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第15話 名前が載った日

最初に異変に気づいたのは、私ではなくマーサー教授だった。


『未来。今送ったメールを開いて』


土曜の朝。


オンライン面談が始まってすぐ、挨拶もそこそこにそう言われた。


「今ですか?」


『今』


「はい」


言われた通りメールを開く。


ファイルが一つ。


見覚えのあるグラフがあった。


「あ」


私のだ。


正確には、私が公開データをいじり回して作ったもの。


条件を変えてはマーサー教授に却下され、解析をやり直して、また穴を見つけられて。


三か月近く触っている。


『それを見て、何か気づかない?』


「グラフ直しました?」


『そこじゃない』


「文字?」


『未来』


「分かりません」


教授がため息をついた。


画面を下へ動かす。


タイトル。


概要。


その下。


名前が二つ並んでいた。


Daniel A. Mercer.


そして。


Mirai Kujo.


「……私?」


思わず画面に顔を近づけた。


『君以外に誰がいるんだ』


「なんで?」


意味が分からない。


私が送ったものを教授がまとめただけだと思っていた。


『論文にする』


「これを?」


『正確には、これから論文にできるところまで持っていく』


もう一度、名前を見る。


私。


教授。


「でも、まだ大したことしてないですよね」


『珍しく謙虚だね』


「事実です」


『そうだね』


「じゃあなんで?」


『大したことをしていないことと、価値がないことは同じじゃない』


教授が画面を共有した。


私が何か月も見ていたデータ。


その横に、別の論文。


『君が見つけたものは、新しい治療法でも新しい遺伝子でもない。ただ、既存のデータを別の条件で見た時に、今まであまり注目されていなかった傾向が残った』


「はい」


『それが偶然なのか、本当に意味があるのか。そこを調べる』


聞きながら考える。


論文。


私の名前。


「これ、出たらどうなるんですか?」


『どうなる、とは?』


「研究室に入りやすくなります?」


教授が黙った。


『そこ?』


「それが目的なので」


『十歳で初めて論文に名前が載るかもしれないと言われて、最初に考えることがそれなの?』


「他に何かあります?」


『……いや。君ならそうだろうと思ったよ』


だったら聞かないでほしい。


*


論文を書く。


簡単に考えていた。


結果はある。


調べたことも覚えている。


だったら文章にすればいい。


そう思っていた。


三日で撤回した。


「何これ」


赤い。


返ってきた原稿が。


赤い。


文章の半分くらいにコメントがついている。


根拠は?


この表現は強すぎる。


ここからこの結論は出せない。


引用。


なぜ?


誰がそう言った?


最後。


Rewrite.


