第146話 返された七本の鍵
七本の鍵は、今度は慰謝料の銀盆ではなく、担保解除書の上に置かれていた。
古い鉄は、磨かれてもなお鈍い色をしている。輪に付いた七つ角の星は、最初に受け取ったころより黒ずみが薄くなっていたが、飾りの先に残る小さな傷まで同じだった。あの日は両手で持っても手首が沈み、金属が触れ合う音を聞くたび、四千八百金貨という債務が形を得たように思えた。
今日は、私はまだ手を伸ばさなかった。
一階の確認卓には、信用組合の担当者、登記官、店の持分代表、外部の立会人がいる。アルノルトの席はなく、公爵家の印もない。彼が花嫁へ贈る鍵ではなく、市場条件で決済した債権の担保が、公簿から外れたため返されるのだ。
「残存していたヴァイスベルク系債権の受領記録と、担保抹消の公簿を確認します」
登記官が頁を繰り、決済控えの封印と照らす。信用組合の帳面には、預かった日の鍵番号、途中で錠を修繕した際の届出、返還する今日の日付が並んでいた。
「七本、記録上は一致しています。受領署名を」
差し出された羽根ペンを、私は取らなかった。
「実際の錠を確かめてから署名します」
「鍵番号と公簿は合っています」
「番号が合っていても、長いあいだに錠は直しています。複製した鍵も、各階で日常に使う現地鍵もあります。返された鍵だけを正しいことにしてしまえば、明日どの鍵で誰が開けてよいのか分かりません」
担当者は驚いたように鍵を見たが、異議は唱えなかった。返還を祝う式なら、机の上で受け取れば済む。けれど鍵は、思い出を飾る金属ではない。扉を開け、閉じ、必要なとき誰かを逃がす道具だった。
営業は止めなかった。鍵が戻る光景を見せるために客を追い出せば、建物の自由を祝う日に、売場の方を閉じることになる。
一階の主扉では、片側だけを通行止めにした。返還された鍵を深く差すと、長いあいだ眠っていた歯が内部で触れる、乾いた感触が掌へ返ってくる。右へ回せば閉店用の青い線が扉枠を巡り、左へ戻すと非常開放の印が残った。
次に、受付責任者が毎日使う現地鍵を同じ錠へ入れる。こちらも動く。修繕時に作られた複製鍵は、保管封の番号を読んでから試した。どれも同じ扉を開けたが、持ち出せる理由も、返す相手も違う。
「返された鍵が店の所有へ戻るなら、ほかは廃棄しますか」
立会人が尋ねた。
「いいえ。営業用の現地鍵まで捨てたら、この鍵を持つ人しか開けられません。複製の必要と登録が正しかったかを照合して、役割を残します。登録のないものが見つかったら、その場で使わず調べます」
鍵の正統を一本へ集めるのでなく、所有と、開ける権限と、日々の管理を別々に記す。
すぐ隣の返品窓口では、香りを変える卓上輪が返されていた。故障はしていないが、食事中に香りが強くなりすぎるという。担当者は無香の外輪、弱い香りへ交換する案、返金を示し、客は現金を選んだ。
「その大きな鍵で、返品箱も開くの?」
硬貨を受け取った客が、私たちの列を見て尋ねた。
「開きません。建物の扉と、返品基金の箱は別です」
「店主なら、どちらも開けられるのかと思った」
「私が代表だからといって、返金の現金を好きに出せるわけではないのです」
七本を取り戻すより先に、客の掌へ代金が戻った。その順番が、妙に嬉しかった。
二階は午前休業だった。扉を開けると衣服売場の薄暗い鏡が並び、商品を覆った布から乾いた香木の匂いがする。安全確認のため主錠と非常口を試したものの、入口灯は点けなかった。
「せっかく開いているなら、見せてもらえませんか」
階段を上がって来た女性が訊く。
「午後からです。いまは説明できる店員と返品用の現金が揃っていません」
「扉は開いているのに?」
