第20話 昨日より少し先へ
アメリカに来て五日目。
大学へ向かう車の窓から見える景色にも、少しずつ見覚えのあるものが増えてきた。
ホテルを出てしばらく走ったところにある大きな交差点。その先にあるカフェ。朝になると犬を連れた人が何人も歩いている通り。
初日はどこを走っているのかさえ分からなかったのに、今日は大学まであとどれくらいか、おおよその見当がつく。
私は後部座席でタブレットを開いていた。
昨日マイケルから送られてきた五本の論文は、寝る前に全部読み終えた。今見ているのは、その中の一本で引用されていた別の研究だった。
老化した細胞と、それを排除する免疫系の関係。
昨日までは知らない言葉が多かった分野なのに、今日は文章を読む速度が明らかに違う。
理由は単純だった。
一度覚えた言葉が、もう引っかからない。
昨日なら一つの段落に三つ知らないものがあった。意味を調べ、前後を読み直し、それからようやく文章全体を理解する。
今日は、その三つが最初から知っている言葉になっている。
すると、その先にある新しい部分だけを拾えばいい。
一冊の本を最初から最後まで丸ごと覚え直しているわけではない。昨日作った足場の上に、今日の知識を置いていく。
その繰り返しで、読む速度がどんどん上がっていた。
「未来、酔わないの?」
助手席から母が振り返った。
「平気」
「ずっと文字読んでるじゃん」
「今いいところだから」
「研究室着いてからじゃダメなの?」
少し考える。
あと十五分くらい。
「もったいない」
「十五分が?」
「十五分も」
母は何か言いたそうな顔をしたけれど、結局そのまま前を向いた。
画面に視線を戻す。
読み進めていると、昨日マイケルに見せてもらった顕微鏡画像が自然に頭へ浮かんだ。
教科書の模式図ではない。
実際の組織。
そこへ集まっていた免疫細胞。
その画像と、今読んでいる研究の結果が重なる。
なるほど。
昨日は「そういうものなのか」で終わった説明が、今日は少し違って見えた。
知っていることが一つ増えるだけで、昨日見たものの意味まで変わる。
この感覚は、かなり面白かった。
*
研究室に着くと、マイケルはすでに来ていた。
窓際のデスクに座り、大きなモニターへ論文を映している。机には飲みかけのコーヒーと、書き込みだらけの紙が何枚も重なっていた。
私が近づくと、マイケルは眼鏡越しにこちらを見た。
『おはよう。残り二本は読めた?』
『はい』
『質問は?』
『あります』
『何個?』
『十四個』
マイケルは椅子の背にもたれた。
『増えてるじゃないか』
『五本読んだら増えました』
『普通は五本読んだら少し解決するんだけどね』
『解決したものもあります。その代わり別のが増えました』
『それは健全だ』
そう言って、隣の空いている椅子を指した。
昨日と同じように質問を始める。
ただ、途中から少しおかしくなった。
私が一つ聞く。
マイケルが答える。
その答えの中に、昨日までなら分からなかったはずの言葉が出てくる。
でも今日は分かる。
だから、その説明を飛ばして次へ進める。
すると話が深くなる。
また質問する。
今度はマイケルがすぐには答えない。
『待って。そこは少し複雑だ』
パソコンで論文を探し始めた。
画面に表示されたタイトルを見て、私は首を傾げた。
『それ、昨日読みました』
マイケルの手が止まる。
『これ?』
『はい。三本目の参考文献にありました』
『送ってないよね?』
『送られてないです』
『自分で読んだの?』
『気になったので』
マイケルは数秒こちらを見たあと、別の論文を開いた。
『じゃあこれは?』
タイトルを見る。
知らない。
『読んでません』
『よかった』
『何がですか?』
『まだ私にも教えられることが残ってた』
冗談らしい。
たぶん。
論文を見せてもらう。
読み始めると、最初の数段落は昨日覚えた内容とほとんど重なっていた。
そこは速く読める。
問題は途中からだった。
見慣れない分子名が出てくる。
一度止まる。
説明を読む。
別の経路と繋がる。
その経路なら知っている。
数年前に細胞老化について読んだ論文で出てきた。
当時はそこまで重要だと思わず、意味を調べただけだった。
でも、記憶には残っている。
頭の中で文章を辿る。
確か、あの論文では――。
『これって、老化細胞でも発現が変わってませんでした?』
口にすると、マイケルが画面から顔を上げた。
『どれ?』
分子名を言う。
『老化細胞?』
『はい。前に読んだ論文にあったと思います』
『どの論文?』
著者名は出る。
タイトルも大体。
掲載誌。
年。
伝えると、マイケルが検索した。
数秒後、論文が開く。
『これ?』
『はい』
図を見る。
記憶していたものと同じだった。
マイケルはしばらく画面を見ていた。
それから私を見る。
『これ、いつ読んだ?』
『八歳か九歳くらいです』
『二年前?』
『たぶん』
『今日まで見直してない?』
『はい』
『図まで覚えてたの?』
『全部ではないです。ここが変わってたのを覚えてただけです』
それなら別に、そんなに変でもない気がする。
特徴のある結果だったし。
ところが、マイケルはそう思わなかったらしい。
椅子を少し引いて、私をまじまじと見た。
『未来』
『はい』
『君、一度読んだものをどれくらい忘れる?』
質問の意味がよく分からなかった。
『どれくらいって?』
『例えば、一年前に読んだ論文』
考える。
『内容はだいたい覚えてます』
『“だいたい”の基準が怪しいんだよな……』
マイケルが小さく呟いた。
*
昼前。
マイケルはどこかへ行き、代わりにエミリーがやってきた。
