第121話 債権者名簿の新しい名前
最大債権者の欄だけ、墨がまだ青かった。
店を引き取ってから、四年が過ぎていた。最初の頁の紙は指に馴染むほど柔らかくなり、返済、返品、修理、休業の印が幾つもの季節を重ねている。その末尾へ昨夜加わった名だけが、乾ききらない色でこちらを見返していた。
指で触れれば滲みそうな文字は、《王冠百貨商会関連基金》。国有化の否決を知らせる封書と、担保価値が四割下がった評価書を片づける間もなく、競争相手につながる名が返済の列の先頭へ入っていた。
「印刷を止めますか」
名簿の前で、広報係が尋ねた。店内へ写しを配るための版は、まだ組み終えていない。
止めたい、と一瞬思った。昨夜までなかった名を、私の店の壁へ何枚も増やすことになる。けれど隠したところで、取得された債権は消えない。
「原本を確かめるまで、確定版とは書かないでください。照合中の名として、この一枚は閉じません」
ベルタと名簿を七階へ運び、窓際の長机へ、譲渡通知、元の債権証書、支払日を記した受領簿、担保条項、債権者委員会の票を広げた。どれも単独なら正しく見える。重ねた時、同じ印が同じ権利を示しているかを見なければならない。
最初に確かめた修繕費の証書には、担保評価が定めた線を下回った場合、追加の担保を求められる条項があった。譲渡通知の印章は正規で、元の債権者から基金へ、返済を受ける権利と委員票が移っている。私たちは支払日を遅らせてはいない。それでも証書には譲渡を禁じる文がなく、貸した側は市場で売ることができた。
「約束どおり払っているのに、と思いますか」
ベルタが、私の手元を見ずに言った。
「思っています」
「私もです。思うだけにして、印を見ましょう」
乾いた声がありがたかった。裏切られたという怒りで紙を破れば、基金が持つ権利より先に、こちらが契約を破る。
別の証書は仕入れに関するものだった。支払日はまだ先で、譲渡の時刻も正式に記録されている。旧債権者へ既に払った分がないか、受領印を合わせる。通知が効力を持つ前に送った支払いは元の債権者が受け取っており、その分まで基金の元本へ足すことはできない。基金から届いた一覧にも、その扱いを認める注記があった。
「きちんと訂正するのですね」
「正確な店の方が、買った後にも価値があるのでしょう」
ベルタは皮肉を言わず、基金へ移る分だけを新しい線で結んだ。乱暴な相手なら、間違いを見つけた時に戦える。正しい証書で正しい額だけを取り、合法な票を積む相手は、こちらにも同じ正確さを要求する。
照合台へ、職人が駆け込んできた。手には、雲母不足の間に請け負った修理部品の工賃票がある。
「基金へ売られた債権の中に、俺たちの賃金も入ったと聞いた」
「この場で一緒に見てください」
一覧には、職人工賃らしい表題が載っていた。だが原証書を開くと、その工賃には本人の同意なしで譲渡できない保護が付いている。職人の印はない。隣の修繕債権と束ねた時、基金側の一覧で行がずれた可能性があった。
「なら、不正だろう」
「まだ照会中です。あなたの工賃を基金のものとしては扱いませんが、不正の札も返事が来るまで付けません」
職人は苛立って机の端を叩いた。それでも原本の写しを読み、照会票へ自分の印を置いた。ほどなく基金側から、取得したのは修繕債権であり、職人工賃は一覧の転記違いだと返答が届く。訂正印も揃っていた。
「間違えたことまで、きれいな仕事になるのか」
「いいえ。誤記した日と、あなたが来るまで見つけられなかったことを公表します。工賃の支払先は変えません」
職人は納得した顔をしなかったが、工賃票を持ち帰らず、従来どおりの支払日に受け取ると決めた。怒りを引っ込めることまで、訂正の条件にはしない。
修繕費も、ひと括りに基金の支配へは入れなかった。建物の壁を直した費用、店有の設備を補修した費用、職人が委託した展示台を直して後から精算する費用が、古い一覧では近い欄にある。基金が取得した証書は店有設備の分で、委託台そのものを担保に取る権利はない。直した費用の債権と、直された物の所有は、同じ印では移らなかった。
ベルタは色の違う細い糸で、返済請求、委員票、追加担保条項を結び、賃金保護と職人所有には別の札を置いた。最大債権者だからといって、給金を勝手に止めることはできない。顧客の修理預り品や相性個票を担保へ入れることも、通常営業を今朝から閉じることも、取得した証書には書かれていなかった。
「全部を取られたと思って差し出せば、証書より多く渡すことになります」
そう言ったベルタの指にも、糸を張り続けた跡が赤く残っている。私たちは基金の権利を小さく見せず、まだ持っていないものまで大きくしない表を作った。
債権者委員会の票も、用途が違う。返済日程を変える票、追加担保を求める票、債務を持分へ替える案に加わる票。基金だけで私を直ちに解任できる票はない。ただし、ほかの債権者から委任を集めれば、経営の組み替えを通せる可能性がある。
誰がどちらへ投じるつもりか、知りたくなった。残っているヴァイスベルク系の票、基金と話した債権者、売却を迷っている者。以前なら、アルノルトへ尋ねれば少なくとも何を聞いてはいけないかは分かっただろう。
いま彼は、債権者代理を辞任している。家名のついた債権が残っても、投票方針を私へ渡す立場にはいない。基金がいくらで証書を買ったのか、次に誰が売るのかを知っていたとしても、恋人へ漏らせる情報ではなかった。
私は彼宛てに書きかけた便箋を裏返した。代わりに、基金と旧債権者へ同じ書式の正式照会を送る。王冠本体と基金の関係についても、公開できる運用規則と帳簿の分離を求めた。
