第19話 知らないものが減っていく
アメリカに来て四日目の朝、大学へ向かう車の窓には細い雨粒が残っていた。
昨日まであれだけ強かった日差しが嘘みたいに空は白く、濡れた歩道を学生たちが傘を差して歩いている。大学の芝生もいつもより色が濃く見えた。
私は後部座席でスマホを眺めていた。
画面に開いているのはSNSではない。
免疫学の教科書だった。
昨夜、眠る直前まで読んでいた続き。
自然免疫と獲得免疫。
T細胞。
B細胞。
マクロファージ。
サイトカイン。
昨日までは知っている単語がところどころ浮かんでいるだけだった章が、一晩挟んだだけで随分読みやすくなっている。
読み進めるたびに、昔読んだ論文の文章が頭の中に浮かんだ。
あの論文で何度も出てきた略語。
意味は調べた。
覚えてもいた。
でも、当時はそれ以上ではなかった。
今なら、その略語が文章の中で何を意味していたのかまで分かる。
知識が増えたことで、過去に読んだものまで勝手に解像度が上がっていく。
変な感覚だった。
普通は、もう一度読み直すんだろうか。
私は頭の中に残っている文章を思い出せばいい。
かなり便利。
「未来、着いたよ」
母に言われて顔を上げた。
いつの間にか研究棟の前だった。
*
研究室の扉を開けると、昨日までと同じ匂いがした。
アルコールに似た消毒剤の匂いと、機械が吐き出す微かな熱。それに誰かが淹れたコーヒーの香りが混ざっている。
朝の研究室は思っていたより静かだった。
奥では白衣姿の研究員が透明なプレートを光に透かして確認している。別の机では大学院生らしい人がモニターを二枚並べ、大量の数字を睨んでいた。
エミリーは実験台の前にいた。
髪を高い位置で一つにまとめ、青い手袋をつけている。
私を見ると、作業を止めずに片手だけ上げた。
『おはよう、未来』
『おはようございます』
『昨日は何時に寝た?』
『十二時くらい』
『何してた?』
『免疫学』
エミリーの手が止まった。
ゆっくりこちらを見る。
『昨日の続き?』
『はい』
『どこまで?』
『獲得免疫の途中まで』
『……一晩で?』
『全部細かくはやってないです。最初なので全体から』
最初から細部を全部覚える必要はない。
まず構造を作る。
何があって、それぞれがどう繋がっているのか。
そこに後から細かい情報を入れた方が速い。
エミリーが何とも言えない顔をしている。
『何ですか?』
『いや。Danielが言ってた意味が少し分かった』
『何て?』
『教えた分だけじゃなくて、勝手に増えるから気をつけろって』
『何を気をつけるんですか?』
『私にも分からない』
変なの。
*
午前中は、エミリーの実験を見せてもらった。
昨日までと違って、今日は何をしているのか少し分かる。
透明なプレートの小さなくぼみが規則正しく並び、その一つ一つに少量の液体が入っている。
エミリーはピペットを使い、順番に液体を移していく。
カチッ。
吸う。
移動。
吐き出す。
また次。
動きに迷いがない。
『これ、昨日説明してたやつですよね』
『そう』
『炎症性サイトカインを見る?』
エミリーが顔を上げた。
『正解』
昨日なら、その説明を聞いて終わっていた。
今日は違う。
何を測っているのか分かる。
それがどの細胞から出るのかも。
どういう経路で増えるのかも、まだ一部だけど分かる。
すると。
昨日はただの作業に見えたものに、意味がついた。
面白い。
『じゃあ、この群でこっちが上がったら――』
口にしかけて止める。
いや。
待って。
頭の中で昨日読んだ経路を辿る。
刺激。
受容体。
シグナル。
転写。
炎症。
でも、老化細胞の場合は。
別の論文が浮かぶ。
その次に、午前中に読んだ教科書。
『エミリー』
『なに?』
『これって、このサイトカインだけ見て判断するんですか?』
『もちろんそれだけじゃないよ』
『じゃあ、こっちも?』
近くに置かれていた実験計画を指す。
エミリーが私の指先を見た。
『そう。よく分かったね』
『今朝読みました』
『今朝?』
『車で』
『……何分?』
『四十分くらい』
エミリーがピペットを置いた。
『未来』
『はい』
『ちょっと質問していい?』
『どうぞ』
『T細胞の種類、今どれくらい言える?』
急だな。
答える。
大きな分類から。
その役割。
今朝読んだ範囲。
途中でエミリーが質問を挟んだ。
答える。
次。
少し難しい。
考える。
昨日読んだ場所。
出てくる。
答える。
また次。
これは知らない。
『分かりません』
『よかった』
『何がですか?』
『全部答えられたら怖いから』
『まだ一日ですよ』
『その一日が怖いって言ってるの』
そう?
