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第23話 探求心の化身

「あなたの行動のすべてを、1秒の隙もなく記録させてもらうわ。物理法則を愚弄するそのトリックを完全に暴き出すまでね」


 四畳半のボロアパートに、新たなる居候が定着しようとしていた。

 朝食のクロワッサンを涙を流しながら完食した瞳は、理系エリートとしての最後の意地を見せるかのように、ちゃぶ台の半分を占拠して大量の計測機材を展開していた。

 彼女の視線は、キッチンで食器を洗っている悠作の背中に、獲物を狙う鷹のように鋭く突き刺さっている。


「……信じられない。スポンジに洗剤を含ませ、皿の汚れを落とす動作。その一連の流れにおいてすら、一切の魔力波長が検出されないなんて。筋肉の収縮と連動した生体エネルギーのロスが完全にゼロ……。あり得ないわ。人は息をするだけでも微小なマナを消費するはずなのに」


 瞳はタブレットの画面に流れる無数のデータログを睨みつけながら、ブツブツと難解な魔法数式を唱え続けている。

 一方、背中にその痛いほどの視線を浴び続けている悠作の頭の中は、極めて低次元で現実的な不満で満たされていた。


(……マジで1日中監視する気か、このギルドの監査員は。皿洗いの手順にまでケチをつけて、水道代や洗剤の使用量から罰金を算出しようってのか? どこまでブラックな組織なんだ。絶対にミスは犯さないぞ)


 悠作は事なかれ主義の警戒レベルを最大に保ちつつ、一滴の水はねも許さない完璧な動作で皿を拭き上げ、食器棚へと収納した。


 ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。


「悠作様! 命じられておりました特売の卵と牛乳、無事に確保してまいりました!」

「ユーサク! アタシも重い牛乳パックを運んでやったヨ! 褒めて!」


 朝の買い出し部隊として放っていたすずとフレヤが、誇らしげな顔で帰還した。


「おう、ご苦労さん。タダ飯は食わせないからな。しっかり働いてもらうぞ」


 悠作は二人が持ってきたレジ袋を受け取り、中身を確認した。指定した商品は完璧に揃っている。


「よし。だが、これだけじゃ今日の昼飯のメインが作れないな。少し足を伸ばして、駅前の商店街にある精肉店まで行ってくる。あそこの挽き肉は質がいいんだ」


 悠作がジャージのジッパーを上げると、すずとフレヤの目の色が変わった。


「買い出しですね! もちろん、一番弟子であるこの私がお供いたします!」

「ノー! ユーはさっきのスーパーで卵を守るのに必死で、全然役に立ってなかったネ! 今度はアタシがユーサクを護衛するヨ! 二人きりでお出かけしたい!」


 すずとフレヤが、四畳半の中央でバチバチと火花を散らす。


「泥棒猫が……! 悠作様の隣を歩く権利は私にあります!」

「うるさいネ! アタシの強さを見せて、ユーサクを本気にさせるんだから邪魔しないでヨ!」


(……また始まった。同業者同士の縄張り争いか何か知らないが、本当に騒がしい奴らだ)


 悠作は深いため息をつき、冷静に状況を判断した。


「お前ら、二人とも留守番だ。ポチとクロのご飯の準備と、そこの監査員が変な機材で部屋を傷つけないように監視しておいてくれ」


「そ、そんな……! 悠作様ぁ……!」


 絶望して膝から崩れ落ちるすずを尻目に、フレヤは不満げに頬を膨らませた。


「ノー! アタシは絶対に行くヨ! 連れて行ってくれないなら、ここで今の気持ちを大声で歌い上げてやるネ! ユーサクへの愛の歌を!!」


 フレヤが息を大きく吸い込み、A級上位の強靭な肺活量で本当に大音量の歌を響かせようとした瞬間、悠作の事なかれ主義の論理エンジンが最大級の警報を鳴らした。


(……おいおい、冗談だろ。こんなボロアパートで外の連中にまで響くような大声で歌われたら、一発で大家から退去勧告を食らうじゃないか。それだけは絶対に避けなければならない……!)


