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第18話 専門

研究室に来て二日目。


昨日とは違って、今日は朝からミーティングに参加させてもらえることになった。


もちろん、私は見学者だ。


発表するものもなければ、ここで進めている研究に直接関わっているわけでもない。


だから最初は、端の席で静かに聞いているつもりだった。


本当に、そのつもりだった。


『じゃあ始めようか』


マーサー教授の一言で、部屋の照明が少し落とされた。


前方のモニターにスライドが映る。


発表するのは、昨日少し話した研究員だった。


テーマは老化細胞と免疫系の関係。


知っている。


少なくとも、途中までは。


話を聞きながら、スライドを追う。


細胞老化については、この数年でかなり読んだ。


マーサー教授の専門でもあるから、必然的に触れる論文の数も多い。


でも、途中から免疫の話が深くなった。


知らない。


正確には、単語は知っている。


論文の中で見たこともある。


ただ、その分野だけを追ったことはなかった。


研究員が次のスライドへ進む。


そこで、頭の中に何かが引っかかった。


少し前に読んだ論文。


タイトルはすぐに出てきた。


著者。


掲載誌。


発表年。


その論文では確か、同じような炎症性因子を別の角度から見ていた。


さらにもう一本。


これは去年。


対象が違う。


でも。


似ている。


私はノートに書こうとして、手を止めた。


書く必要がなかった。


覚えている。


グラフの形まで。


発表中のスライドを見る。


頭の中で三つ並べる。


……これ。


『質問してもいいですか?』


部屋が静かになった。


しまった。


見学者だった。


マーサー教授を見る。


怒ってはいない。


むしろ、どうぞという顔をしている。


ならいい。


『この変化って、老化細胞そのものが原因だと考えてるんですか?』


研究員が答える。


『今のところは、その可能性を考えてる』


『でも、去年出ていた――』


論文の名前を言う。


研究員が少し驚いた。


『知ってるの?』


『読みました』


続ける。


『あっちでは似た炎症反応が出てるのに、細胞老化の指標は同じようには動いてなかったと思います』


頭の中でもう一度確認する。


合ってる。


『それと、三年前の――』


もう一本。


今度は免疫系の論文。


『この二つを合わせると、ここの変化って老化細胞から直接というより、免疫側の反応が間に入ってる可能性ありませんか?』


言い終わる。


静か。


何。


英語間違えた?


