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第21話 理系エリートの頭痛

 四畳半のボロアパートは今、かつてないほどの人口密度とカオスに支配されていた。

 部屋の中央では、高橋すずとフレヤ・ヨネルが、「どちらが悠作のジャージを洗濯するか」という極めて不毛な議題で、朝からバチバチと殺気をぶつけ合っている。その足元では、S級幻獣であるポチとクロの二匹が、氷と炎の魔力を撒き散らしながら無邪気にじゃれ合っていた。


「……あいつら、本当に毎日元気だな」


 鈴木悠作は、深いため息をつきながら、そっと玄関のドアを閉めた。

 居候たちが言い争っている隙を突き、彼は音もなくアパートを脱出することに成功したのである。


 外は相変わらず数万人の群衆やマスコミで溢れ返っていたが、悠作の洗練された隠密歩行の前では、彼らはただの背景に過ぎない。悠作は誰の目にも留まることなく裏路地を抜け、駅前の家電量販店へと向かった。


「まずは、壊れたスマホの充電器を買わないとな」


 数日前にショートして息を引き取った安物のACアダプタの代わりとして、悠作はワゴンセールで980円の『ACアダプタと充電ケーブルのセット』を購入した。

 近くのカフェの店先にある外部コンセントを少しだけ拝借し、新調したアダプタを挿し込んでスマホにケーブルを繋ぐ。数分後、黒い画面にリンゴのマークが灯り、数日ぶりに端末が起動した。


 ピロリンッ、ピピピピピピピッ!!


 電源が入った瞬間、数日分の堰き止められていた通知が、決壊したダムのように押し寄せてきた。

 ギルドアプリの未読メッセージ数は「99,999+」でカンストしており、着信履歴は画面をスクロールしても底が見えない。

 悠作は、そのおびただしい数の「罰金の取り立て」の嵐に顔を引き攣らせ、即座に通知を全件ミュートにした。


「危ないところだった。うっかり開いたら、どんな法外な請求書を見せられるか分かったもんじゃない」


 悠作が全てのメッセージを一括削除しようとした時、一件だけ、見知った名前からのダイレクトメッセージが目に留まった。

 ギルドの受付嬢、伊藤みのりからだ。


『悠作さん、お元気ですか? 連日の騒ぎで大変だと思います。もしお時間が許すようでしたら、息抜きに一緒にお昼ご飯でもいかがですか? 私の奢りです』


 メッセージの受信日時は昨日の夕方だったが、その文面を見た瞬間、悠作の心に一筋の光が差し込んだ。


(……みのりさん。ギルドの中で唯一、俺をただの底辺ポーターとして普通に扱ってくれる、オアシスのような人だ。しかも、奢り……! 今月は居候たちのせいでエンゲル係数が跳ね上がっているから、タダで一食浮くのは本当にありがたい)


 悠作は迷うことなく『返信が遅れてすみません。スマホが壊れていました。今からでも大丈夫ですか?』と短いメッセージを打ち込んだ。

 すると、数十秒も経たないうちに『本当ですか!? ちょうど私も非番で駅前にいるんです。大通りの時計台の下で待ち合わせましょう!』と、即座に返信が舞い込んできた。

 悠作は「ちょうどよかった」と安堵し、カフェを後にして指定の場所へと向かった。


★★★★★★★★★★★


「悠作さん! こっちです!」


 休日の駅前広場。人混みの中で、パステルカラーの柔らかいワンピースに身を包んだみのりが、小さく手を振っていた。

 普段のギルドの制服姿とは違う、年相応の女性らしい私服姿。小柄で愛嬌のある彼女の笑顔は、すずやフレヤのような規格外の美貌と狂気を持つ探索者たちとは対極にある、安心感と親しみやすさに満ちていた。


「すみません、急に呼び立ててしまって」

「いえ、私も今来たところです。……ふふっ。悠作さん、今日もいつものジャージなんですね。なんだか安心しました」

「これしか着ていく服がないんで。……それで、奢りっていうのは本当ですか?」


 悠作が真剣な顔で念を押すと、みのりはクスクスと笑い声を漏らした。


「はい、本当です。世界中が悠作さんを探して大騒ぎしているのに、ご本人はご飯代のことしか気にしていないなんて……やっぱり悠作さんは、私の知っている悠作さんのままですね」