 悠作は苦渋の決断を下し、即座にフレヤの口を手で塞いだ。


「わかった。……連れて行くから絶対に声を出すな。ただし、そのピンクの頭と露出度の高い服はどうにかしろ。俺の予備のジャージと帽子、それにサングラスを貸してやる。絶対に目立つなよ」


「イェース! ユーサクの服を着てのデート、最高にホットだネ!」


 フレヤは悠作のダボダボのジャージを羽織り、深く帽子を被ってサングラスをかけた。


 だが、アパートの外には依然として、悠作を一目見ようとする数万人の群衆やマスコミが隙間なくひしめき合っている。


「ユーサク、外にはいっぱい人がいるヨ。アタシが力ずくで道を開けようか?」

「馬鹿。そんなことをしたら余計に目立つだろ。……俺の手を離すなよ」


 悠作はフレヤの手首を掴むと、玄関のドアを細く開け、音もなく外へと滑り出た。

 彼が10年間で極め尽くした『明鏡止水』の隠密歩行。群衆の視線と意識の隙間を完璧に縫うようにして、全く気配を立てずに進んでいく。

 フレヤは、周囲の人間が自分たちに全く気づかない異常な現象よりも、悠作に強く手を引かれているという事実に心臓を激しく高鳴らせていた。


(ヤバい……ユーサクのリード、超クール! なにこれ、完全に映画のワンシーンじゃん!)


★★★★★★★★★★★


 群衆の包囲網を難なく突破し、休日の昼前。駅前の商店街は、多くの買い物客で賑わっていた。

 悠作は「目立たないこと」を至上命題とするため、フレヤの陽気なアプローチを全てスルーし、目的の精肉店へと一直線に向かった。


「すいません、この国産牛と黒豚の特上合い挽き肉、500gください」


 悠作は、タイムセールで通常より20%ほど安くなっていた極上の挽き肉を確保した。さらに隣のパン屋で、焼きたての硬いバゲットを1本購入し、レジ袋に収める。


「よし、目的のものは買った。帰るぞ」

「えー!? もう帰るの!? まだ全然デートっぽいことしてないヨ!」


 不満げに唇を尖らせたフレヤは、夏の暑さとジャージの熱気から逃れるように、無意識に帽子とサングラスを外してしまった。

 その瞬間、ピンクとブロンドの派手なグラデーションヘアと、エキゾチックな美貌が白日の下に晒された。


 商店街の裏通りに差し掛かった時、彼らの前に三人のガラの悪い男たちが立ちはだかった。

 薄汚れた魔導アーマーを着崩した、いかにも素行の悪そうな底辺探索者の崩れだ。


「おいおい、マジかよ! ノルウェーの『爆炎の戦乙女』、フレヤじゃねえか!」

「なんでこんな冴えないジャージのおっさんと一緒に歩いてんだよ! ニュースで見た『虚無ニキ』って奴か!?」


 男たちの一人が、下卑た笑いを浮かべてフレヤに近づいてくる。


「なあ、フレヤちゃんよぉ。あんなフェイク動画で有名になったインチキ野郎より、俺たちと遊ぼうぜ。日本の夜の街を案内してやるよ」


 フレヤの歩みがピタリと止まり、そのエキゾチックな顔から一瞬にして笑顔が消え去った。


「……アタシのユーサクを、インチキ野郎って言った?」


 ゴォォォォッ……!!

