第113話 公爵が席を立つ
アルノルトは委員長席の背へ手を掛けたが、椅子を引かなかった。
一階の公開説明台には、債権者、行政の担当者、店員、職人と客が集まり、空席の前だけが不自然なほど明るい。彼はその場で、私との交際届をまず開いた。公表した日付と、監査局内へ提出してきた記録がある。
「私は店主エステル・ベルクと、私的な恋人関係にあります」
噂として誰もが知っている言葉を、忌避の根拠として彼自身が読み上げる。続けて、ヴァイスベルク系基金が持つ星灯りへの債権と、自分が債権者代理として返済や担保評価へ関わってきた事実を示した。監査局長としては、店の商品、安全事故、公的調達について、公開前の記録へ触れられる立場でもある。
恋人であることだけを美しい理由にせず、債権と職務を一つずつ、どの審査へ触れるかまで分けた。
「以上により、ヴァイスベルク系債権者の代理を辞任します。星灯りの公益会社化審査、その買収条件と関連する担保評価から忌避します」
候補者名の札を外し、後任を選ぶ箱へ入れる。紙が箱の底へ触れた音は小さかった。けれど、その一枚とともに彼が失う票の重さを思うと、私は指を組んだまま開けなくなった。
「自分が公平に判断できないと認めるのですか」
債権者の一人が問うた。
「公平であると自分で信じることを、公的な証拠にはできません」
「国有化に反対すれば恋人の店を守れる。賛成すれば債権を確実に回収できる。どちらを選んでも疑われるから逃げる、と?」
「疑われない答えを演じるために票を使えば、その票はすでに私的なものになります。私は結果から逃げるのではなく、結果を決める権限から退きます」
ヴァイスベルク系の債権が消えるわけではない。返済条件も残り、別の代理人が回収方針を決める。アルノルトだけが、確実な回収へ関与する立場と、一族内で意見を通す力を手放す。彼が席を立つことで星灯りが軽くなるどころか、私には次に誰が債権側の声になるのかさえ分からなくなった。
「代理を辞めれば、ヴァイスベルク家は債権を放棄するのですか」
店員の一人が、不安を隠せず尋ねた。
「いいえ。請求権も担保も契約どおり残ります。私が恋人の店を助けるため減免した、と受け取らないでください」
「では、店にとって得は何です」
「私の利害を、国有化の結論へ混ぜずに済むことです。それが店へ有利な結果になるとは約束できません」
広間に落ちた沈黙は、拍手より正直だった。公爵が愛のため借金を消す話を期待した者もいただろう。実際に残ったのは、同じ債務と、これまで話の通じた代理人を失う不安である。アルノルトは自分の損を誇らず、店側の損も小さく見せなかった。
ヴァイスベルク家の代理人を誰に替えるかは、一族と基金が決める。彼は後任を指名せず、自分に近い者を置くよう頼むこともできない。辞任届には、未処理の返済協議へ個人的な推奨を添えないことまで書かれていた。
資料箱は副局長へ渡された。鉱山の安全費、再生材の基準、王冠の物流、個票の扱い、辺境の停止権について、彼は番号と提出元、未処理の期限だけを読み上げる。
「非公開の見解も引き継いでください」と副局長が言った。「どこを重く見るべきかだけでも」
「それを添えれば、あなたの声で私の票を残すことになります」
彼が以前書いた注記まで捨てたわけではなかった。どの鉱山契約に安全費が入り、どの債権者が国有化で早く回収でき、何が担保を上下させるか。出典を持つ事実は資料として渡す。ただし採用すべき、危険である、といった彼の結論は引継書から外した。後任は最初から読み、足りない点をすべての当事者へ同じように尋ねることになる。
審査は遅れる。店員は所有者がどうなるか分からないまま働き、債権者は回収予定を組み直す。公平な手続にも費用と時間があり、それを公爵の清廉さという言葉で消すことはできなかった。
「なら、監査局長も辞めるべきではないか」
別の声が広間を渡る。
「星灯りに関係する監査と評価からは外れます。無関係な店の安全監査、事故対応、局員を指揮する責任まで放棄しません」
恋人のためにすべてを捨てる姿なら、もっと分かりやすく人の心を打っただろう。アルノルトはその物語を選ばず、触れてはいけない案件からだけ自分の手を外し、残る職務へ戻ると告げた。
私の番が来た。彼の辞任を、国有化に反対する公爵の意思として借りれば、空席になった票を私の口から使える。けれど説明台へ載せたのは、昨日の仮運転と同じ紙だった。公益会社が守れる雇用と債務、全国購買。中央承認を待った返金票、行政資産になりかけた個票、消えた職人名義。アルノルトならどちらを選ぶかは、一言も加えなかった。
過去の監査記録から彼の名を消しもしない。都市事故で出した停止命令や、共同署名の測定値は、その時の資料として残る。恋人だから信じろとは言えないので、別の署名者と再測定できる数値を開いた。反対する者が当時の監査まで疑うなら、彼の人柄ではなく証拠から調べてもらう。
アルノルトも、自分を信じるよう求めなかった。
公開手続が終わると、彼は説明台を降りた。そのまま帰るのだと思ったが、外套を預け、通常客の列の最後へ並んだ。腕に抱えているのは、値上がりした家庭用保温具だった。
「忌避した直後に、お買物をなさるのですか」
受付の店員が戸惑う。
「審査を離れたのであって、暮らしまで離れたわけではありません」
特別窓口を断り、彼は列の進むのを待った。私が応対すれば、別の形で特別扱いになる。私は少し離れた値替え台へ戻り、担当店員が彼の用途を聞く声だけを耳に入れた。