*
昼前になると、研究室は朝より賑やかになっていた。
廊下を行き来する人が増え、どこかで遠心機の低い音がしている。誰かが電子レンジを使ったらしく、休憩スペースから食べ物の匂いまで漂ってきた。
私は窓際の小さな机を借りて、午前中に分からなかったところを調べていた。
外を見ると、雨はもう上がっている。
雲の切れ間から光が差して、濡れた芝生が妙に明るかった。
『Mirai?』
声をかけられて振り向く。
知らない男性が立っていた。
白衣ではなく、濃い色のシャツに首からIDカードを下げている。
四十代くらい。
『はい』
『Danielから聞いたよ』
誰。
顔には出さずに待つ。
『Michael Levinson。免疫学をやってる』
『初めまして』
昨日エミリーが言っていた。
専門家。
この人か。
マイケルは私の画面を覗いた。
『Emilyから聞いたけど、免疫学を勉強し始めたんだって?』
『昨日からです』
『昨日?』
一瞬黙った。
もう慣れた。
みんな同じ反応する。
『何のために?』
『老化を止めるのに必要なので』
『なるほど』
マイケルは笑った。
子供が恐竜に詳しくなりたいと言った時みたいな笑い方。
たぶん。
まだ信じてない。
『じゃあ一つ、面白いものを見せようか』
そう言って、自分のタブレットを開いた。
表示されたのは顕微鏡画像だった。
暗い背景。
色のついた細胞。
一部だけ、違う色で光っている。
綺麗。
『何ですか?』
『老化した組織に集まってきた免疫細胞』
拡大される。
『身体は、いらなくなった細胞をただ放置してるわけじゃない。免疫系が見つけて排除する仕組みがある』
『でも年を取ると残る』
『そう』
『免疫が弱くなるから?』
『それもある。でも、それだけじゃない』
次の画像。
違う。
『老化細胞の側も変わる。免疫から逃げるものも出てくる』
『癌みたい』
マイケルの指が止まった。
『そう。面白いところに気づいたね』
『癌細胞も免疫から逃げますよね』
『その通り』
『仕組みは同じ?』
『一部は似てる』
『じゃあ癌の免疫療法を老化細胞に使った研究あります?』
マイケルが私を見る。
さっきまでと少し顔が違う。
『あるよ』
『読みたいです』
『送ってあげる』
『ありがとうございます』
やっぱり。
癌。
必要。
昨日考えた通りだった。
*
昼休み。
研究室の人たちと一緒に食べることになった。
大きなテーブルの上には、それぞれ持ってきた昼食が並んでいる。
私は母が買ってくれたサンドイッチ。
エミリーはサラダ。
マイケルはよく分からない大きなラップサンド。
マーサー教授が向かいに座った。
『どう?』
『何がですか?』
『免疫学』
『面白いです』
『昨日始めたばかりなのに、もうMichaelを捕まえたらしいね』
『向こうから来ました』
『捕まったのは私だよ』
横からマイケル。
みんなが笑った。
私はサンドイッチを食べる。
『未来』
マーサー教授が言った。
『Michaelはこの分野を二十年以上やってる』
『はい』
『分からないことがあったら、彼に聞くといい』
『そうします』
ありがたい。
二十年分。
使える。
マイケルが笑った。
『その顔、私をデータベースか何かだと思ってない?』
少し考える。
『かなり便利だと思ってます』
また笑われた。
なんで。
*
午後。
マイケルから論文が届いた。
五本。
