第104話 帰る船への手紙
「これも、お包みにならないのですか」
船上売店の主人は、三つ目の保温杯を拭く手を止めた。蓋の縁には、修理で継いだ琥珀色の樹脂が細く光っている。揺れる食堂の卓に置いても倒れにくく、茶は食事が終わるまで穏やかに温かかった。三つ試した中でいちばん私の手に馴染み、値も高すぎず、王都から郵送で修理を頼める。アルノルトへ贈る品として、欠点を探す方が難しいように見えた。
「はい。三つとも、今日は買いません」
主人の眉が上がり、向かいにいたニナは笑いを隠すよう茶器へ口をつけた。南方の港を離れてからも、船内には甘い香料と潮の匂いが残っている。開け放した丸窓から入る風は湿っており、試用票の端を持ち上げては、汗ばんだ腕へ貼りつかせた。
ひとつ目は、細い銀線を内側へ巡らせた高価な杯だった。注いだ熱を長く留め、冷め始めれば底の蓄熱石が一度だけ温度を戻す。船が傾いても蓋は外れず、手袋のまま取っ手を持てる。主人の説明どおり、朝に淹れた茶を仕事の合間に飲む人には見事な品だった。
けれど最初の一口が熱く、息を吹いて待つうちに、蓄熱石が冷めたと判断してまた熱を戻した。茶を半分にして試すと、残りが少ないほど石の熱が強く伝わり、最後の一口で唇を離すことになった。
「熱いものを長く召し上がる方なら、これ以上ないでしょうね」
ニナが温度札を光へ透かした。
「アルノルト様は、熱い茶がお好きですか」
「分からないわ」
監査の書類に目を落としたまま、冷めた茶を飲んでいた彼の姿なら何度も見た。けれど、それは冷たい方を好んだからではなく、湯気のあるうちに席を立てなかっただけかもしれない。会えない日が重なるほど、記憶の中の小さな仕草まで自分だけのものにして、彼を分かっている証にしたくなる。その甘さに身を任せれば、最高級の銀線杯を、公爵に似合うという一言で包ませていただろう。
私は満杯、半分、最後の一口で変わる熱を試用票へ書き、ひとつ目を棚へ戻した。作り手は欠陥ではないと言った。少量ずつ熱い茶を足す使い方なら、最後まで温かい。それはきっと正しい。合わないとまだ決まっていない相手へ贈るには、その正しさだけでは足りなかった。
二つ目は、厚い陶器の日常杯だった。外側の持ち輪へ手を通せば、船が揺れても落としにくい。銀線杯ほど長くは保温しない代わりに、蓋も輪も南方の各港で替えられる。私は薄い手袋をつけ、右手を輪へ入れた。第二関節で止まり、左手なら辛うじて通る。
「大きい輪へ替えられますよ」
主人が大中小の交換輪を並べる。大きな輪には厚い手袋でも指が入ったが、重心が外へ寄り、船が傾いた時に手首を強く引かれた。中は薄い手袋で安定し、小は素手なら杯と掌が一緒に動く。
「公爵閣下なら、いちばん大きなものを特別にお作りしては」
同行の店員が提案した。
「本人の手を見ずに、公爵向けの大きさを決めるのはやめましょう。彼がどちらの手で持つかも、外で使うかも、私は聞いていないの」
「驚かせるお土産ではなくなりますね」
「毎朝持ちにくい品で驚かせたくはないわ」
口にしてから、毎朝という言葉が胸に残った。私は彼の朝を知らない。公爵邸の食堂で飲むのか、監査局の机へ運ぶのか、移動の馬車で蓋を開けるのか。恋人になり、公にそれを告げても、知らない暮らしはまだ広い。それを寂しいと思う気持ちと、これから尋ねられることを嬉しいと思う気持ちが、同じ場所でゆっくり混じった。
二つ目も棚へ戻し、三種類の輪の寸法と重心を控えた。