「鍵が回ることと、営業できることは同じではありません」
女性には午後の試用枠を案内し、扉をもう一度閉じた。現地鍵でも閉鎖できることを確かめ、休業記録へ検査の時刻を付け足す。祝いの日だけ開いた写真を残して、買えなかった客を困らせることはしなかった。
三階では、保温鍋の修理返却が終わるのを待った。持ち主が湯気の上がる蓋へ手をかざし、縁から熱が漏れないことを確かめている。その背後にある倉庫を、鍵の確認のため空けてもらうつもりはなかった。
「どうぞ先に終えて」
修理員は頷き、温度線が薄れるまで持ち主と眺めた。検査印が押され、鍋が腕の中へ戻ってから、私たちは倉庫扉へ進む。
開いた先には、顧客の預り品と、職人から委託された品が、札を分けて並んでいた。
「担保解除で、こちらも店へ返るのですか」
信用組合の担当者が確認する。
「最初から店の物ではありません。部屋の担保が外れても、中の所有者は変わりません」
鍵は扉を開けても、鍋の持ち主を変えない。その一文を返還記録へ追記し、日常の倉庫鍵とも照合した。
四階では、子どもが光る積み木を何度も崩していた。釣り合いが取れると金色になる玩具だが、今日は橋にならず、傾いだ塔ばかり出来上がる。
「正しく光らないから、返品できますか」
親に聞かれ、売場の担当者が遊び方と返品条件を説明する。私はその横で非常扉を開き、閉じ、警報へ時刻が残ることだけを確かめた。担当者は私の顔を見ず、客も返答を待って私へ振り向かなかった。
五階の部品庫では、返還された鍵が階全体の閉鎖を解いたあと、作業担当の現地鍵が内側の棚を開けた。左利き用の魔力鋏が修理台にあり、交換刃を出すには、さらに担当者の記録が要る。
「七本が戻ったのだから、ひとつで全部を開けられた方が便利では?」
ニナが、鍵束を覗き込んだ。
「便利ね。落とした人が一人で、全部を危険にできるくらい」
「それは困ります」
「担保権者へ閉鎖の同意を求めなくてよくなっただけよ。部品を持ち出す責任まで消えたわけではないの」
ニナは納得したような、少し残念そうな顔をした。万能鍵には、子どものころの私なら胸を躍らせただろう。いまは、開かない場所があることに安堵できる。
六階の防災売場では、外側から主錠を掛けたあと、内側の非常板を押した。重い扉は抵抗なく開く。火災を感知する線も赤く走り、錠を外した。
「担保に入っている間も、同じでしたか」
「生命に関わる開放は、債権者の許可を要しない契約でした」
借金があるから逃げ道を閉じる、という条項にはしなかった。その古い契約も解除後だから捨てず、次の借入で担保を置くことがあれば守る最低線として保存した。
最後に、七階へ上がった。
階段の終わりで鍵を差し込むと、途中までは滑らかに入ったのに、回そうとしたところで硬く止まった。信用組合の担当者が息を呑み、登記官はすぐ番号を見直す。
「別の鍵でしょうか」
「番号は合っています」
ボルクが後任へ渡した照合簿を開いた。七階の古い錠は、奥まで押したあと、ごく僅かに戻してから回す。注意欄に残された文字を読み、いまの責任者が鍵を受け取った。
彼女が鍵を押し、少し戻してからゆっくり力を掛けると、金属の奥で重い音がした。青い光が扉の縁を走り、七階の扉がようやく開いた。
誰かが拍手しかけたが、責任者はすぐ非常開放を試した。主錠を掛け、内側から火災板を押す。扉は開いたものの、連動する警報鐘が遅れて鳴った。
「鍵は一致。警報は修理が必要です」
彼女は感動に遠慮せず、別々の欄へ記した。催事区画は点検が終わるまで使わない。担保が外れたその日に、新しい修理費が生まれた。
「自由になったのに、また閉めるんですね」