開く。
一本目。
読む。
二本目。
途中で一つ目と繋がる。
三本目。
また。
知識が増える。
すると、午前中に見た顕微鏡画像の意味まで変わって見えた。
老化細胞。
免疫。
癌。
別々の分野として名前がついている。
でも。
身体の中では別々じゃない。
全部。
同じ身体の中で起きている。
人間が研究するために、勝手に線を引いているだけ。
だったら。
その線に私まで従う必要はない。
*
夕方。
研究室を出る前に、マイケルを見つけた。
『ありがとうございました』
『もう読んだ?』
『三本』
『……五本送ったの、一時間半前だけど』
『残り二本はホテルで読みます』
『全部理解した?』
『分からないところあります』
スマホのメモを開く。
質問。
十二個。
『明日聞いていいですか?』
マイケルがメモを見る。
それから私を見る。
なぜか少し笑った。
『もちろん』
一歩離れて。
また戻ってきた。
『未来』
『はい』
『一つだけ』
『何ですか?』
『そのペースで勉強すると、たぶんすぐ私の専門用語が通じるようになる』
『それが目的です』
『いや』
マイケルが首を振った。
『私が言いたいのは、その後だよ』
意味が分からない。
『その後?』
『私にも分からない』
今日二人目。
なんなの。
*
ホテルに戻る途中、母に頼んでドラッグストアへ寄ってもらった。
研究だけで一日を終わらせるつもりはない。
棚には、日本で見ない商品がずらりと並んでいた。
スキンケア。
ヘアケア。
メイク。
パッケージも色も、日本とは全然違う。
さっきまで免疫細胞のことを考えていた頭が、すぐに切り替わる。
成分表示を見る。
一本。
次。
比較。
気になるものはスマホで検索する。
口コミ。
成分。
価格。
動画。
関連商品。
次々開く。
母は途中からついてこなくなった。
「未来、買い物くらい普通にできないの?」
「してるよ」
「化粧水一本に何個タブ開いてるの」
「今十二個」
「それを普通とは言わない」
そうかな。
でも。
せっかく買うなら一番いいものが欲しい。
研究も。
美容も。
同じ。
知らないまま選ぶのが嫌なだけ。
結局、ヘアケアを二つと、リップを一本買った。
ホテルに戻ったら使用感も記録する。
論文二本も残ってる。
忙しい。
でも。
悪くない。
*
その夜。
ベッドの横では、母がもう眠っていた。
部屋の照明を落とし、私はタブレットの明るさを最低まで下げる。
マイケルからもらった最後の論文を読み終える。
時計を見る。
十一時四十三分。
閉じる。
目を閉じた。
今日読んだものを思い出す。
最初の論文。
二つ目。
三つ目。
教科書。
マイケルの画像。
エミリーの実験。
順番に。
全部ある。
忘れていない。
それどころか。
朝より。
繋がっている。
昔読んだ老化の論文。
昨日覚えた免疫。
今日読んだ癌。
頭の中で、別々だったものの間に道ができている。
たぶん。
これが増えていく。
十本。
百本。
千本。
もっと。
普通なら。
覚えきれなくなるんだろう。
私は。
どうなるんだろう。
少しだけ興味が湧いた。
自分の頭が。
どこまで入るのか。
どこまで繋げられるのか。
試したことがない。
なら。
試せばいい。
明日は。
マイケルに十二個質問する。
その答えから。
また知らないものが増える。
そして。
それも全部。
覚えればいい。




