第3話 私の頭は、どうなっている
英語の本を買ってもらった。
一冊じゃない。
父が思っていたより乗り気で、次の休みに本屋へ連れて行ってくれたのだ。
「好きなの選んでいいよ」
「ほんと?」
「絵本でも図鑑でも。未来が読みたいなら」
太っ腹。
今世の親は、どうやら教育に金を惜しまないタイプらしい。
ありがたい。
遠慮する理由もないので、私は欲しいものを片っ端から指差した。
英語の絵本。
子供向けの英語辞典。
人体図鑑。
それから、少し迷って生き物の図鑑も。
父が途中から怪訝な顔をしていた。
「未来、これも読むの?」
「よむ」
「漢字いっぱいあるよ」
「だいじょうぶ」
何が大丈夫なのか自分でもよく分からない。
でも欲しい。
会計の時、父がそれなりの金額を払っていた。
私は袋を抱えて上機嫌で帰った。
家に着くと、まず英語の絵本を開いた。
知らない単語がある。
一度見る。
ページを閉じる。
頭の中で思い出す。
ある。
もう一度開く。
合っている。
次。
これも。
次。
これも。
やっぱり昨日だけじゃない。
私はどうも、一度見たものをかなり正確に覚えていられるらしい。
便利。
ものすごく便利。
けれど、何でも覚えられるなら、少し気になることがあった。
私は適当にページをめくって、知らない単語を十個選んだ。
見る。
閉じる。
紙に書く。
五歳児の手なので字が汚い。
そこは仕方ない。
十個とも書けた。
じゃあ二十個。
書けた。
五十個。
途中で手が疲れた。
面倒になってやめた。
翌日、昨日の単語を書いてみる。
ほとんど残っている。
三日後も。
一週間後も。
「……すご」
誰もいない部屋で呟いた。
これはかなり当たりだ。
調子に乗って、今度は父の本棚から一冊抜いた。
何の本かは知らない。
適当なページを開く。
難しい文章がびっしり並んでいる。
一ページ読む。
閉じる。
思い出せる。
じゃあ。
私は、そのページに書いてあった内容を自分の言葉で説明しようとした。
「…………」
できない。
もう一度考える。
やっぱりできない。
文章そのものは頭に残っている。
でも、何を言っているのか分からない。
知らない言葉が多すぎる。
意味を知らないものをいくら覚えても、ただ文字列が頭に入っているだけだった。
「そりゃそうか」
少し期待したのに。
本を一回開くだけで全部賢くなれる、なんて都合のいい話ではないらしい。
まあいい。
覚えられるだけでも十分すぎる。
分からないなら、分かるところまで戻ればいい。
私は父の本を棚に戻して、英語の絵本を開いた。
*
それからしばらく、英語で遊んだ。
遊んだ、というのが一番近いと思う。
昨日まで読めなかったものが、今日は読める。
一度覚えた単語を忘れないから、日に日に分かる文章が増えていく。
気持ちいい。
英語自体に特別な思い入れがあるわけじゃない。
ただ、できなかったことができるようになるのは好きだった。
前世の美容と同じだ。
昨日よりアイラインが上手く引けた。
自分に合う髪型を見つけた。
体型が理想に近づいた。
あの感覚に少し似ている。
「未来、最近そればっかりだね」
母が洗濯物を畳みながら言った。
私は床に寝転がって本を読んでいた。
「うん」
「英語好きなの?」
「べつに」
「え?」
「べんりだから」
母が笑った。
「何に使うの?」
「いっぱい」
「いっぱい?」
説明するのが面倒だったので頷いた。
母は「変な子」と言って、また洗濯物を畳み始めた。
別に英語を話して格好つけたいわけじゃない。
前世で美容を調べていた時、日本語で検索しても欲しい情報が出てこないことが何度もあった。
海外の美容施術。
化粧品。
成分。
医学論文。
翻訳される頃には古い情報になっていることだってある。
今世では最初から読めた方がいい。
ただそれだけ。
……だったのだけれど。
英語を調べているうちに、私は別のものに引っかかった。
皮膚だった。
きっかけは日焼け止め。
母に塗ってもらっている時、ふと思った。
これは、どうして紫外線を防げるんだろう。
前世なら成分名くらいは知っていた。
美容が好きだったから、その辺の人よりは詳しかったと思う。
でも。
じゃあ、それが皮膚の上で具体的に何をしているのか。
紫外線が入ったあと、細胞で何が起きるのか。
どうしてシミになるのか。
どうして老化するのか。
説明しろと言われると、途端に怪しくなる。
気になって調べた。
最初は子供向けのページ。
そこから別のページ。
知らない単語が出てくる。
検索。
また知らない言葉。
検索。
さらに知らない言葉。
気付いたら、全然分からなくなっていた。
「なにこれ」
画面を睨む。
難しい。
悔しい。
前世では美容オタクを自称していた。
実際、普通の人よりずっと詳しかったと思う。
施術名も薬剤も、どこのクリニックのどの先生が何を得意としているかまで調べていた。
でも、それは結局「美容を受ける側」の知識だった。
肌の中で何が起きているのか。
細胞がどう動いているのか。
私は知らない。
それが、妙に気持ち悪かった。
知りたい。
私は画面に出てきた言葉を一つずつ調べ始めた。
表皮。
真皮。
角質。
線維芽細胞。
コラーゲン。
メラニン。
知っている。
でも知らない。
名前だけ知っていたものが、少しずつ繋がっていく。
面白い。
夕飯だと呼ばれるまで、ずっと見ていた。
*
「未来、最近何調べてるの?」
夕食中、父に聞かれた。
「ひふ」
「皮膚?」
「うん」
父の箸が止まった。
「……英語じゃなかったの?」
「えいごもやる」
「皮膚は?」
「きになるから」
「何が?」
少し考えた。
五歳児相手に、なぜそんなことを聞くんだろう。
「なんでしわになるの?」
父と母が顔を見合わせた。
「……歳を取るから?」
母が答える。
それは答えになっていない。
「なんで、としとったらしわになるの?」
「えーっと……」
母が困る。
父も困る。
二人とも知らないらしい。
まあ普通は知らないか。
私は味噌汁を飲んだ。
「未来はまだシワなんて気にしなくていいでしょ」
母が笑う。
「いまはね」
そう答えたら、また二人が顔を見合わせた。
変なこと言ったかな。
でも、本当に今だけだ。
五歳の私は若い。
十歳も若い。
二十歳だって若い。
でも三十歳になれば。
前世の最後を思い出した。
鏡。
目元。
ほんの少しの変化。
誰にも分からない程度だった。
私は分かった。
あの時の気持ちは、今でもはっきり覚えている。
今の身体も、放っておけばいつか同じになる。
せっかく。
こんなにいい顔に生まれたのに。
それは嫌だ。
「ずっときれいがいい」
ぽつりと言うと、母が笑った。
「未来は女の子だねえ」
違う。
そういう話じゃない。
まあ、いいけど。
私は鮭を一口食べた。
今はまだ、何も知らない。
皮膚のことも。
身体のことも。
でも時間はある。
分からないなら調べればいい。
読んだものは忘れない。
分からなければ、その一つ前まで戻る。
それでも分からなければ、もっと前。
そうやって全部繋げればいい。
十五年。
二十歳まで十五年もある。
その時の私は、本気でそう思っていた。
十五年もあれば。
大抵のことは、どうにかできるだろうと。




