第16話 十歳の共著者
論文が通ったからといって、翌朝世界が変わるわけではない。
普通に学校がある。
朝起きて、顔を洗って、日焼け止めを塗る。
髪を整えて、朝ごはんを食べる。
鏡を見る。
寝癖なし。
肌も問題なし。
「行ってきます」
昨日、論文が通った。
そして、今日の一時間目は国語だった。
*
変わったのは、私ではなくマーサー教授の方だった。
数日後。
メールが来た。
いつもの論文でも課題でもない。
研究室のみんなに君のことを話した。
「……今さら?」
てっきり知っていると思っていた。
考えてみれば、オンラインで話す時はいつも教授一人だった。
返信する。
何を話したんですか?
すぐ返ってきた。
年齢。
そこ?
嫌な予感がする。
なぜ?
今度は少し間が空いた。
君の年齢を知った時の彼らの顔が見たかった。
「この人……」
意外と性格悪い。
*
その頃。
海の向こうでは、私の知らないところで少し騒ぎになっていたらしい。
それを知ったのは、ずっと後になってからだった。
*
ダニエル・マーサーの研究室には、その日も十数人の研究者がいた。
大学院生。
ポスドク。
研究員。
論文が一本通った程度で、研究室全体が大騒ぎすることはない。
もちろん嬉しい。
でも珍しくもない。
話題になったのは別のところだった。
「Daniel」
一人のポスドクが論文の著者欄を見ながら声をかけた。
『このMirai Kujoって誰?』
聞いたことのない名前だった。
共同研究先の研究者か。
新しい学生か。
『日本の子だよ』
『日本のどこの大学?』
『大学には行ってない』
『高校生?』
マーサーは少し楽しそうにコーヒーを飲んだ。
『小学生』
『……何?』
近くにいた二人が顔を上げた。
『十歳だよ』
数秒。
誰も喋らなかった。
『冗談だろ?』
『本当』
『この解析を?』
『ほとんど本人がやった』
『Daniel』
『何?』
『十歳だぞ』
『知ってる。三年前から』
今度は。
別の意味で静かになった。
『三年前?』
『七歳の時にメールが来た』
『七歳児から?』
『そう』
『なんて?』
『老化を止めたいって』
『……学校の自由研究?』
『自分が老けたくないから』
『は?』
マーサーは笑った。
最初にオンラインで話した時。
自分も似たような顔をしていたと思う。
*
その週末。
マーサー教授とのオンライン面談。
接続すると。
知らない女の人がいた。
「誰ですか?」
教授の隣に座っている。
三十歳くらい。
髪を後ろでまとめて、眼鏡。
『紹介するよ。エミリー・カーター。うちのポスドクだ』
ポスドク。
なるほど。
『初めまして』
『初めまして』
挨拶を返す。
エミリーが私を見る。
すごい見てる。
顔?
何。
前髪変?
一瞬自分の映像を見る。
普通。
『本当に十歳なのね』
『はい』
『Danielから聞いた時、信じなかった』
『そうですか』
まあ。
どうでもいい。
『あの解析、本当にあなたが?』
『はい』
『コードも?』
『はい』
『誰に教わったの?』
『ネットと本です。分からないところはマーサー教授に聞きました』
『Pythonを始めたのは?』
『十歳になってからです』
『……何か月前?』
考える。
『七か月くらい』
エミリーがマーサー教授を見る。
教授は笑っている。
なんなの。
『今日は私の研究について、未来に意見を聞いてみたくてね』
教授。
「え」
思わず日本語が出た。
二人が止まる。
『ごめんなさい。なんですか?』
『君に見せたいデータがあるそうだ』
『私に?』
『そう』
エミリーが画面を共有した。
データ。
細胞。
老化。
私が最近読んでいた分野と近い。
でも。
知らない。
まだ公開されていないものらしい。
『外には出さないでね』
『出しません』
見る。
説明を聞く。
途中で。
質問。
答えてもらう。
また見る。
面白い。
*
最初は。
意見なんて言えるものはなかった。
エミリーの方が圧倒的に詳しい。
当然。
何年研究してると思ってるの。
私なんてまだ、本物の細胞すら触ったことがない。
だから。
分からないところを聞いた。
一つ。
二つ。
三つ。
説明される。
頭の中で繋げる。
もう一度データを見る。
そこで。
少しだけ引っかかった。
『これ、男性と女性で分けてますか?』
エミリーが止まった。
『一応』
『見てもいいですか?』
別のグラフ。
見る。
「あ」
また日本語。
『何かあった?』
マーサー教授。
『ここです』
指す。
全体ではほとんど差がない。
でも。
分けると。
少し違う。
『女性の方だけ、こっちの変化が大きくないですか?』
エミリーが画面を見る。
『……少しね』
『年齢は?』
『揃えてある』
『ホルモンの影響は?』
エミリーが黙った。
私も黙る。
分からない。
可能性を言っただけ。
『調べてない?』
マーサー教授。
『この研究では主目的じゃなかったから』
『じゃあ見てみたらいいんじゃないですか?』
私。
単純に。
気になる。
それだけ。
*
その日はそこで終わった。
一週間後。
エミリーからメールが来た。
マーサー教授経由ではない。
直接。
開く。
You were right to ask.
