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第22話 物理法則の崩壊

 日曜日の早朝。

 普段であれば、四畳半のボロアパートは居候たちの賑やかな声と、二匹のS級幻獣が巻き起こす異常気象によってカオスに包まれているはずの時間帯だ。

 しかし今朝は、奇跡的な静寂が保たれていた。

 悠作が、すずとフレヤの二人に「隣町のスーパーで、一人1パック限定の特売卵と牛乳を買ってこい。手ぶらで帰ってきたら朝飯は抜きだ」という厳命を下し、買い出し部隊として放ったからである。


「よし。静かなうちに、昨夜から仕込んでおいた大一番の作業に取り掛かるとするか」


 悠作はエプロンを締め、狭いキッチンの調理台に向かった。

 彼が冷蔵庫から取り出したのは、ラップに包まれてしっかりと冷やされた小麦粉の生地だ。

 今日の朝食は、手間と時間の結晶である『クロワッサン』。

 前日の夜から強力粉と薄力粉を絶妙な比率でブレンドして生地をこね、長方形に整えた冷たい無塩バターを包み込み、麺棒で伸ばしては三つ折りにする作業を3回繰り返した。27層にも重なった生地とバターの極薄の層が、冷蔵庫の中で一晩かけてしっかりと休ませてある。


「クロワッサンは温度管理が命だ。バターが溶け出さないうちに素早く成形しなきゃならない」


 悠作は真剣な眼差しで生地と向き合った。

 打ち粉を振った台の上で生地を鋭角の三角形にカットし、底辺から頂点に向かってクルクルと優しく巻き上げていく。美しい三日月の形に整えられた生地を天板に並べ、室温で少しだけ発酵させる。生地が一回りふっくらと膨らみ、層の断面がわずかに開いてきたところで、表面に溶き卵を薄く均一に塗り、予熱しておいたオーブンへと慎重に滑り込ませた。


「焼き時間は約15分。あとはオーブンが仕事をしてくれる。……今のうちにコーヒーの準備をしておくか」


 休日の朝を優雅に彩る完璧なタイムスケジュール。

 だが、その平穏な予定は、玄関のドアを乱暴に叩く音によって無慈悲に遮断された。


 ——ドンドン、ドンッ!!


「開けなさい! ギルド魔法技術研究所の中村よ! あなたのトリックを解明するまで24時間監視するって宣言したでしょ!!」


 ドアの向こうから、昨日駅前の喫茶店で悠作に詰め寄ってきた理系エリート、瞳の甲高い声が響き渡った。


(……マジかよ。あのギルドの監査員、本当に休日返上で俺の家に張り込みに来やがったのか)


 悠作は窓の隙間からそっと外を窺った。アパートの周囲は相変わらず数万人の群衆で埋め尽くされているはずだが、ドアの前には瞳が立っている。彼女はS級魔法使いとしての特権である『広域排除結界』を力技で展開し、大量の機材を浮遊魔法で引き連れながら、物理的に群衆をモーセの十戒のごとく押し除けて強行突破してきたのだ。

 だが、そんな高度な魔法技術など知る由もない悠作は、「ギルドの取り立て屋は、借金を回収するためなら人混みすら掻き分ける執念を持ってるんだな。恐ろしい連中だ」と的外れな戦慄を覚えていた。


 悠作の面倒くさがりな思考回路は、直ちに警戒態勢へと移行した。


(ここで居留守を使えば、「ギルドの監査を妨害した」として追加の罰金を科されるかもしれない。大人しく部屋に入れて、俺が何も不正をしていない潔白な底辺ポーターであることを証明し、さっさと帰ってもらうのが一番安全なリスク管理だ)


 悠作は深いため息をつきながら、ドアの鍵を開けた。


「……おはようございます。朝からご苦労なことですね」


「当然よ! 私の計算式に泥を塗ったバグ野郎を、このまま放置しておくわけにはいかないわ!」


 瞳は白衣の裾を翻し、ずかずかと四畳半の部屋に上がり込んできた。浮いてついてきたノートパソコンや見慣れないアンテナ付きの計測機器などが、ドスドスと床に置かれる。

 部屋の隅で丸まっていたポチとクロが不思議そうに首を傾げたが、瞳は幻獣たちに気づく余裕もないほど、悠作の調査に執念を燃やしていた。


「さあ、始めさせてもらうわよ。まずはあなたの『超次元収納』の魔力消費量と、収納限界容量のテストよ!」


 瞳はちゃぶ台の上に機材を広げ、ケーブルの先にあるセンサーを悠作に向けた。


「インベントリという空間魔法は、亜空間とのゲートを開く際に必ず『魔力波長』を放出するわ。そして、出し入れする物質の質量に比例して、消費される魔力は指数関数的に跳ね上がる。あなたが映像で見せたような数千トンクラスの岩を収納したなら、この測定器の針が振り切れるはずよ。……さあ、そこにあるものでいいから、インベントリの出し入れを全力で見せなさい!」


