第17話 海の向こう
アメリカ行きが決まってからの一か月は、妙に長く感じた。
やることは山ほどあった。
マーサー教授の研究室が最近出した論文を読み直して、エミリーの研究にも一通り目を通す。研究室で聞きたいことは、思いつくたびにノートへ書き足した。
英語も増やした。
読み書きにはもう困らないし、マーサー教授とのオンライン面談も普通にできる。それでも、現地では教授以外の研究者とも話すことになる。
専門用語を聞き取れなくて会話が止まるのは嫌だった。
そんなことをしているうちに、出発まで二週間を切った。
研究関係の準備はだいたい終わった。
そこでようやく、もっと重大な問題に気づいた。
「服どうしよう」
研究室には初対面の人がたくさんいる。
エミリーとは画面越しに会ったことがあるけど、他の人はほとんど初対面だ。写真を撮ることだってあるかもしれない。
適当な格好で行くのは嫌だった。
クローゼットを開けて、一着ずつ見る。
服自体はそれなりに持っている。でも、どうにも選択肢が少ない。
フリル。
リボン。
花柄。
パステルカラー。
可愛い。
確かに可愛いけど、今欲しいのはこれじゃない。
「……子供服ってなんでこんなのばっかりなんだろ」
もっとシンプルで、形が綺麗なものがいい。
大人の服ならいくらでも見つかるのに、十歳の身体に合うサイズになると一気に減る。
研究では年齢が邪魔になって、美容でも年齢が邪魔になる。
十歳、思っていた以上に不便だった。
*
結局、母を連れて服を買いに行った。
白いトップスに薄手のカーディガン。パンツは余計な装飾がなくて、脚の形が綺麗に見えるものを選んだ。
靴は歩くことを考えてスニーカー。
全部着て鏡の前に立つ。
悪くない。
子供っぽすぎないし、だからといって無理に大人の真似をしている感じもしない。
何より、顔の邪魔をしない。
「未来、ちょっと地味じゃない?」
後ろで母が首を傾げた。
「いいの。研究室だし」
「こっちのブラウスも可愛かったよ?」
「顔が可愛いから服まで頑張らなくて大丈夫」
母が黙った。
鏡越しに目が合う。
「未来って、本当にそういうこと普通に言うよね」
「ママしかいないじゃん」
「外では言わないの?」
「言う意味ないし。面倒な人いるから」
「そこは分かってるんだ……」
「当たり前でしょ」
謙遜したところで顔が変わるわけでもない。
自分の顔が綺麗かどうかくらい、自分で見れば分かる。
ただ、それをわざわざ他人に言って得することもない。
だったら黙っている。
それだけだ。
もう一度、全身を見る。
髪を下ろした状態と、少しまとめた状態も確認する。
うん。
これでいい。
*
出発の日。
空港には、思っていた以上に外国人が多かった。
父が大きな荷物を担当して、母はパスポートや搭乗券を何度も確認している。その横を歩きながら、私は別のものを見ていた。
人。
日本にいる時より、明らかに幅がある。
髪の色も、肌の色も、体型も違う。服の合わせ方も違えば、メイクの濃さも違う。
SNSで海外の美容系動画は散々見てきたけど、画面越しに見るのと実際に人の群れを見るのでは情報量が全然違った。
特に目についたのは、少し離れたところを歩いていた女の人だった。
背が高くて、脚が長い。
服は驚くほどシンプルなのに、妙に目立つ。長い髪にも艶があって、歩いているだけで様になっていた。
顔も綺麗。
目がものすごく大きいわけでも、派手なメイクをしているわけでもない。
じゃあ何がいいんだろう。
鼻。
輪郭。
頭身。
いや。
たぶん、全部のバランス。
「未来」
父に呼ばれて、視線を戻した。
「なに?」
「めちゃくちゃ見てるよ」
「あ」
もう一度向こうを見ると、ちょうど目が合った。
女性が笑ったので、私も反射的に笑い返す。
危ない。
普通に失礼だった。
「綺麗な人いたから」
「だからって凝視しないの」
「気をつける」
でも、綺麗だった。
あとで似た雰囲気の人を探してみよう。
*
飛行機は、想像していた以上に長かった。
最初の二時間は論文を読んだ。
そのあと映画を一本見て、機内食を食べて、寝た。
目が覚めた。