三つ目は、一度割れた蓋を直した品だった。作り手の名の下へ、樹脂を選んだ工房と修理者の名が別に刻まれ、傷を新品の塗料で隠していない。広い底は揺れに強く、熱は舌を急かさない温度で残る。私の手には最も合った。古いものへ別の手が加わり、使い続けられる姿にも、私はどうしようもなく惹かれた。
買いたい、と素直に思った。保温杯を選ぶのではなく、離れているあいだに彼を思っていた形を、ひとつ持ち帰りたかった。
それでも食堂だけで決めず、片手に書類袋を持って甲板まで運んだ。階段で身体を傾け、重い扉を押し、風の中で蓋を開ける。底は安定したが、蓋のつまみが小さく、濡れた手袋では二度指が滑った。机の上でよく保温できたことは、監査先へ持ち歩く時まで合う証拠にならない。私は未練を残したまま、三つ目も主人へ返した。
「お気に召したのでしょう?」
「私には、とても合いました」
「なら、贈られる方にも良い品です。土産は、選んだ方の気持ちを渡すものでしょう」
「ええ。だからこそ、私の想像だけで、あの人の一日を埋めたくないのです」
作り手と修理条件は控えた。銀線杯の蓄熱石は南方の工房で交換すること、陶杯の蓋と持ち輪は寄港地で替えられること、修理杯は王都から郵送できること。本人の用途を聞いたあと、合う候補が残れば王都から正式に注文できる。
三品分の試用料も私費で払った。買わなかったのだから無料にしてほしいとは言わない。茶を淹れ、洗い、交換輪を揃え、甲板で見守った仕事には、購入と別の対価がある。
「三つも試して、売れた杯は一つもなしですか」
「帰国後、本人が使い方を答えて、合うものがあれば注文します。なければ、そこで終わりです」
主人は呆れた顔をしながらも、王都から注文を受ける窓口を試用票へ追記した。船上で急がなければ二度と買えない、と惜しませる言葉は使わなかった。
三つの杯が棚へ戻ると、卓の上には輪染みだけが残った。ニナが布で拭こうとした主人を止め、どの杯の底が滑ったか分かるうちに写し取らせてもらう。私は試用票を畳みながら、土産を入れるつもりで空けていた鞄の隅を思った。彼へ会うまでの日を、包み紙とリボンで満たせないことが急に寂しくなる。
「何も買わない時間も、お土産になるのでしょうか」
ニナは主人が向こうへ行ってから尋ねた。
「そう言えたら、きれいでしょうね。でも、あの人が欲しいものをまだ知らないだけよ」
「エステル様が選んだ物なら、アルノルト様は喜ばれると思います」
「たぶん、喜んでくださるわ」
だから怖いのだと、言葉にするまで少し間が空いた。彼は合わない杯でも、私が贈ったという理由で使い続けるかもしれない。朝ごとに持ちにくい輪へ手を通し、それを愛情として受け取ってくれるかもしれない。その優しさへ甘えて選ぶのは、試用も返品も守ってきた私が、恋人にだけ別の売り方をすることになる。
「帰ったら、二人で試します」
「では三つ目の工房へ、王都での試用方法も聞いておきます」
ニナは私のために結論を出さず、控えへ一行を加えた。
食堂の隅で、アルノルトへの便箋を開いた。海の揺れが文字へ伝わり、最初の一行がわずかに右上がりになる。
『保温杯を三つ試しました。ひとつ目は私には熱すぎ、二つ目は手袋に合わず、三つ目はとても良い品でした。けれど、何も買っていません』
ここまででは、土産を期待させたあげく落胆させる手紙だった。私は続けて、彼の用途を尋ねた。朝と午後のいつ使うのか。執務室、監査先、移動中、家の食卓のどこへ持ってゆくのか。右手と左手のどちらで飲み、手袋を着けるのか。中身は茶か、珈琲か、湯やスープなのか。熱いままがよいのか、すぐ口にできる温度がよいのか。席を離れるのはどのくらいで、蓋を洗うのは誰なのか。壊れた時に、どこへ持ち込めるのか。