 フレヤの全身から、空気を焼き焦がすような灼熱の魔力が立ち昇る。アスファルトが熱で溶け始め、周囲の気温が一気に跳ね上がった。A級上位の激怒。それは、街の区画一つを容易く灰にするほどの破壊の予兆だった。


「ひっ……! な、なんだこの熱……!」


 男たちが恐怖に顔を引き攣らせ、後ずさりする。フレヤの右手に、巨大な炎の球が収束し始めた。


「アタシの愛する男を侮辱した罪、その体で灰になって償いなヨ!!」


 フレヤが必殺の火球を放とうと腕を振り上げた、まさにその瞬間だった。


「——おい。やめろ」


 低く、ひどく冷め切った声が響いた。

 悠作が、フレヤの振り上げられた右腕を、先ほどパン屋で買ったばかりの『バゲット』で軽く叩いて制止したのだ。

 ただ硬いパンで軽く叩かれただけ。それなのに、フレヤの収束しかけていた膨大な魔力は、まるでスイッチを切られたかのように一瞬で霧散し、熱気も嘘のように消え去った。


「ユ、ユーサク……? なんで止めるの! こいつら、ユーを馬鹿にしたんだヨ!?」

「馬鹿にされたくらいで、いちいち街中で火薬を使うな。……買ったばかりの肉の脂が、お前の熱で溶けちまうだろ。ハンバーグの種は温度管理が命なんだ。鮮度が落ちたらどうしてくれる」


 悠作の視線は、自分を侮辱した男たちではなく、手元にあるレジ袋の『合い挽き肉の温度』にのみ向けられていた。

 そして、彼がフレヤの魔力を一瞬でかき消したのは、ポーターの固有スキル【絶対運搬】を、無意識のうちにバゲットという媒体を通じて発動させたに過ぎない。彼にとっては「食材を熱から守るための、ごく当たり前の動作」だった。


 だが、男たちの一人は、悠作のその無防備な態度を「隙だらけの素人」と勘違いし、恐怖を誤魔化すように腰の短剣を引き抜いた。


「な、舐めやがって! フェイク野郎が、死ねぇっ!!」


 男がやけくそで短剣に風の魔力を纏わせ、鋭い真空の刃を悠作に向けて放った。


「悠作様! 危ない!」


 フレヤが叫ぶ。


 しかし、悠作の顔には『完全な虚無』が張り付いていた。


(……チッ、またドッキリの仕掛け人か? 危ないおもちゃを振り回しやがって。肉のパックが切れたら困るだろ)


 悠作は、飛来する真空の刃に向かって、持っていたバゲットを適当に軽く振った。

 まるで、肩に落ちたホコリを軽く手で払うかのような無造作な動作で。


 ——パキィィィンッ!!!