書き直し。


「……鬼じゃん」


十歳だよ。


もう少し優しくしてもいいと思う。


一瞬だけ。


本当に一瞬だけそう思った。


でも。


私が欲しいのは子供用の論文じゃない。


十歳だから許された文章を世に出しても、何の役にも立たない。


全部消した。


最初から書き直す。


*


その週。


学校では作文の授業があった。


「将来の夢を書きましょう」


先生が言った。


周りが鉛筆を動かし始める。


サッカー選手。


先生。


獣医。


パティシエ。


隣の子の紙が少し見えた。


私は白紙。


夢。


研究者。


違う。


医者。


違う。


美容関係。


それも違う。


なりたい職業がない。


欲しいものならある。


若さ。


美貌。


それを維持できる身体。


でも。


「将来の夢 老化しない」


は、たぶん先生が困る。


少し考えて。


書いた。


自分の好きなものを、自分で作れる人になりたい。


これなら嘘ではない。


*


「ミラ、何書いた?」


休み時間。


蓮が覗いてきた。


隠す必要もないので見せる。


「何これ」


「そのまま」


「研究者じゃないの?」


「研究者になりたいわけじゃないし」


「じゃあ何になるの?」


「知らない」


「え」


「必要なことやるだけ」


「仕事は?」


「その時考える」


蓮が自分の作文を隠した。


「何書いたの?」


「別に」


「見せて」


「やだ」


「なんで?」


「やだから」


珍しい。


いつもなら勝手に見せてくるのに。


「じゃあいい」


興味をなくして論文に戻る。


数秒後。


「……見ないの?」


「見せたくないんでしょ?」


「そうだけど」


「じゃあ見ないよ」


「……うん」


面倒くさい。


*


数日後。


蓮が席を離れた時。


机から紙が落ちた。


拾う。


作文。


見ようとしたわけじゃない。


でも。


一行目が見えた。


将来は、海外でも仕事ができる人になりたいです。


へえ。


前はサッカー選手とか言ってなかったっけ。


紙を机に戻す。


蓮が戻ってきた。


「落ちてたよ」


「え、見た?」


「一行だけ」


「見たじゃん!」


「勝手に落ちたんだけど」


「忘れて」


「もう覚えた」


「最悪」


「いいじゃん。海外で働けば」


「……ミラも海外行くんでしょ」


「たぶん」


「じゃあいい」


何が。


まあいい。


英語の勉強を続ける理由にはなる。


*


論文は、思ったより時間がかかった。


書く。


直される。


調べる。


書き直す。


また直される。


一つの文章を書くために論文を十本読むこともあった。


そして。


私は初めて知った。


研究者は、研究している時間より文章を書いている時間の方が長いんじゃないか。


「嫌なんだけど」


オンライン面談で言ったら、マーサー教授が笑った。


『残念だけど、発見しただけでは他人には伝わらない』


「教授が書けばいいじゃないですか」


『君の研究だろ』


「共同ですよね?」


『逃げるな』


「はい」


無理だった。


*


その代わり。


文章を書く能力は目に見えて上がった。


余計なことを書かない。


言えることと言えないことを分ける。


事実。


推測。


仮説。


全部混ぜない。


マーサー教授が何度も言った。


『研究者にとって、分からないと言えることは能力だ』


最初は意味が分からなかった。


今は少し分かる。


知らないことを知っているふりをした瞬間。


そこから先は全部腐る。


それは嫌だった。


自分に使う薬なら、なおさら。


*


半年後。


原稿が完成した。


画面を開く。


最初に見た時より、ずっと長い。


図も増えた。


引用も。


そして。


一番上。


私の名前。


Mirai Kujo.


何度見ても少し変な感じがする。


『どう?』


マーサー教授。


「綺麗ですね」


『論文が?』


「名前の並び」


『……そう』


自分の名前が嫌いではない。


未来。


前世とは違う名前。


違う顔。


違う身体。


違う人生。


その名前が。


初めて。


私が作ったものの上に載っている。


悪くない。


『投稿するよ』


「はい」


『緊張しない?』


「なんで?」


『落ちるかもしれない』


「そしたら直して別に出せばいいんですよね?」


『そうだけど』


「じゃあ別に」


落ちたら。


直す。


また出す。


それだけ。


教授が笑った。


最近よく笑われる。


理由は分からない。


*


投稿して。


待つ。


その間も生活は変わらない。


学校。


勉強。


美容。


研究。


蓮。


日焼け止め。


髪。


論文。


新作の服。


統計。


スキンケア。


全部。


普通。


ただ。


一つだけ。


前より鏡を見る時間が少し減った。


顔に興味がなくなったわけじゃない。


むしろ逆。


今の私は。


かなり好き。


毎日確認しなくても。


綺麗。


それが分かっている。


だから。


研究に使える時間が増えた。


これはかなり便利だった。


*


結果が来たのは。


投稿からしばらく経った夜だった。


マーサー教授から。


珍しく。


メールではなく、着信。


画面を見る。


出る。


『未来』


「はい」


『結果が来た』


声がいつもと少し違った。


私はベッドから起き上がった。


「落ちました?」


『いや』


一拍。


『通ったよ』


「……」


少しだけ。


胸の奥が動いた。


嬉しい。


たぶん。


でも。


それより先に。


別のことを考えた。


「これで研究室、入りやすくなりました?」


画面の向こうで。


マーサー教授が。


大きなため息をついた。


『未来』


「はい」


『今くらいは喜んでくれ』


「喜んでますよ」


『全然そう見えない』


「じゃあ、やったー」


『そういうことじゃない』


笑った。


私も少しだけ笑う。


画面にはまだ。


私の名前がある。


十歳。


研究室には入れない。


実験もできない。


でも。


何も持っていなかった時とは違う。


次に誰かに。


「子供だから」


と言われたら。


見せられるものが一つできた。


それが。


何より嬉しかった。

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