返書によれば、基金と《王冠百貨商会》は同じ会社ではない。帳簿も運用責任者も分かれている一方、出資者と将来の再編方針にはつながりがある。基金が債権を持っただけで、マクシムが今日から店主になるわけではない。委員会で必要な票を集め、契約に沿って追加担保や経営権を求める段階が要る。
「王冠の商品を買わなければ、基金も困るのでは?」
一階へ照合表を掲げると、客のひとりが言った。
「王冠の売場と、関連基金の債権は別の取引です。必要な部品は今までどおり比べます」
「競争相手なのに?」
「合う標準部品まで敵にすれば、困るのは使う方です」
その客が持ち込んだのは、灯核まで亀裂の届いた読書灯だった。基金への怒りがあるから王冠の認定工房は候補から外してほしい、と本人は言う。けれど星灯りでは、すぐ扱える灯核がない。修理を続けて待つか、現物を持ち帰るか、返金条件を確かめるか、王冠の工房へ製造番号と試験記録を移すかを示した。
「王冠へ渡せば、買収に賛成したことになるでしょう」
「修理先を選ぶ票と、債権者委員会の票はつながっていません」
客は長く迷い、王冠工房への移管を選んだ。未実施の工賃を戻し、移送の費用と、どこから先を王冠が保証するかを分ける。競争相手との通常取引を止めないことが、基金を歓迎することにはならない。
午後、四割低下の評価書を、譲渡された証書の下へ重ねた。共通部品を他工房へ開き、専売の利益を薄めたため、星灯りは一社で売りやすい資産として安くなった。その低い評価が、基金にとっては同じ資金でより多くの債権と票を買える機会になった。
公開規格へ進んだ日を取り消せば、担保は上がるかもしれない。けれど既に職人へ残した名義と、各地の修理網、個票を本人へ返した契約を、買収が怖いからと閉じ直すことはできない。公益を選んだから善かった、と自分を慰める気にもなれなかった。私たちが選んだ形が会社を安くし、相手はその価格を使った。それがいま机にある因果だった。
「正しいことをしたせいで狙われた、と掲示しますか」
広報係が文案を持ってきた。
「いいえ。独占を手放して評価が下がり、合法な取得機会が生まれた、と書いてください」
被害者の言葉で囲めば、次に独占へ戻る理由まで美しく見えてしまう。
閉店の鐘が鳴るころ、アルノルトが店の外に立っていた。私は照合表を鞄へ入れず、空の手で出た。
「何が起きているかは、公開された名簿で知りました」
「内部のことを教えてほしいとは言いません」
「助けられないことを、離れていることと同じに感じますか」
答えるまで、少し時間がかかった。以前の私は、愛されるなら先回りして守ってもらえるはずだと思い、守られない沈黙を見捨てられた証のように抱えたことがある。
「寂しくはあります。でも、手を離す理由にはなりません」
彼の指が私の手へ重なった。投票の話も、資金の話も出ないまま、帰路の角まで歩く。それで店の危機は何ひとつ軽くならない。それでも、漏らせない秘密を無理に愛情へ変えさせずに済んだ。
店へ戻ると、基金からの正式通知が待っていた。
四割下がった担保を補うため、追加担保を差し入れること。応じない場合は、債務を持分へ替える案を含め、経営権を求めること。
追加担保へ応じれば、建物や店有在庫、将来の公共契約収入を動かすたびに承認が増える。経営権を渡せば現金返済の圧力を軽くできる一方、仕入れや支店、個票の扱いを決める席が移る。
私たちは通知を、店員と契約職人へそのまま回した。追加担保と聞いて、倉庫係は地下の箱をすべて差し出すのかと尋ね、修理師は自分の道具も店内にある以上、基金のものになるのかと身を固くした。
「この通知が求めているのは、店が所有する建物と在庫、それから契約で指定される収入です。皆さんの道具や委託品、客の預り品は入れません」
「賃金は?」
「支払いの保護は残ります。基金の担保を厚くするため、給金を後へ回せる条項ではありません」
安心してください、とだけは言えなかった。建物の改修や修理材料の仕入れに承認が要れば、店員の仕事は遅くなる。公共契約の収入へ制限が付けば、入った金をすぐ修理台へ戻せない場合もある。賃金を直接取られなくても、仕事を続ける場所が細れば、雇用は遠回りに傷む。
一方で、基金側にも理由があった。担保が四割下がったまま何も補わず、以前と同じ条件で待てと言えば、損を引き受けるのは債権へ金を出した人たちになる。店の判断を自由に残すことと、貸した金の危険を無償で増やすことは違う。
「追加担保へ応じれば、買収は止まるのですか」とマルタが尋ねた。
「この要求への不履行は避けられます。でも、将来の委員票まで消えるわけではありません」
「経営権なら、返済は楽になる?」
「持分へ替える範囲では。代わりに、誰が最終印を持つかが変わります」
答えるたび、どちらかを選んで終えたくなった。建物を差し出して肩書を守るか、肩書を残せる条件を求めて判断を渡すか。けれど店員が知りたいのは、私が店主と呼ばれ続けるかより、明日危険品を止める時に誰の印を待つのかだった。
ベルタは、通知の余白へ勝手な保証を書き込まず、基金へ確認する項目を別紙にした。追加担保の対象、承認が必要な支出、公共契約収入の使用範囲、債務を持分へ替えた後の委員権限。分からない箇所を、都合よく職人保護へ読み替えない。返事が来るまで、当日の給金と修理予定は変えなかった。
どちらも脅迫の文ではなく、証書に沿った要求だった。
通知の末尾には回答期限と、マクシムからの別紙が添えられていた。
『答える前に、まず客として王冠の店を見てほしい』
買収条件書ではなく、通常の試用予約が同封されていた。




