
「なんで?」
「誰もできてないから」
「誰もできてないことと、できないことは違うでしょ」
「同じじゃないの?」
「違うよ」
「なんで?」
「できないって証明されてないから」
「しょうめい?」
「……いいや」
六歳児に何を説明しているんだろう。
「とりあえず、作れそうなら作る」
「老けないやつ?」
「うん」
「作れなかったら?」
「困る」
「それだけ?」
「めちゃくちゃ困る」
「なんでそんな老けたくないの?」
「嫌だから」
「なんで?」
「綺麗じゃなくなるじゃん」
「九条さん、今めっちゃ可愛いじゃん」
「今の話してない」
「じゃあ大人になっても可愛いんじゃない?」
「それと老化は別」
「よく分かんない」
「分かってもらおうと思ってないから大丈夫」
ページをめくる。
会話終了。
「でも作ったら教えて」
「なんで?」
「俺も使う」
「なんであなたに?」
「おじいちゃんにならなくていいんでしょ?」
「そうなればね」
「じゃあ使いたい」
「お金取るよ」
「同じクラスなのに?」
「関係なくない?」
「ケチ」
「まだ作ってすらないんだけど」
男の子が笑った。
私は少し考えた。
さすがに、これだけ喋っておいて名前を知らないのは不便だ。
「ねえ」
「なに?」
「名前なんだっけ」
男の子の顔が止まった。
「……知らないの?」
「うん」
「隣の席なのに?」
「うん」
「名札あるじゃん」
「見てなかった」
「俺、九条さんの名前知ってるよ」
「そう」
「九条未来でしょ」
「うん」
「俺は榊蓮」
「榊」
「蓮まで名前」
「分かってる」
「じゃあ蓮って呼べば?」
「なんで?」
「普通名前で呼ばない?」
「別に榊で困らないけど」
「……じゃあいい」
少し不満そうだった。
よく分からない。
名前なんて、本人を識別できれば何でもいい。
*
それから榊は、なぜか休み時間になると私の近くにいることが増えた。
小学生なんてそんなものなのかもしれない。
席が近い。
何度か話した。
それだけで一緒にいる理由には十分なのだろう。
最初はよく話しかけてきた。
私が本を読んでいて返事をしないことが何度か続くと、そのうち勝手に学習した。
最近は近くで漫画を読んでいる。
それなら問題ない。
ある日、榊が本を覗いた。
「これ何?」
「細胞」
「さいぼうって?」
「身体作ってる小さいやつ」
「どれくらい小さい?」
「目じゃ見えない」
「じゃあどうやって見るの?」
「顕微鏡」
「学校にある?」
「理科室にはあるんじゃない」
「見に行けば?」
「勝手に使えないでしょ」
「先生に聞けば?」
「……」
それはありだ。
「じゃあ聞いてきて」
「なんで俺?」
「榊が言い出したから」
「九条さんが見たいんでしょ」
「そうだけど」
「自分で行けば?」
「榊、先生と話すの得意そう」
「そう?」
「うん。私より得意そう」
「……まあ、いいけど」
立ち上がった。
単純。
前世で接客を始めた頃を思い出す。
人間は、頼み方一つで反応が変わる。
「やって」と言われれば嫌がることでも、「得意そうだからお願い」と言われると案外やる。
六歳なら、なおさら分かりやすい。
十分ほどして榊が戻ってきた。
「ダメだって」
「そっか」
「でも四年生になったら使うって」
「遅い」
「先生困ってたよ」
「だろうね」
「俺、ちゃんと聞いてきたよ」
「うん。ありがとう」
「それだけ?」
「え?」
「……なんでもない」
何を期待していたんだろう。
まあいい。
私は本に戻った。
*
それから時々、榊に何かを頼むようになった。
大したことではない。
「それ取って」
「自分で取れるじゃん」
「榊の方が近い」
「はい」
「これ先生に渡してきて」
「九条さんは?」
「図書室」
「俺も行く」
「じゃあ途中で渡せるね」
「なんで俺がやることになってんの」
「嫌ならいいよ」
「……やる」
文句は言う。
でも、大体やる。
しかも一度言ったことをそれなりに覚えている。
「帰る前に日焼け止め塗るんでしょ」
「ああ、うん」
「持ってきてる?」
「あるよ」
「じゃあいいけど」
頼んでいないことまで覚えている。
六歳児にしては、使いやすい。
*
図書室で目当ての本を見つけた。
高い棚。
手を伸ばす。
届かない。
もう一度。
無理。
「……」
六歳、不便。
踏み台を探していると。
「どれ?」
榊だった。
「あれ」
指差す。
榊が手を伸ばした。
届かない。
「榊も小さいじゃん」
「九条さんより大きい」
「取れてないじゃん」
「先生呼んでくる」
走っていった。
しばらくして、司書の先生を連れて戻ってくる。
本を取ってもらった。
「ありがとうございます」
先生が去る。
榊にも言う。
「ありがと」
「うん」
本を持って席へ行く。
榊も近くの椅子に座った。
「何読むの?」
「細胞」
「また?」
「まだ全然分かんないから」
「いつ分かるの?」
「全部分かったら」
「それいつ?」
「知らない」
「ミラってずっとそれ読んでるよね」
「……」
顔を上げる。
「誰?」
「九条さん」
「私、未来だけど」
「だからミラ」
「どこから出てきたの」
「未来って呼ぶの長いから」
「三文字じゃん」
「ミラの方が言いやすい」
「一文字しか変わってないよ」
「じゃあミラ」
「なんで決定なの」
「嫌?」
「別に」
「じゃあミラ」
「好きにすれば」
本に戻ろうとすると。
「じゃあさ」
「なに?」
「俺のことも蓮って呼んで」
「なんで?」
「俺だけ榊なの変じゃん」
「別に」
「変だよ」
「そう?」
「そう」
「……蓮」
「うん」
「これでいい?」
「うん」
嬉しそうだった。
よく分からない。
でも呼び方なんてどうでもいい。
榊でも蓮でも、同じ人間だ。
「蓮」
「なに?」
「本読むなら静かにして」
「はい」
静かになった。
私はまた本を開いた。
それ以降。
彼は私をミラと呼び。
私は彼を蓮と呼ぶようになった。
ただ、それだけ。
蓮は使いやすかった。
頼めば大体やる。
一度言ったことも、それなりに覚えている。
本を読んでいる時に邪魔をすることも減った。
六歳児としては、かなり当たりだと思う。
こうして便利な男の子を手に入れた。




