第138話 一階の新人
「どれを売ればいいでしょう」
ノーラが私を振り返ったとき、客の少女はもう、三つの灯りから手を離していた。
一階の試用台には、濃紺の布と黒糸、細い針が置かれている。針仕事の見習いになったばかりの少女と、道具代を払う伯母が並び、その向こうに強い標準灯、《星雫灯》、修理して調整を済ませた旧型灯があった。
ノーラは商品棚も推薦文もよく覚えている。標準灯は明るく、共通部品を得やすい。星雫灯は光が柔らかく、長く文字を見る人に向く。旧型は価格を抑えられ、町に修理者も残っている。
どれも正しい知識だったが、少女の指先はどの品へも戻らない。
「私ではなく、使う方へもう一度聞いて」
私がそう言うと、ノーラは緊張した面持ちで少女へ向き直った。
「何にお使いになりますか」
「針仕事です」
「どのような? 大きな縫い目でしょうか、細い刺繍でしょうか」
「夕方、濃い布へ細い糸を通します。工房の窓が小さくて、日が傾くと黒い糸が見えません」
代金を払う伯母が財布へ手を置いた。
「修業のお祝いです。今日持って帰れる、いちばん良い物を選んでください」
「毎日使うのは、こちらの方ですね」
「ええ。でも、まだ道具のことは分かりませんから」
ノーラは少女へ、机の広さと座る位置を尋ねた。彼女が示した作業幅は狭く、隣には別の職人が座る。灯りを高くすれば隣の目へ入り、低ければ自分の腕が針先へ影を落とす。工房の主人は強い光を勧め、手が遅いと叱るため、夕方にも休めないという。
贈り物だから高い品、仕事だからいちばん明るい品。その二つだけで決めれば、毎日使う本人の身体が、祝いを完成させるための脇役になる。
ノーラは試用台を工房と同じ幅へ狭め、少女にいつもの姿勢を取ってもらった。
最初は標準灯だった。白い光が濃紺の布を鮮やかに照らし、少女は一度で針穴へ黒糸を通した。
「ほら、よく見えるでしょう」
伯母の声が明るくなる。
「少し縫ってみてください」
ノーラが灯りを近づけ、少女は肩を前へ傾けた。糸を何度か往復させるうち、目が細くなり、眉間へ薄い皺が寄る。
「白い光が強すぎます。明るい布なら、もっと眩しいと思います」
出力を落とせば眩しさは和らいだが、濃紺と黒の境が曖昧になった。長く点けた背面は規格の範囲で温まるものの、狭い机では布が触れやすい。耐熱台を置けば安全は増すが、作業面はさらに狭くなる。
「灯りは壊れていません」
ノーラが測定線を見ながら言った。
「でも、この机と作業には合わないようです」
標準灯を消すと、白さを見続けた目に、しばらく細い残光が浮かんだ。
星雫灯は、卓の周囲へ柔らかな光を落とした。少女の肩が緩み、針穴も見える。伯母が今度こそという顔をしたが、右手を動かすと、飾り縁の影が針先へ細く重なった。
左へ置けば、糸を引く腕が光を遮る。後ろへずらすと影は薄くなるが、隣の席へ光が漏れた。
「私だけ見えればいいわけではありません。隣の人が眩しいと言うと思います」
少女が小さく言った。
「高さを変えましょうか」
台を上げると、灯りの足が作業布へ近づきすぎた。星雫灯も正常に働いている。柔らかな光という長所が、この机では外装の影と置き場所に負けた。
最後に、旧型灯を点けた。細い光が横から針先へ入り、濃紺と黒を見分けられる。少女の顔に、初めて笑みが浮かんだ。
「これなら使えそう」
彼女が点灯つまみを回そうとして、指を止めた。もう一度、今度は両手で力を入れる。硬い音がして、ようやく灯りが消えた。
「毎日、作業のあとに回せますか」
ノーラが訊く。
少女は針を持っていた指を開き、痺れを確かめるように握り直した。
「いまなら。でも、長く縫ったあとは自信がありません」
つまみも規格から外れてはいない。力のある人なら問題なく使え、少女には一日の終わりに重すぎる。
「一番ましなのは、それでしょう」
伯母は財布を開き、旧型灯を指した。
「つまみくらい、少し我慢すればいいわ。今日のお祝いなのだから」
少女は返事をしなかった。ノーラの手が旧型灯へ伸び、会計盆の手前で止まる。
「つまみを調整してから、もう一度試すことができます」
「今日、持って帰れないの?」
「別の品を探すことも、再試用を待つこともできます。今日は何も買わないことも」
言葉は揃っているのに、ノーラの声は少しずつ小さくなった。誰がつまみを調整し、いつ戻り、調整しても合わなかったらどうなるのかまでは続かない。
「この子の祝いですよ」
「でも、毎日使うのはこちらの方です」
ノーラは少女を見た。
「どうなさいますか」
「今日は、買いません」
伯母の顔に落胆が広がったが、ノーラは一番ましな旧型灯を包まなかった。標準灯の反射、星雫灯の影、旧型灯の硬いつまみを用途票へ書き、三品を試用済みの棚へ戻す。会計票は空欄で、試用に使った時間と整備だけが店に残った。
「よく止めたわね」と言いかけ、私は唇を閉じた。
客の前で新人へ点を付ければ、次からノーラは客のためではなく、私に褒められる不売を選ぶ。少女が店を出るまで、私は店主としての評価を口にしなかった。
扉が閉じると、ノーラはすぐ私のところへ来た。
「どれを売ればよかったのでしょう」
私には幾つもの案が見えていた。星雫灯の飾り縁を外し、影と熱の逃げ方を試す。旧型灯のつまみを軽い輪へ替え、長時間後の指でも回せるか確かめる。標準灯へ濃色を見分けやすい覆いを合わせる。