最後の問いで筆が止まった。
誰が洗うのか。どこから仕事へ出て、どこへ帰るのか。彼には公爵邸があり、私には店の上階の部屋がある。勤務の時間も、雇っている人も、財産も別々だった。同じ杯を使う未来を思うなら、どちらかが相手の暮らしへ入り込むのではなく、まだ知らない日常から尋ねなければならない。
質問を削らず、店の照会票ではなく私信として封をした。船の経費に混ぜず、寄港地から出す郵便代も自分の財布で払った。
その夜は、波が強かった。寝台へ横になっても、船板の軋みと、灰色箱の留め金が鳴る音が聞こえる。彼なら今ごろ何を飲んでいるだろう、と考えかけて、自分で尋ねた答えを待てずにまた想像していることへ苦笑した。
会いたいと思うたび、最後に抱き合った時の腕の重さが、記憶の中で少しずつ都合よく変わってゆく。寂しさまで商品選びの理由にしてしまえば、三つ目の杯はとうに鞄へ入っていた。私は空いた隅へ手を置き、そこへ彼の返事が届く余地を残したのだと思おうとした。けれど、正しいことをしたという満足より、何も触れない指先の冷たさの方が、眠りに落ちるまで長く残った。
次の寄港地では、国外返品の灰色箱を王都便へ積み替えた。所有者番号、開封できる資格、見積り後に本人が修理か返却を選ぶ欄を、塩で白くなった縄の上から確かめる。私の土産選びと客の回収品が、同じ『持ち帰るもの』にならないよう積荷を分けた。
出航を告げる鐘が鳴る頃、郵便係が本国から追いついた袋を届けてくれた。アルノルトの封は、ほかの公文書より薄い。開く指が急ぎ、蝋の欠片を膝へ落とした。
最初には、保温杯の質問への答えが並んでいた。朝は執務室で使い、午後は監査先へ持ち歩くことがある。右手で書くため、飲むのは左手。屋外では手袋を着け、中身は茶。熱すぎるものは苦手で、会議のあいだ温かければよく、帰宅まで熱を残す必要はない。蓋は自分で洗える形がよく、壊れた時は自分で店へ持ってゆく。
銀線杯は外れる。陶杯の輪は狭い。三つ目は、左手と厚い手袋でもう一度試さなければ分からない。何も買わなかった時間が、ようやく彼自身の選択へ続いた。
紙を返そうとした時、その下に、少しだけ広く空けられた行があることに気づいた。
『寂しいです。会いたい。いつか、君と同じ家へ帰りたい』
声に出せば海へ溶けそうなほど、飾りのない言葉だった。求婚でも、同居の日取りでもない。公爵邸へ来てほしいとも、店を離れてほしいとも書いていない。それでも彼が『寂しい』と私へ差し出したことが、胸を満たすより先に痛かった。私もずっと同じだったのに、会いたいという言葉を、成果の報告の端へしか書けずにいた。
返事は何度も書き直した。嬉しいだけでは、彼の寂しさへ答えたことにならない。未来をすぐ約束へ固めれば、どちらの家と仕事を残すのかを置き去りにする。
『私も寂しいです。あなたに会いたい。同じ家へ帰る未来を、帰国したら一緒に考えたいです』
そう書き、紙の上へ指を置いた。海の向こうにいる人の体温は届かない。それでも、役職も審査も挟まない言葉が二人の間を往復したことを、しばらく手放せなかった。
船が本国へ近づくにつれ、今度は国内工房からの電信が、寄港地ごとに増えた。導魔雲母が入らない、仕入れ条件が変わった、製作を続けられない。船室の片側には南方で受けた注文票が積まれ、反対側には、王都で作れないという返事が積まれてゆく。
海の先に帰る港の灯が見え始めても、その二つの束は、同じ机の上で少しも近づかなかった。