「? よく分かりませんが、ごちそうになります」


 二人が向かったのは、駅から少し歩いた路地裏にある、昭和の香りが色濃く残るレトロな純喫茶『ノスタルジア』だった。

 色褪せたレンガ調の壁と、カランカランと鳴るドアベル。店内には焙煎された珈琲の深い香りが漂い、落ち着いたジャズが流れている。


「ここの『鉄板ナポリタン』、絶品なんですよ」


 みのりの強い推薦により、二人は名物のナポリタンを注文した。


 しばらくして、熱々に熱せられた黒い鉄板に乗せられたナポリタンが運ばれてきた。

 ジュウゥゥゥッという食欲をそそる音とともに、ケチャップの甘酸っぱく焦げた匂いが立ち昇る。

 鉄板の底には薄焼き卵が敷かれており、その上に極太のスパゲッティ、ピーマン、玉ねぎ、そして厚切りのウインナーがたっぷりと乗っていた。


「いただきます」


 悠作はフォークに麺を巻きつけ、火傷しないように息を吹きかけてから口に運んだ。

 麺はモチモチとした食感で、酸味を飛ばしてしっかりと炒められたケチャップのコクが、麺の芯まで絡みついている。底に敷かれた卵が鉄板の熱で半熟から徐々に固まっていき、それを崩して麺と一緒に食べると、ケチャップの尖った味がまろやかに中和される。


「……美味い。粉チーズとタバスコを少しかけると、さらに味が引き締まって無限に食えるな」


 悠作は、その完璧なB級グルメの味わいに感銘を受け、夢中でフォークを動かした。


「ふふっ。たくさん食べてくださいね。……最近、アパートの方は大丈夫ですか? ニュースで、ご自宅の周りが大変なことになっていると見ましたが」


 みのりが、自分のナポリタンを上品に食べながら尋ねる。


「ああ……ええ、まあ。外の借金取りみたいな連中も面倒なんですが、最近は家の中にまで厄介なYouTuberや劇団員が転がり込んできてまして。家事をやらせて生活費を巻き上げてるんで実害はないんですが、とにかく騒がしくて敵いません」


「えっ……? 同棲、されているんですか……?」


 みのりのフォークがピタリと止まり、そのクシャッとした笑顔が、ほんの一瞬だけ硬直した。


「いや、同棲というか、ただの居候ですよ。俺としては早く出て行ってほしいんですけどね。……やっぱり、みのりさんとこうして静かに飯を食ってる時間が、一番落ち着きます」


 悠作が何の気なしに本音をこぼすと、みのりの顔がポッと赤く染まった。


「そ、そうですか……! ええと、私でよければ、いつでもお昼をご一緒しますからね!」


 みのりは照れ隠しのようにアイスコーヒーのストローを咥え、嬉しそうに目を細めた。


 世界を揺るがす最強の男と、彼を一番近くで見守ってきた受付嬢の、ささやかで平和なランチタイム。

 しかし、その穏やかな時間は、唐突に、そして極めて理不尽な形で破られることとなる。


 カランカランッ!!


 喫茶店のドアベルが激しく鳴り響き、一人の女性が店内に転がり込んできた。

 動きやすいタイトなスーツの上に、純白の白衣を羽織っている。知性と気品に溢れる端正な顔立ちの美女だが、今の彼女の瞳は、まるで獲物を追い詰めた猟犬のように血走っていた。


「……見つけたわよ、この物理法則のバグ野郎!!」


 彼女の名前は、中村瞳。

 S級魔法使いにして、探索者ギルド魔法技術研究所の特待研究員を務める、生粋の理系エリートである。


「なっ……中村特待研究員!? なぜあなたがここに……!?」


 ギルド職員であるみのりが、驚きのあまり席から立ち上がる。


 瞳はみのりを完全に無視し、悠作のテーブルにズカズカと歩み寄ると、手に持っていた薄型の情報端末を、ドンッ! と力強くテーブルに叩きつけた。


「あなたが鈴木悠作ね! あなたのスマホのGPS信号がオンになった瞬間、ギルドアプリの裏コマンドを使って位置情報を特定させてもらったわ!」

「……はあ? 位置情報?」


 悠作は、口元をナポリタンのケチャップで汚したまま、心底面倒くさそうな顔で瞳を見上げた。


(……なんだこの女。わざわざ俺のスマホをハッキングしてまで追いかけてきたのか? 白衣を着てるってことは……間違いない、ギルドの監査部門か何かの調査員だな。ついにあのトカゲ退治の『環境破壊の違約金』を直接請求しに来やがったんだ)