 瞳が理詰めで要求してくる。

 悠作の脳内で、事なかれ主義の計算が高速で弾き出された。


(そういえば昨日の喫茶店で、こいつは『一般的なポーターの上限は500kg』とか言っていたな。ここで重いものを出して500kgの上限を超えたら、規定違反で一発アウトだ。なら、絶対にそれを超えないように、俺にとって羽のように軽いゴミだけを出して『非力なポーターです』と誤魔化すしかない)


「……分かりました。本当に軽いものしか入っていませんが、全力でやればいいんですね」


 悠作は無表情のまま、自身のインベントリを展開した。彼にとってそれは、長年使い込んで底が抜けたポケットと同じくらい、当たり前に馴染んだ空間だった。

 悠作は手始めに、ダンジョンで拾ったビー玉サイズの黒い小石と、手頃な長さの黒い棒を取り出した。彼にとっては「全部合わせても5kg程度の軽いゴミ」という認識だった。


「こんなのしか入ってませんが。ほら、入れますよ」


 悠作は、その神話級鉱石と魔鋼石を、まるでトランプのカードを切るかのような滑らかな手つきで、出現させては消し、出現させては消すという動作を超高速で連続させた。


 シュババババババッ!!!


 1秒間に数十回。悠作の認識では「軽い石ころのお手玉」だが、実際には数万トン規模の質量が、出現と消失を瞬きする間に繰り返している。

 あまりの超速出し入れにより、黒い鉱石の残像が空中に重なって見え、四畳半の空間がモザイク状にバグったように歪んで見えた。


「……こんなもんでいいですか? これが俺の全力の荷物整理ですけど」


 悠作は全く息を乱すことなく、500kgの規定を守り切った平然とした顔で瞳に尋ねた。

 だが、瞳の反応は異常だった。

 彼女は手元の測定器の画面と、悠作の空間を交互に見比べながら、顔面を蒼白にしてガクガクと震えていた。


「う、嘘でしょ……? なにこれ……バグよ、絶対に測定器のバグよ……!」


 瞳の視線の先にある測定器の数値は、質量測定の針が限界値を振り切ってエラーを吐き出しているにもかかわらず、魔力波長のメーターは完全に『ゼロ』を示したままピクリとも動いていなかったのだ。

 数万トンの質量がこれほどの速度で空間を移動しているのに、悠作からは一切の魔力波長が検出されず、魔力消費もゼロ。


「あり得ない! 質量保存の法則は!? 熱力学第一法則はどうなったの!? あれだけのエネルギーを移動させて、魔力変換効率が100%どころか、無限大だなんて……! こんなの、現代魔法学の基本定理が根底から崩壊してるじゃない!!」


 瞳は髪を振り乱し、理系エリートとしてのこれまでの人生を全否定されたかのような絶望に顔を歪めた。


「私の……私がこれまで積み上げてきた数式が……全部ゴミクズだったっていうの……!?」


 ついに彼女の脳内の計算式がショートし、瞳はオーバーヒートを起こしたようにその場にへたり込み、両手で頭を抱えてブツブツと呪文のように数式を唱え始めてしまった。


(……なんだこの監査員。俺が規定内の軽い荷物を片付けただけなのに、なんでいきなり座り込んで法律用語を呟いてるんだ? さては、俺のミスが見つからなかったから、難癖をつける理由を必死に考えてるな)


 悠作が瞳の奇行を極めて冷ややかな目で見下ろしていた、その時。


 ——チーン!