 ガラスが砕け散るような甲高い音が響いた。

 男の放った渾身の魔法の刃は、スーパーのレジ袋から半分顔を出しているただのフランスパンに触れた瞬間、いとも容易く粉砕され、大気中へと霧散したのだ。

 バゲットの表面には、焦げ跡一つ、傷一つついていない。


「……え?」


 男たちは、自分たちの目を疑い、完全に硬直した。


 悠作は心底面倒くさそうな目で男たちを見下ろした。


「食べ物を粗末にするな。それと、街中で危険な撮影をするなら警察を呼ぶぞ。行くぞ、フレヤ。肉が温まる前に帰るんだ」


 悠作はそう言い捨てると、男たちにはもはや一瞥もくれず、足早に歩き出した。

 残された男たちは、圧倒的な実力差と「パンで魔法を粉砕された」という理不尽な現実に心がへし折られ、悲鳴を上げながら逃げ去っていった。


「……ワオ」


 フレヤは、自分の腕を抑えられた感覚と、バゲット1つで全てを終わらせた悠作の背中を見つめ、熱い吐息を漏らした。


「ヤバい……今の、超クールだった……! パンで魔法をパリィするとか、規格外すぎるネ! ますます惚れちゃったヨ!!」


 陽キャの戦闘狂は、頬を真っ赤に染め、恋する乙女の顔で悠作の背中をスキップしながら追いかけていくのだった。


★★★★★★★★★★★


 アパートへ帰還した悠作は、息つく間もなくキッチンに立ち、昼食の準備に取り掛かった。

 ちゃぶ台では、瞳が「おかしい……今の外出から帰還した歩行データでも、魔力消費が全く検知できない……」と頭を抱え続けている。


「よし。今日は極上の合い挽き肉で、本格的なハンバーグを作るぞ」


 悠作はまず、みじん切りにした玉ねぎをフライパンでじっくりと飴色になるまで炒め、粗熱を取るためにバットに広げた。

 次に、ボウルに冷えた合い挽き肉、炒めた玉ねぎ、パン粉、牛乳、卵、塩コショウ、そしてナツメグを投入する。


 ここからが、悠作のこだわりだった。

 彼はボウルの下に氷水を当て、自らの手も氷水でキンキンに冷やしてから、手早く肉をこね始めたのだ。


「ハンバーグの種は、手の温度で肉の脂が溶け出してしまうと、焼いた時にパサパサになってしまう。氷で冷やしながら素早くこねることで、脂を肉の中にしっかりと閉じ込めるんだ」


 白っぽく粘り気が出るまでこねた後、空気を抜くように両手でキャッチボールをして小判型に成形する。

 熱したフライパンに油を引き、ハンバーグを並べる。

 ジュワァァァッ!! という肉の焼ける音とともに、ナツメグのスパイシーな香りと肉の旨味が四畳半に爆発的に広がった。


 両面にしっかりとした焼き色をつけて肉汁を閉じ込めた後、悠作は赤ワインを回し入れ、蓋をして蒸し焼きにする。

 数分後、蓋を開けると、ふっくらと膨らんだハンバーグから透明な肉汁が溢れ出していた。

 ハンバーグを皿に取り出し、肉汁の残ったフライパンに、ケチャップ、ウスターソース、少量のバターを加えて煮詰める。濃厚で艶やかな特製デミグラスソースの完成だ。


「よし、完成だ。冷めると肉汁が落ち着いてしまうから、熱いうちに食べてくれ」


 ちゃぶ台に並べられた、熱々のハンバーグ。

 すずとフレヤが目を輝かせて箸を伸ばす中、瞳もまた、理系エリートとしての抗議を忘れて無意識にハンバーグを口へと運んでいた。


 瞳は一口噛み締めた瞬間、雷に打たれたように動きを止め、頭の中の計算式を完全にショートさせていた。

 サクッとした表面の焼き目を突き破った瞬間、内側に閉じ込められていた肉汁が、まるで決壊したダムのように口内へと溢れ出したのだ。

 合い挽き肉の濃厚な旨味と、飴色玉ねぎの極上の甘さ。ナツメグの香りが肉の臭みを完全に消し去り、自家製のデミグラスソースの深い酸味とコクが、全てを完璧なバランスでまとめ上げている。


(な、なんなのこの肉汁の保持率は……!? メイラード反応によって形成された外側の強固な被膜が、内側の流体力学的な圧力を完全に制御し、旨味成分の揮発を100%防いでいるわ……! まるで、肉汁の海を魔法陣でコーティングしているような……!)


 瞳の脳内で、ハンバーグの美味しさを理詰めで解析しようとする数式が凄まじい勢いで組み上がっていく。

 しかし、噛めば噛むほどに溢れ出す圧倒的なまでの「美味しさ」の前に、彼女の小賢しい理論は次々と粉砕されていった。


「……無理よ。こんなの、計算できないわ……! ただ、ただひたすらに……美味しい……!!」


 ついに探求心の化身は理論を放棄し、涙を流しながら無我夢中でハンバーグと白米をかき込み始めた。


「ユーサク! このハンバーグ、アタシの国の三ツ星レストランより最高ネ! 毎日作って!」

「抜け駆けのデートは許しませんが、このお料理の味だけは神域です……!」


 フレヤとすずも、完全に悠作の胃袋の虜となり、歓喜の声を上げている。


「だから、大袈裟なんだよ。氷で手を冷やしてこねただけだ。……まあ、洗い物は三人で手分けしてやってくれよな」


 最強の無自覚ポーターは、自分が理系エリートの誇りと戦闘狂の恋心を完全に掌握したことなど露知らず、あふれる肉汁の出来栄えにただ一人静かに満足していた。

 彼の愛する平穏な四畳半は、居候たちの増殖により、さらなるカオスへと突き進んでいくのだった。

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