 悠作の事なかれ主義の論理は、瞬時に彼女を「ギルドの厄介な取り立て屋」に認定した。


 瞳はタブレットの画面をスワイプし、あの『ハエドリ』が撮影した、悠作がデコピンで魔竜を粉砕する瞬間の映像をループ再生させた。


「この映像! 研究所のスーパーコンピュータで1万回解析したわ! あなたが指先から弾き出したあの物体の質量と初速! 算出された運動エネルギーは、TNT火薬換算で数千トン分よ! あんな質量兵器を無詠唱で生み出すなんて、熱力学の第一法則はおろか、現代魔法学の基本定理を根底から否定しているわ!」

「……熱力学?」


「そうよ! あれだけのエネルギーを魔法陣の展開なしに出力すれば、術者自身の体が自壊するはずなの! それなのにあなたは傷一つ負っていない。つまり、この映像は『あり得ない』のよ! 空間に細工をしたか、未登録の違法な爆発系の魔導具を隠し持っていたとしか考えられないわ! 白状しなさい!!」


 瞳はバンバンとテーブルを叩きながら、理系エリートとしてのプライドを懸けて悠作に詰め寄った。

 彼女は「悠作が最強である」ことよりも、「自分の信じてきた魔法理論が間違っている」ことを絶対に認めたくなかったのだ。


 一方、悠作の頭の中は別のベクトルでフル回転していた。


(……やっぱりだ。『未登録の違法な魔導具』とか難癖をつけて、俺に莫大な罰金を支払わせるつもりなんだ。あんなその辺で拾った石ころを弾いただけなのに、TNT火薬がどうとか、専門用語を並べて素人を丸め込もうとする……悪徳業者の常套手段だぞ)


 悠作は、絶対に隙を見せてはいけないと警戒レベルを最大に引き上げた。

 ここで「はい、やりました」などと少しでも認めれば、一生タダ働きさせられる。


 悠作はフォークを置き、極めて冷淡で、全てを突き放すような『虚無の表情』を作った。


「……何のことか知りませんが。俺はただ、ポーターの固有スキルである『超次元収納』から、普通の石ころを出して投げただけです。違法な道具なんて使ってませんし、罰金を払う謂れもありません」


「なっ……! い、インベントリから出しただけ!? 嘘よ! あれだけの質量の物質をインベントリに収納したら、亜空間の容量をオーバーして空間そのものが崩壊するはずよ!!」

「いや、普通に入りましたけど。そもそもインベントリに容量の上限なんてないでしょ」

「あるわよ!! 一般的なポーターの収納限界は最大でも500kgよ! あなた、自分がどれだけデタラメなことを言っているか分かっているの!?」


 瞳が顔を真っ赤にして反論する。

 しかし悠作は、10年間酷使し続けた結果、彼のインベントリは数万トンの質量を平然と飲み込むまでに拡張されていた。彼にとってそれは長年使って伸びたポケットと同じで、ごく当たり前の現象に過ぎなかった。


「……これ以上、難癖をつけるなら帰りますよ。みのりさん、お昼ごちそうさまでした。とても美味しかったです」


 悠作は瞳の理詰めの追及を「質の悪いクレーマー」として完全にスルーし、みのりにだけ優しく微笑みかけると、席を立ち上がった。

 そのあまりにも堂々とした、一切の動揺を見せない態度に、瞳は言葉を失った。


(な、なんなのこの男……! S級魔法使いである私の理論武装を前にして、一切の反論もせず、ただ『普通のことだ』と言ってのけるなんて……! まさか、本当に何の細工もしていないというの!? いえ、あり得ない! 私の計算式が間違っているはずがないわ!!)


 プライドを粉砕された理系エリートの探求心に、強烈な炎が点火された。


「……待ちなさい!!」


 瞳は、店を出ようとする悠作の背中に向かって、高らかに宣言した。


「あなたがその気なら、徹底的に調べてやるわ! あなたがどうやって物理法則を無視しているのか、そのトリックを完全に解明するまで……私、あなたの生活を24時間監視させてもらうからね!!」


「……はあ? 監視?」


 悠作は顔を引き攣らせて振り返った。


「そうよ! 覚悟しておきなさい、この常識破壊のバグ野郎!!」


 瞳はそう言い捨てると、白衣を翻して嵐のように喫茶店から去っていった。


 残された悠作は、頭を抱えてその場に崩れ落ちそうになった。


「……最悪だ。YouTuberに、海外のヤンキーに続いて、今度はギルドの監査員まで俺の家に張り付く気か……」


 理系エリートの執念深いロックオンにより、悠作の四畳半のキャパシティはついに完全崩壊の危機を迎えようとしていた。

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