 キッチンから、オーブンのタイマーが軽快な音を鳴らした。

 同時に、焼けた小麦粉と、良質なバターが溶け出した芳醇極まる香りが、一気に四畳半の部屋に溢れ出した。


「おっ、焼き上がったな。監査の対応で少し放置しちまったが、完璧なタイミングだ」


 悠作は瞳の存在を完全に思考から締め出し、オーブン用のミトンをはめて天板を取り出した。

 そこには、見事なきつね色に焼き上がり、幾重にも重なった生地の層が美しく剥がれた、プロのパン屋も顔負けの完璧なクロワッサンが六つ並んでいた。


「素晴らしい。バターの層がしっかりと立ち上がって、表面のサクサク感が目で見てわかる」


 悠作はクロワッサンを網の上に乗せて粗熱を取っている間に、手早く飲み物の準備に取り掛かった。

 クロワッサンの圧倒的なバターの風味に合わせるのは、深煎りのコーヒー豆を使った濃いめの『カフェオレ』に限る。

 フレンチローストの豆を細かく挽き、ハンドドリップで通常よりも少ない湯量で濃縮したコーヒーを抽出する。同時に小鍋で成分無調整牛乳を沸騰直前まで温め、二つのポットを両手に持ち、高い位置から同時にカップへと注ぎ込む。

 空気を含みながら勢いよく混ざり合ったカフェオレの表面には、きめ細かくクリーミーな泡の層がふんわりと乗っていた。コーヒーの芳醇な苦味とミルクの甘い香りが、クロワッサンの焼き上がる匂いと見事に調和する。


「よし、最高の朝食の完成だ。すずたちが帰ってくる前に、焼きたての一番美味しいところをいただくとするか」


 悠作がちゃぶ台に皿とカップを並べると、その信じられないほど甘く香ばしい匂いに、頭を抱えてフリーズしていた瞳がビクッと肩を揺らした。


「……な、なんなのこの匂いは……」

「クロワッサンとカフェオレです。監査のお茶出し代わりに、一つどうですか? 余計な難癖をつけて罰金を増やすのは勘弁してほしいんですけどね」


 悠作は「これで監査員を少しでも丸め込めるなら安いものだ」という打算のもと、焼き立てのクロワッサンを瞳に差し出した。


「わ、私を賄賂で丸め込もうなんていい度胸ね! 私は真理を追究する研究者よ! こんな小麦粉と油の塊で、私の知的好奇心が誤魔化されるとでも——」


 瞳は抗議しながらも、漂ってくる抗いがたい香りに敗北し、無意識にクロワッサンを手に取っていた。

 そして、その端を小さくかじった。


 サクッ。


「——っ!!」


 瞳の思考が、真っ白に染まった。

 前歯を立てた瞬間に崩れる、繊細なガラス細工のような極薄の層。そして、その直後に内側の生地から溢れ出す、しっとりとした噛み応えと、抗いがたい濃厚なバターの旨味。

 27層に折り込まれた生地が作り出す完璧なハニカム構造が、熱と香りを内部にしっかりと閉じ込めており、噛むたびに小麦の甘さが口いっぱいに広がるのだ。


「おい……美味しい……! なにこれ、生地の層が数学的に完璧な比率で重なっているわ……! 外側と内側の食感のコントラストが、まるで緻密に計算された魔法陣のよう……!」


「そこで、温かいカフェオレを飲んでみてください」


 悠作の淡々とした指示に従い、瞳はマグカップに口をつけた。

 深煎りコーヒーのビターな苦味と、温められたミルクの優しい甘みが、口の中に残ったバターの油分をスッと溶かして洗い流していく。

 クロワッサンの旨味とカフェオレのコクが手を取り合い、互いの長所を無限に増幅させる完璧なマリアージュ。


「ああっ……! コーヒーの苦味が、バターの甘さをさらに引き立ててる……! 味覚の相互作用が、私の舌の上で奇跡的な化学反応を起こしているわ……!!」


 瞳はもう、自分が何のためにこのアパートに来たのかすら忘れ、ぽろぽろと涙をこぼしながらクロワッサンを夢中で貪っていた。


「私の……負けよ。あなたの力も、この信じられないほど美味しいパンも……私の理論を完全に凌駕しているわ……」

「はあ。まあ、納得してくれたならよかったです。これで罰金はなしってことでお願いしますよ」


 悠作は、自分の賄賂作戦が見事に成功したことに微かな満足感を覚えながら、カフェオレを優雅に啜った。


「……ええ、そうね。あなたの謎を解明するまでは、私、絶対にここから離れないわ。……だから、明日の朝もこのパンを焼いてちょうだい。調査の一環としてね」


 瞳が口の周りにパイ生地の破片をつけながら、すっかり毒の抜けた声で堂々と居座り宣言をする。


「……おいおい、マジかよ」


 理系エリートのプライドすらも美味しい朝食で完全に粉砕してしまった結果、最強の無自覚ポーターの四畳半には、また一人、厄介な監視役が追加されてしまうのだった。

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