まだ着かない。
「アメリカ遠すぎない?」
隣の母が笑った。
「今さら?」
「オンラインってすごいね。これ一瞬じゃん」
「研究室に行く前に気づいた?」
「行く価値あるか今回確認する」
「なかったら?」
「次からオンラインでいい」
「ドライだなあ」
でも、本当にそうだった。
往復だけでかなりの時間を使う。
移動時間まで考えれば、その間に論文を何本読めるか分からない。
実際に行かなければ得られないものがあるなら行く。
なければ画面でいい。
今回は、それを確かめる意味もあった。
*
長い移動を終えて空港の外へ出た瞬間、考えが一つ変わった。
「日差し強い」
暑さより先にそっちが気になった。
日本から持ってきた帽子を出して、サングラスもかける。
日焼け止めは朝塗ったけど、ホテルに着いたら塗り直そう。
「アメリカに来て最初の感想、それ?」
母が呆れている。
「紫外線に国境ないよ」
「景色とかないの?」
言われて周囲を見る。
道路が広い。
車も大きい。
看板は当然全部英語で、歩いている人たちの服装も日本とはかなり違う。
「アメリカだね」
「感想うす」
「まだ空港じゃん」
それより、やっぱり人を見る方が面白かった。
日本より身体のラインを出した服を着ている人が多い。眉もまつ毛も、日本で流行っているものとは少し違う。
SNSで見ていたものが、そのまま街を歩いている。
研究室以外にも、来た価値はありそうだった。
*
ホテルに着くと、荷物を開けるより先に翌日の準備をした。
服。
ノート。
スマホ。
研究室で聞くことをまとめたメモ。
忘れ物がないか確認してから、ようやくベッドに座る。
「未来、これ一応旅行だからね」
母が向こうのベッドから言った。
「知ってるよ」
「明日、研究室のあと観光する?」
「研究室何時まで?」
「そこからなの?」
「終わる時間分かんないと決められないじゃん」
父が笑った。
「せっかくアメリカまで来たんだから、大学以外も見ようよ」
「美容系のお店行きたい」
「研究室とどっちが大事?」
「研究室」
即答した。
「その次が美容」
「観光は?」
少し考える。
「三番?」
「聞くなよ」
二人が笑っている。
何がおかしいのか分からない。
観光地は写真でも見られる。
研究室の中は見られない。
優先順位としては普通だと思う。
*
翌朝。
目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。
普段ならあと十分くらい粘るところだけど、今日はそのまま起きる。
洗面所で鏡を見ると、少しむくんでいた。
「最悪」
飛行機。
塩分。
睡眠不足。
原因はいくらでも思いつく。
冷やして、少し時間を置く。
昨日よりは戻った。
髪を整えて、用意していた服を着る。日焼け止めまで終えて全身を確認したところで、後ろから母の声がした。
「未来、今日だけ準備早くない?」
「そう?」
「起こしてないもん」
「あ」
確かに。
自分でも少し笑った。
楽しみなのかもしれない。
*
大学は、写真で何度も見ていた。
でも、実際にその場所に立つと印象が全然違った。
画面の中では一枚の風景だった建物が、思っていたよりずっと大きい。広い芝生の間を学生たちが行き交っていて、その向こうには研究棟が見える。
あの中に、論文で何度も名前を見た人たちがいる。
私が読んできた実験を、実際にやっている人たちがいる。
そう考えると、有名な観光地を見るよりずっと面白かった。
研究棟に入る。
受付で手続きをして、両親と一緒にエレベーターへ乗った。
階数表示が上がっていく。
別に緊張しているつもりはなかった。
それなのに、扉が開いた瞬間、自然と背筋が伸びた。
廊下には、病院とも学校とも違う匂いがあった。
どこかから機械の低い音が聞こえる。白衣を着た人が資料を持って横を通り過ぎ、その先にはいくつもの扉が並んでいた。
写真で見たことがある。
この先だ。
「あ」
向こうから歩いてきた人にも見覚えがあった。
エミリーだ。
画面越しに何度か話したことはある。でも実際に見ると、思っていたより背が高い。