彼女は私の前に紙の束を置いた。
かなり厚い。
『何ですか、これ』
『Michaelからのプレゼント』
『いらないです』
『即答しないで』
一番上を見る。
免疫学のレビュー。
その下にも論文。
さらに下。
『多くないですか?』
『昨日、専門家と話せるくらいまでやりたいって言ったでしょ?』
『言いました』
『だからMichaelが、最初に読むならこれって選んでくれた』
『全部?』
『全部』
紙の束を見る。
悪くない。
むしろありがたい。
『どれくらいで読めばいいですか?』
『未来』
エミリーが妙に真剣な顔になった。
『期限はない』
『じゃあ目安は?』
『ない』
『一か月?』
『好きにして』
『二週間?』
『今、私が期間を言うと絶対それより早く終わらせようとするでしょ』
否定できない。
『じゃあ聞きません』
『そうして』
私は一番上の論文を取った。
その時、エミリーが私の手元を見ながら言った。
『でも、全部を同じ深さで覚える必要はないよ』
『なんで?』
『研究者でも、自分の専門の中でさらに得意なところと、そうじゃないところがあるから』
『それは分かります』
『ならいいけど』
分かっている。
ただ。
それで自分も同じようにする必要があるとは思わない。
*
午後は研究室の見学ではなく、マーサー教授に連れられて別の建物へ行った。
外へ出ると、昼の日差しが朝よりずっと強くなっていた。建物の白い壁に光が反射して眩しい。
すぐに鞄から日傘を出す。
『それ、毎日持ってるね』
教授が横で言った。
『焼けたくないので』
『少しくらいなら』
『嫌です』
『そう』
それ以上は言わなかった。
賢い。
大学構内を数分歩き、別の研究棟へ入る。
こちらはマーサー教授のいる建物より新しかった。入口のガラス扉も、廊下も、妙に綺麗だ。
エレベーターを降りたところで、一人の女性が待っていた。
短い黒髪。
白衣は着ていない。
年齢は、たぶん四十代。
『未来、こちらはソフィア・チェン教授。幹細胞生物学と再生医学が専門だ』
私はマーサー教授を見る。
『なんで?』
『昨日、全部勉強するって言ってただろ』
『言いました』
『だから専門家を連れてきた』
教授を見る。
ソフィアを見る。
もう一度教授。
『便利ですね』
『もう少し感謝してくれてもいいんだけど』
してる。
かなり。
ソフィアが笑った。
『Danielから色々聞いてるわ』
『何をですか?』
『十歳の女の子が老化を止めるために、免疫も癌も幹細胞も全部専門にするつもりだって』
『はい』
『本気?』
『本気です』
ソフィアは少し黙ったあと、研究室の扉を開けた。
『じゃあ、まずは自分が何を知らないか見てみる?』
いい。
そういうのが一番欲しい。
中へ入る。
マーサー教授の研究室とは、また雰囲気が違った。
顕微鏡が何台も並び、壁際には大きな機械が置かれている。モニターには、丸い細胞の集まりが映っていた。
ソフィアがその画面を指す。
『これ、何だと思う?』
見る。
知っている形に似ている。
でも。
断定できない。
『オルガノイド?』
ソフィアの眉が少し上がった。
『正解。何の?』
分からない。
画像を見る。
形。
構造。
候補。
でも、知らない。
『分かりません』
『腸』
なるほど。
ソフィアが別の画像を開く。
『これは?』
『脳?』
『脳オルガノイド。じゃあ、これを何に使える?』
いくつか答える。
発生。
病気。
薬。
ソフィアがさらに聞く。
答える。
次。
知らない。
教えてもらう。
また質問。
気づけば、最初は私に問題を出していたはずのソフィアが、途中からホワイトボードを使って説明を始めていた。
幹細胞がどこまで分化できるのか。
若い細胞と老化した細胞の違い。
組織を若返らせることと、細胞を若返らせることが同じではない理由。
私はノートを取らなかった。
その代わり、話を止めないように聞いた。
一つ説明されると、前に読んだものと繋がる。
そこから質問する。
答えが返ってくる。
また繋がる。
ソフィアがホワイトボードに新しい図を書こうとして、ふと手を止めた。
『未来』
『はい』
『ノート取らなくていいの?』
『覚えてるので』
『今の全部?』
『今のところは』
『……そう』
また。
この反応。
どうやら、これは本当に普通ではないらしい。
*
一時間半後。
研究室を出る前に、ソフィアが名刺をくれた。
『質問があったらメールして』
『いいんですか?』
『いいわよ。ただし』
『はい』
『一日に五十個送るのは禁止』
『そんなに送りません』
『Danielから聞いた限り、念のため』
失礼。
でも名刺はありがたい。
鞄にしまう。
廊下へ出たところで、マーサー教授が隣を歩きながら聞いた。
『どうだった?』
『面白かったです』
『免疫とどっちが好き?』
『比べる必要あります?』
『ないの?』
『どっちも必要なので』
教授は何も言わなかった。
私はさっき見たオルガノイドを思い出していた。
免疫学を知ると、老化細胞の見え方が変わった。
幹細胞を知ると、今度は「若返らせる」という言葉そのものの意味が変わってくる。
たぶん、これからも同じだ。
新しい分野を覚えるたびに、それまで知っていたものが別の角度から見えるようになる。
一つずつ専門を増やしている感覚とは少し違う。
大きな絵があって。
今まで見えていなかった場所が。
少しずつ埋まっていく。
私はまだ、その絵の端しか見ていない。
でも。
全部埋まったら。
何が見えるんだろう。
それを考えると。
勉強するものが増えることは。
それほど嫌ではなかった。