答えを言えば、いまの場面は綺麗に終わる。しかしノーラはまた、私が挙げた品と調整を新しい推薦文として覚えるだろう。
「三品とも売らなかったことは、間違いではありません」
「でも、エステル様なら直せる案があったでしょう」
「生命の危険はなく、本人は買わないと選べました。今日は、あなたの接客です」
納得と不満が、ノーラの若い顔に同時に浮かんだ。
「用途票を見直して、次に来たとき何を出せるか考えて」
「はい。今夜、考えます」
私は口出しを我慢できた自分に、わずかな満足を覚えた。そこで終わらせたことが、既に私の見落としだった。
マルタが返品窓口から戻り、空の会計盆と三枚の商品票を見た。
「何も売らなかったのですね」
「三品とも合いませんでした」
ノーラの声には、失敗を避けた安堵があった。
「客へ、次はいつ来ればよいと?」
「調整してから再試用できると伝えました」
「調整する人は決まりましたか」
「まだです」
「誰が決めて、客へ伝えるのですか」
ノーラは私を見た。私は口を挟まなかったことを、また正しい態度として守りたくなった。
「彼女に考えさせます」
「考える期限は?」
今度は、私が答えられなかった。新人へ答えを与えないことに気を取られ、考え終えるまでの仕事を誰が持つか決めていない。
「用途票は、どの箱へ?」
「試用済みです」
ノーラが指した箱は、商品を整備して棚へ戻すためのものだった。客へ連絡し直す票ではない。棚は明日きれいに戻っても、少女へ返す言葉だけが箱の底へ残る。
「今から呼び戻しますか」
私が入口を見たときには、伯母と少女の姿はもう街路へ消えていた。
「試用のために聞いた住所を、説明不足の追跡へ使う同意はありますか」
マルタに問われ、用途票を確かめる。購入していないため配送先はなく、再連絡を許す欄も空だった。
「ありません」
「では、戻ってくることを当てにせず、次の客へ同じことをしない準備からです」
その言葉に、胃の辺りが重くなった。客の選択を尊重して店を出したつもりが、戻るかどうかまで客へ預けてしまっている。
閉店後、ノーラと同じ姿勢で三品を試した。標準灯の白さは確かに目へ刺さり、星雫灯の縁は右手の針先へ影を落とす。旧型のつまみは、何も縫っていない私にも固い。
「払う方と使う方を分けて聞けたのは、よかったと思います」
ノーラが用途票を読み返す。
「ええ」
「再試用と、買わない選択も言えました」
「ええ」
それでも、少女が明日から何をすればよいかは、紙の上にない。調整を誰へ頼み、いつ結果を返し、別の工房を探すならどこへ行けるのか。選択の名だけを並べても、そこへ歩く道を示していなかった。
「四品目が見つからなかったら、どうする?」
私が尋ねると、ノーラは口を噤んだ。
「もっと詳しく用途を聞きます」
「今日も、よく聞けていたわ」
「では、職人に相談を……」
「誰が、いつまでに。その返事を、どうやって客へ返すの?」
ノーラは用途票の空欄へ目を落とした。教えないことで彼女を育てるつもりだった私も、同じ空欄を見つめる。新人へ考えさせることと、その間、客を私たちの教材として待たせることを混ぜていた。
「明日までに、相談経路を書きます」
「今日のお客様へも伝えられる?」
「連絡してよいか、確認していません」
ノーラは新しい紙を広げ、旧型灯のつまみを扱える登録職人、星雫灯の外装を外した場合に必要な発熱試験、標準灯の覆いを替えた後の色確認を調べ始めた。名前を書けば終わりではなく、相談を受ける時間、見積りを出す人、再試用の予約を取る窓口まで線で繋ぐ。
「全部を暗記しなければいけませんか」
「いいえ。暗記できないから、次の担当者も辿れる票にするの。私の頭の中へある職人名を写すだけでも足りません」
「でも、最初はエステル様へ聞いた方が早いです」
「早いわ」
否定できなかった。私が答えれば今夜のうちに形が出来る。だが次の新人も、私がいない日に同じ空欄を前にする。
「時間が掛かったことも、明日の記録へ残しましょう。新人だから無料で待ってもらえる、とはしないで」
ノーラは頷き、相談票を作り続けた。閉店後の灯りが試用台を照らし、三品の影が長く床へ落ちる。道は少しずつ書けても、今日の少女へ渡らなかった事実だけは直せなかった。
試用票には『説明済み』の印がある。だが伝えたのは、三品を売れないという結論と、名ばかりの選択肢だけだった。その印を眺めるうち、胸の中へ遅い不安が広がった。
翌朝、伯母と少女が戻って来た。手に商品はなく、返品票もない。少女は折り目の付いた苦情票を、ノーラの前へ差し出した。
昨日より強い顔をしていたが、紙を置いた指先には、黒糸の色がうっすら残っている。伯母は急かさず、その隣で口を結んでいた。何も買わなかった客が、もう一度時間を使って店へ戻り、自分たちの不足を言葉にしてくれたのだ。
ノーラが逃げるように私を見た。代わりに謝ることも、昨日は新人だったと庇うこともできる。私は彼女の横へ立っただけで、紙を最後まで読むよう目で促した。
『三品とも買わなかったことを怒っているのではありません』
その下には、もっと細い字で続いていた。
『なぜ、どの灯りも私には合わなかったのか。次に何をすればよいのか、説明されませんでした』