ニナが言う。
「必要なら閉めるために、自由になったのよ」
七階の現地鍵、修繕時の複製鍵、返還された鍵を同じ錠で試し、各々の保管者を記録した。照合簿にしか残っていなかった古い押し戻しの癖は、実際に開けた責任者の手順へ写された。
全階の確認を終え、ようやく一階へ戻った。返還記録、公簿の担保抹消、七本の番号、登録されている複製、現地鍵、実錠と非常開放。そのすべてへ立会印が揃ってから、私は受領書へ署名した。
四千八百金貨と共に渡された債務は、誰かとの婚姻で免じられたのではない。店が働き、返し、記録が公簿へ届いたことで、この担保だけが外れた。公開社債をはじめとする通常債務は残っている。今日から帳簿の債務欄が白くなるわけではなかった。
七本を自分の腰へ下げたい気持ちは、少しだけあった。
あの重みを抱えて百貨店へ向かった娘に、もう大丈夫だと教えてやるために。ここまで運んだのは私だと、掌で確かめるために。
けれど、鍵を持ち続けたことが私の働きなら、手放せる場所まで運んだことも、私の働きだった。
階段脇に据えた共有金庫へ、七本を収める。金庫そのものを店の持分代表が所有記録へ載せ、開ける権限は総支配人と現場責任者が用途に応じて持つ。持出し理由、鍵番号、受取人、返却を、ボルクから継いだ照合簿へ残す。所有者だからいつでも開けられるのでも、開ける担当だから自分の物になるのでもない。
「輪の星飾りだけ、婚礼の記念に外しますか」
ニナが、黒ずみの残る七つ角へそっと触れた。幼いころから見てきた母の印であり、借金つきの店を選んだ日に私が握ったものでもある。外して手元へ置きたい気持ちは、鍵そのものより強かった。
「外さないわ。飾りまで含めて返還記録に載っていますし、鍵を見分ける印でもあるもの」
「では、店の記念品に?」
「記念品ではなく、いまも使う鍵として保管して。いつか摩耗して交換する日が来たら、懐かしいからという理由で使い続けないでね」
思い出があることと、私の所有にすることは違う。星飾りは鍵輪に残ったまま、金庫の暗がりへ収まった。
「少し面倒になりました」
ニナが金庫の閉まる音を聞いて言った。
「一人の腰から取れば済む方が、早かったものね」
「店主の腰にないと、急ぐとき困りませんか」
「試しましょう」
私は数歩離れた。マルタが総支配人として持出し理由を示し、五階責任者が必要な鍵を選ぶ。持分側の記録係が封印を照合して金庫を開け、七本すべてではなく、目的の一本だけを渡した。
五階の扉は、私の署名を待たず開き、確認のあと同じ記録で閉じられた。鍵は金庫へ戻り、返却欄へ別の手で印が付く。
「本当に開きました」
「さっきも開いたでしょう」
「エステル様なしで、です」
胸の中へ、寂しさと安堵がほとんど同時に広がった。どちらか一つを、立派な感情として選び直す必要はなかった。
入口には、善意で作られた祝い札があった。『公爵との婚姻で借金から解放』という文を読み、私は留め紐を外した。
「婚姻はまだですし、借金もすべて消えたわけではありません」
代わりに、残存債権の決済と公簿上の担保解除、通常債務の返済が続くことを記した札を掛ける。祝賀らしい華やかさは減ったが、明日この店へ金を貸す人に嘘をつかない。
閉店後、共有金庫をもう一度見た。七本はそこにあり、私の手元には一本もない。腰は軽く、空いたところへ冷たい風が通るようで、少し落ち着かなかった。
その夜、新居でアルノルトと読む婚姻契約案が届いた。
最初の条項には、《星灯り魔法百貨店》と私の持分を婚姻財産へ含めない、とある。
次の条項は同じ太さの文字で、彼の爵位財産を星灯りの運転資金へ入れない、と記していた。