あの質問は正しかった。
その下。
追加で解析した結果。
読む。
ホルモンだけでは説明できない。
でも。
確かに差がある。
「へえ」
面白い。
返信を書く。
そこで気づいた。
私。
この人の研究に口出してる。
十歳で。
少し変。
まあいいか。
向こうが聞いてきたんだし。
*
それから。
マーサー研究室の人間と話す機会が増えた。
毎回ではない。
たまに。
教授との面談に誰かがいる。
研究を説明される。
分からない。
質問する。
たまに。
気づく。
ほとんどは気づかない。
それでいい。
むしろ。
知らないものが多い方がいい。
研究室には。
私の知らないことを知っている人間が大量にいた。
細胞老化。
免疫。
遺伝子。
統計。
実験手法。
一人で全部詳しい人はいない。
当たり前だけど。
初めて実感した。
「これ、かなり便利だな」
一人に聞いて分からなければ。
別の人がいる。
その人も知らなければ。
また別。
研究室。
欲しい。
ますます欲しくなった。
*
そんなある日。
エミリーから写真が送られてきた。
研究室。
みんなで写っている。
真ん中にマーサー教授。
その横にエミリー。
知らない人。
知ってる人。
白衣。
実験台。
機械。
私が画面越しにしか見たことのないもの。
本文。
Everyone wants to meet you now.
みんな君に会いたがってる。
「……」
写真を見る。
会う。
アメリカ。
行けば。
あそこに入れる?
少なくとも。
見ることはできる。
すぐにマーサー教授へメールした。
研究室を見学できますか?
返信。
五分。
If your parents bring you to the U.S., yes.
両親がアメリカまで連れてきてくれるなら。
いいよ。
「……」
階段を下りる。
母はリビング。
父もいる。
ちょうどいい。
「パパ、ママ」
「なに?」
「夏休み、アメリカ行かない?」
二人がこちらを見る。
「旅行?」
母。
「うん」
「珍しいね。未来から旅行行きたいなんて」
「行きたいところできた」
「どこ?」
「大学」
沈黙。
父が先に口を開いた。
「……観光は?」
「してもいいよ」
「してもいい」
母が笑い出した。
「何がおかしいの?」
「未来らしいなと思って」
「行ける?」
父と母が顔を見合わせる。
すぐには答えない。
私は待つ。
航空券。
ホテル。
仕事。
予定。
いろいろある。
分かってる。
だから。
『行きたい』だけでは弱い。
スマホを出す。
「論文通ったじゃん」
「うん」
「その教授の研究室」
「マーサー先生?」
「そう。見学していいって」
「未来一人じゃないよね?」
「保護者が来るならって」
「そりゃそうでしょ」
父が少し考える。
「いつ?」
「夏休みならいつでも」
「……調整できなくはないかな」
「ほんと?」
声が少し上がった。
しまった。
まあいい。
「行きたい?」
母が聞く。
「うん」
これは。
行きたい。
本で読んだ。
論文で見た。
画面越しに教えてもらった。
それが。
全部。
実際にある場所。
触れなくてもいい。
今は。
見るだけでも。
「すごく行きたい」
父と母がまた顔を見合わせた。
「じゃあ、パパ休み調べてみる」
「ありがとう」
部屋へ戻る。
階段を上がる速度が。
少しだけ速くなった。
*
その夜。
マーサー教授にメール。
たぶん行けます。
返信。
Good. Emily is already planning what to show you.
エミリーがもう、何を見せるか考えている。
その下。
もう一文。
And Mirai—seeing is not touching.
見るだけ。
触るな。
「……分かってるし」
たぶん。
信用されてない。
でも。
画面を閉じても。
少し笑っていた。
初めて。
本物の研究室に行ける。
十歳。
ようやく。
入口まで来た。