執務室で茶を保ち、時には監査先へ持ってゆく。右手は文字を書くため、杯を取るのは左手。屋外では厚い手袋を着け、熱すぎるものは好まない。今の保温具もまだ動くが、接触部の縁が摩耗している。
卓へ出されたのは、通常の新品部品、表示のある再生材部品、現用品を整えて使い続ける案だった。三候補のどれにも同じ高さの価格札と、次の検査日が付く。
新品は素手と薄い手袋ならすぐ起動したが、屋外用の厚い手袋では指を置く位置を選んだ。再生材の候補は弱い左手の入力を一度拾わず、調整すれば使える可能性がある。現用品は表面を清掃すると動いたものの、長く熱を保った後の停止が少し遅れた。
担当店員は、彼が公爵だから試験を短くしなかった。茶を入れ、書類を読み、途中で席を立ち、左手で持ち直す。温度札が冷えるまで待つあいだ、後ろの客も自分の順番としてそれを見守っていた。
値上がりした部品の価格を見た時、彼の眉がわずかに動いた。払えない額ではない。だからこそ、財力だけで必要性を省けば、最も簡単に買える客だった。
「新品を入れれば、次の検査まで長く使えます」と店員が説明する。
「今の品がその前に危険になる可能性は?」
「現状の試験では低いですが、摩耗の進み方は見ます。検査予約を早める選択もできます」
「再生材を調整した場合は?」
「材料は少なくて済みますが、あなたの左手へ合わせる加工と、短い間隔での再検査が要ります。安い方とは限りません」
彼は三候補の値札を裏まで読み、作業料と検査費を確かめた。値段を気にしない高貴な客を演じず、高いものを買って店を支える恋人にもならない。その姿を見ていると、私は胸の奥が温かくなるのと同時に、買ってほしいという商人の欲を隠せなくなった。新品の一件が立てば、原料高で痩せた売上表は少しだけ明るくなる。
それでも担当店員へ合図は送らなかった。私が欲しい売上を、彼の厚い手袋の代わりにはできない。
現用品は安全の範囲で止まった。今すぐ交換しなければ暮らしが止まる品ではなく、監査先には別の杯も使える。新品も再生材も、彼より急ぐ使用者へ必ず合うとは限らないが、少なくともここで抱えて帰る理由はなかった。
「どれをお求めになりますか」
「今日は要りません。現用品の検査予約だけをお願いします」
彼は買わない票を受け取った。そこには左手、手袋、代替可能、購入なしという本人が許した条件だけが残り、債権者代理を辞めたことも、私の恋人であることも書かれない。匿名集計への札も持ち帰り、自分を制度へ差し出す見本にはしなかった。
試用に使った茶と洗浄、担当店員の時間には、通常の試用料を払った。何も買わなかったから無料にしてもらうことも、公爵が店へ寄付した形へ上乗せすることも断る。受取票へ名前を書く時の横顔には、委員長候補の席にいた時より、少しだけ疲れが見えた。
「今日は、ずいぶん多くの紙へ署名しましたね」と店員が言った。
「最後が買わない票で、ほっとしています」
軽い返事に、列から小さな笑いが起きた。空席を作った人が、ようやく一人の客として息をついたように見えた。
「これほど大きな役目を退いたのだから、せめて個票くらい出せばよいのに」
列から聞こえた声に、彼は静かに答えた。
「忌避と、情報を渡す同意は別のものです」
次に並んでいた女性へ、新品部品が自動的に回ることもなかった。毎晩保温具を使う人だったが、本人の弱い入力では起動しない。公爵が譲った一枚という美談に押されれば、合わない品を断りにくくなる。女性は足板式の貸出を選び、新品部品は再び配分待ちへ戻された。
閉店後、扉の外でアルノルトを待った。礼を言おうとすると、「何に対してですか」と先に尋ねられた。
「私のために席を――」
言い終える前に、自分で止めた。私を勝たせるための辞任にすれば、後任の審査が国有化へ傾いた時、彼の損を無駄にしたことになる。
「あなたが、ご自分の権限を正しく外したことを尊敬します」
「ありがとう」
「でも、怖いです。後任は、あなたより厳しいかもしれません」
「その可能性はある。私が債権者側で意見を言うことも、もうできません」
彼は失ったものを、恋人へ心配させまいと小さく言わなかった。私もそれを反対運動の旗にせず、ただ彼の手を取った。話せない審査が二人のあいだへ広がっても、指はためらわず重なった。
夜風の中で触れた掌は、試用の湯を持っていたせいかまだ温かかった。私が指を深く絡めると、彼も同じだけ力を返す。人目のある通りで交際を隠す必要はもうない。それでも公爵の辞任を恋の見世物へ変えたくなくて、私たちは誰にも聞こえない声で、今日の疲れだけを確かめた。
「席を立った時、怖くありませんでしたか」
「怖かった。正しい手続だと分かっていても、後の判断を見ているしかなくなる」
「私も、あなたがいない審査が怖いです」
互いの怖さを、元の席へ戻る理由にも、店を守る票にも使わなかった。ただ帰り道のあいだだけ、どちらも一人で抱えずに済んだ。
「今夜は、何を食べましょう」
「豆を煮たものを。今度は塩を入れすぎないようにします」
「失敗したら?」
「あなたと食べながら直します」
未来の約束を急ぐ言葉はなかった。それでも、彼の公邸へも私の店へもまだ属さない帰り道を、手をつないで歩いた。
翌朝、後任委員から審査条件が届いた。
星灯りを公益会社へ移さないなら、導魔雲母を使う安全接触部の共通製法を開くこと。
アルノルトが退いた後の審査は、少しも優しくなっていなかった。