エミリーを見る。


こっちを見ている。


研究員は自分の画面に戻って、何かを検索し始めた。


『……その二本、あとで送ってくれる?』


『はい』


よかった。


間違いではなかったらしい。


*


ミーティングが終わったあと、マーサー教授に呼び止められた。


『未来』


『はい』


『さっきの論文、いつ読んだ?』


『どっちですか?』


『両方』


考える。


『一つは四か月くらい前。もう一つは……半年くらい前だと思います』


『今日のために読み直した?』


『いいえ』


『メモは?』


『取ってないです』


『なのに結果を覚えてた?』


『はい』


何を聞きたいんだろう。


教授が黙っている。


『グラフも?』


『だいたい』


『“だいたい”って?』


『軸の細かい数字までは全部見てないです。でも形と、どの群で差が出てたかは』


マーサー教授が額に手を当てた。


昨日も見た。


この顔。


『何ですか?』


『未来。普通はね』


『はい』


『半年前に一度読んだ論文の図を、別の研究発表を聞きながら頭の中で引っ張り出して比較したりしない』


『そうなんですか?』


『そうなんだよ』


知らなかった。


記憶力がいいことは分かっている。


前世とは明らかに違う。


一度覚えた英単語を忘れない。


教科書も、一度理解したところを何度も復習する必要がない。


だから勉強が速い。


でも。


他人の頭の中なんて見たことがない。


どこからが普通じゃないのかまでは、よく分からなかった。


『便利ですよ』


正直に言った。


マーサー教授が笑った。


『それはそうだろうね』


*


午後。


昨日に続いて、エミリーの作業を見せてもらった。


ただ、今日は実験そのものより、別のことが気になっていた。


午前中のミーティング。


免疫。


私は細胞老化をかなり勉強した。


でも、免疫は足りない。


だから途中から分からなかった。


それが嫌だった。


『エミリー』


『ん?』


『免疫学って、ちゃんと勉強するなら何から読めばいいですか?』


手を動かしたまま、エミリーが答える。


『どのくらいちゃんと?』


『専門家と話せるくらい』


手が止まった。


『……未来』


『はい』


『あなた、老化を研究したいんだよね?』


『そうです』


『だったら免疫学者になる必要はないよ』


『なんで?』


『なんでって』


エミリーが困ったように笑った。


『全部を一人で専門にするのは無理だから。研究はそういう時のために共同研究するの』


共同研究。


もちろん知っている。


分からないところを、その分野の専門家に頼む。


合理的。


普通なら。


『でも、その人が間違ってたら?』


エミリーが止まった。


『え?』


『私が分からなかったら、その人が言ってることが正しいか判断できないですよね』


『まあ……完全にはね』


『嫌です』


自分の身体に使うものなのに。


そこを他人に丸投げするのは嫌だった。


もちろん実験を一人で全部やる必要はない。


人手が必要なら使えばいい。


でも。


理解できない部分を残すのは違う。


私は最終的に、自分が何を作ったのか全部分かっていたい。


『それに、老化って免疫も関係ありますよね』


『かなりね』


『じゃあ必要じゃないですか』


『必要だけど、専門家になる必要までは――』


『どこまで分かれば十分なんですか?』


『それは……』


エミリーが黙った。


ほら。


線なんてない。


だったら。


上まで行った方が早い。


*


その日の午後。


マーサー教授の部屋を借りて、免疫学の教科書を探した。


英語。


何冊かある。


レビュー論文。


講義。


オンライン教材。


一通り開く。


量を見る。


多い。


でも。


無理ではない。


少なくとも。


そう感じた。


昔なら。


知らない言葉が多すぎて、どこから手をつければいいのか分からなかったと思う。


今は違う。


細胞生物学。


分子生物学。


遺伝学。


生化学。


今まで蓄えた知識が土台にある。


新しい内容を読んでも、全部が新しいわけじゃない。


知っているものに、知らないものがくっついていく。


一つ理解すると。


別の場所が勝手に繋がる。


「あ」


思わず声が出た。


これ。


前に分からなかったやつ。


免疫の話だったんだ。


半年前に読んだ論文の一節が浮かぶ。


当時は意味だけ覚えて、そのままにしていた。


今なら分かる。


その次。


また別。


知識が増えるたびに。


昔覚えたものまで、意味が変わっていく。


面白い。


*


気づいたら、エミリーが後ろに立っていた。


『未来』


『はい』


『一時間以上ずっと読んでるけど』


『はい』


『休憩は?』


『あとで』


『何読んでるの?』


画面を見せる。


教科書。


横に論文。


さらに別のタブ。


『……本当に始めたの?』


『何を?』


『免疫学』


『はい』


『さっきの今で?』


『忘れる前に』


正確には。


忘れないけど。


気になるうちにやった方がいい。


エミリーが椅子を引いて、私の隣に座った。


『どこまでやるつもり?』


『分かりません』


『専門家と話せるまで?』


『とりあえず』


『その後は?』


その後。


考える。


免疫。


遺伝子。


幹細胞。


代謝。


脳。


内分泌。


癌。


老化を止めた時、一番怖いのは癌かもしれない。


細胞を若く保って。


増殖能力まで維持して。


その結果、腫瘍だらけになったら意味がない。


癌も必要。


『腫瘍学』


『……え?』


『その次。たぶん癌もちゃんとやります』


『ちょっと待って』


『あと幹細胞も』


『未来』


『なんですか?』


『一回止まろう』


『なんで?』


『人間には専門というものがあるから』


知ってる。


『マーサー教授は細胞老化』


『そう』


『エミリーは?』


『私は老化と免疫の境界が中心』


『じゃあ癌は?』


『専門家に聞く』


『幹細胞は?』


『専門家に聞く』


『脳は?』


『神経科学者』


『代謝は?』


『代謝の研究者』


『それ全部、老化に必要ですよね』


『必要だけど』


やっぱり。


『じゃあ全部やります』


エミリーが黙った。


しばらくして。


笑った。


『Danielに言ってきて』


『何を?』


『あなたの弟子、壊れてるって』


『失礼ですね』


壊れてない。


むしろ。


前よりずっと。


頭の中が綺麗に繋がり始めていた。


*


その夜。


ホテルで母と父が寝たあとも、私はベッドの中で考えていた。


今まで。


私は勉強する分野を、一つずつ増やしてきた。


英語が必要だから英語。


論文を読むために生物。


解析するために統計とプログラミング。


全部。


必要になってから覚えた。


でも。


老化について知れば知るほど。


一つの分野だけで解ける問題ではないことが分かってきた。


細胞が老化する。


それを止める。


終わり。


そんな単純な話じゃない。


細胞を若くしても。


免疫が壊れれば意味がない。


癌になっても意味がない。


脳が衰えても。


骨が脆くなっても。


血管が駄目になっても。


ホルモンが崩れても。


口の中が劣化しても。


全部。


嫌。


私は肌だけ綺麗な老人になりたいわけじゃない。


二十歳の身体を。


丸ごと。


維持したい。


だったら。


必要な知識も。


丸ごと取るしかない。


普通の人間には無理なのかもしれない。


でも。


今日。


少し分かった。


私の頭は。


たぶん。


普通じゃない。


覚えたものが消えない。


それだけだと思っていた。


違う。


知識が増えるほど。


昔覚えた知識と、新しく入れた知識が勝手に繋がっていく。


一年前より。


今の方が。


新しいことを覚えるのが速い。


たぶん。


来年はもっと速い。


なら。


どこまで行けるのか。


試してみたい。


スマホを開いた。


免疫学。


腫瘍学。


幹細胞生物学。


神経科学。


代謝。


内分泌。


必要になりそうな分野を、思いつくまま並べていく。


リストはどんどん長くなった。


普通なら。


ここで諦めるんだと思う。


一生かかる。


専門家に任せよう。


そう考える。


でも。


画面いっぱいに並んだ分野を見ても。


不思議と。


無理だとは思わなかった。


時間はかかる。


面倒。


でも。


覚えればいい。


ただ、それだけに見えた。

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