向こうも私に気づいたらしく、一瞬足を止めた。
それから、ものすごく嬉しそうに笑った。
『未来?』
『はい』
『本当に来た!』
勢いよく近づいてきて、そのまま抱きしめられそうになったので、一歩だけ身体が引いた。
エミリーもすぐに気づいたらしい。
『ハグ、嫌?』
『慣れてないです』
『了解』
助かった。
その後ろから、もう一人歩いてくる。
何十回も画面で見た顔。
ダニエル・マーサー教授。
実物を見るのは初めてだった。
画面より少し背が高い。
あと。
少し老けて見える。
照明かな。
『未来』
教授が笑った。
『初めまして、になるのかな』
『直接会うのは初めてです』
『そうだね。ようこそ』
差し出された手を握る。
ずっと話してきた相手なのに、直接会うと妙な感じがした。
でも、それも数秒だった。
教授の肩越しに、開いた扉の向こうが見えたから。
実験台。
見たことのない機械。
モニター。
ラックに並んだチューブ。
培養器らしきもの。
忙しそうに動いている研究者。
論文のMethodsで何度も読んだ単語が、物として目の前にある。
気づいたら、一歩前へ出ていた。
マーサー教授が振り返る。
『私より研究室の方が気になる?』
『はい』
『即答か』
『ずっと見たかったので』
横でエミリーが吹き出した。
『Daniel、負けたね』
『最初から勝てると思ってないよ』
何の勝負をしていたのかは知らない。
それより。
『入っていいですか?』
マーサー教授は少し笑って、扉を大きく開いた。
『もちろん』
中へ入る。
その瞬間、画面越しでは絶対に分からなかった情報が一気に入ってきた。
機械の音。
室温。
人が動く速度。
何かを確認しながら作業する声。
想像していたより物が多くて、それなのにどこに何があるのか、働いている人たちは迷わず手を伸ばしている。
面白い。
あの機械は何を測るんだろう。
あっちの容器は何。
あの人が今入れたものは。
知りたいものが一気に増えて、どこから見ればいいのか分からない。
論文を読んでいる時とは違った。
文章なら上から順番に読めばいい。
ここには順番がない。
『未来』
呼ばれて振り返る。
マーサー教授が、妙に楽しそうな顔でこちらを見ていた。
『一つだけ、約束を覚えてる?』
何だっけ。
数秒考えて思い出す。
『触りません』
『Good.』
やっぱり信用されていない。
まあ、いい。
今日は見るだけでも十分だった。
私はノートを開いた。
*
最初の一時間で、三ページ埋まった。
研究室を案内してもらうだけのつもりだったのに、見たことのないものが多すぎる。
説明を聞くたびに、その説明の中からまた分からない言葉が出てくる。
質問する。
答えてもらう。
すると、その答えからまた質問が出る。
気づけばノートは五ページ目に入っていた。
『未来』
エミリーに呼ばれて顔を上げる。
『休憩しよう』
『まだ大丈夫です』
『あなたじゃなくて、私たちが大丈夫じゃないの』
『?』
『朝から質問、四十個超えてる』
『数えてたんですか?』
『途中からね』
知らなかった。
マーサー教授がコーヒーを二つ持って戻ってきた。
一つをエミリーへ渡して、私の前には水を置く。
『それで?』
教授が向かいに座った。
『わざわざ海を越えてきた価値はあった?』
私は少しだけ考えてから、研究室の方を見る。
来る前は、実際に見れば分かることが増えると思っていた。
逆だった。
論文の中では数行で終わっていた実験に、いくつもの工程がある。
当然のように書かれていた手法一つにも、細かい技術が必要になる。
研究者同士が何気なく話している内容にも、私の知らないものがいくらでも混ざっていた。
一つ分かるたびに、三つくらい分からないものが増えていく。
最悪だ。
二十歳まであと十年しかないのに。
でも。
その全部を知れる場所が、目の前にある。
『ありました』
『そう?』
『かなり』
マーサー教授が笑った。
私は水を一口飲んで、ノートの端に小さく一行書き足した。
休憩が終わったら、まずこれを聞く。
まだ午前中なのに。
質問はもう、四十一個目になっていた。




