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第20話 賑やかになる食卓

 四畳半のボロアパートに、数日前から居座り続ける高橋すずに加え、さらなる騒動の種が持ち込まれようとしていた。


 翌日の昼下がり。鈴木悠作は、溜まっていた燃えるゴミの袋を片手に、アパートの1階にあるゴミ捨て場へと足を運んでいた。

 外は相変わらず、彼の姿を一目見ようと集まった数万人の群衆やマスコミで完全に包囲されているが、悠作の『明鏡止水』の隠密歩行をもってすれば、アパートの裏手にあるゴミ捨て場を往復する程度は造作もないことだった。


「……ん?」


 ゴミ袋をコンテナに放り込んだ悠作の耳に、微かな物音が届いた。


『キュゥ……』


 コンテナの裏側、数日前に彼がポチを拾ったのと全く同じ段ボールの陰から、再び小さな毛玉が顔を出したのだ。

 今度は、艶やかな漆黒の毛並みを持つ、豆柴のような子犬だった。ピンと立った耳と、琥珀色の瞳が悠作を警戒するように見上げている。


「……お前、ポチの兄弟か? また例のトンネルから迷い出たのか」


 目の前にいるのは、S級幻獣『フェンリル』と双璧を成す、灼熱の魔犬『ヘルハウンド』の幼体である。

 先日、悠作がダンジョン深層から地上へ向かって強引に開通させた「物理的な直通トンネル」は、どうやら魔物たちの間で地上への裏ルートとして密かに認知され始めているらしかった。


 黒い子犬は、未知の巨大な生物に対し、誇り高き幻獣としての威嚇の唸り声を上げた。


『グルルルッ……!』


 そして、目にも止まらぬ速度で跳躍し、悠作の差し出した右手の指に、溶岩すら噛み砕く高温の牙を突き立てた。


 ガキンッ!!


「痛っ! こら、急に噛むな」


 悠作は反射的に手を引いたが、その皮膚には傷一つついておらず、火傷の痕すらない。

 逆に、全力で噛み付いたヘルハウンドの幼体の方が、あまりの硬さに牙を痛め、『キャンッ!?』と涙目で後ずさった。


「ポチと同じで、威勢がいい割には甘噛みだな。お腹が空いてるのか。よし、今日からお前は『クロ』だ」


 悠作は、伝説の魔犬を「クロ」と適当に命名し、首根っこを片手でヒョイとつまみ上げて四畳半へと連れ帰った。


 部屋に戻ると、悠作の帰りを待っていたすずが、彼の手にある黒い毛玉を見て息を呑んだ。


「ゆ、悠作様……! そ、その生物はまさか……! ダンジョン最深部の火山帯に生息するS級幻獣、ヘルハウンドでは……!?」

「ヘルハウンド? なんだその中二病みたいな名前は。昨日拾ったポチの兄弟だよ。クロって名付けた」


 悠作がクロを床に下ろすと、クッションで寝ていたポチが目を覚まし、すぐにクロへと駆け寄った。


『ワフッ!』

『バウッ!』


 氷の幻獣と炎の幻獣。相反する二つの属性を持つS級の幼体同士が、部屋の中で激しいじゃれ合いを始めた。

 ポチが尻尾を振るたびに室内の空気が絶対零度に凍りつき、クロが飛び跳ねるたびに灼熱の魔力が放出されて空気が焦げる。二つの致死的なエネルギーが四畳半の中で衝突し、凄まじい魔力の乱気流が発生していた。


 しかし、カンストした耐性を持つ悠作は、その異常な現象を全く別の形で都合よく解釈していた。


「おっ、ポチの冷気とクロの熱気が混ざって、部屋の温度がちょうどいい感じの適温になったな。エアコンいらずで助かるぜ。犬同士、仲が良くて何よりだ」


 悠作は麦茶を飲みながら、二匹のじゃれ合いを微笑ましく見守っている。


 その後ろで、すずは壁に張り付き、ガクガクと震えていた。


(ああっ……! 氷と炎のS級幻獣が、悠作様の御前では争うことすら許されず、完璧な調和を保って共存している……! この四畳半はもはや、神が創り賜うた新たなる生態系の頂点……!)


 彼女の限界オタクとしての崇拝は、留まるところを知らなかった。


 夕刻が迫り、悠作は夕飯の準備に取り掛かった。


「よし。今日は新入りのクロの歓迎会も兼ねて、奮発して『おうち焼肉』にするぞ」


 悠作はジャージの袖をまくり上げ、真剣な眼差しでキッチンに立った。

 彼が取り出したのは、昨日のタイムセールで勝ち取った特売の牛カルビと豚トロのパックだ。


「特売の安い肉でも、下処理とタレの工夫次第で、高級店にも負けない味に化ける」


 悠作はボウルに醤油、みりん、酒、ごま油を合わせ、そこに大量のすりおろしニンニクと白ごまを加える。そして最大の隠し味として、すりおろした生のリンゴをたっぷりと投入した。


「リンゴの酵素が肉のタンパク質を分解して極限まで柔らかくし、自然な甘みとフルーティーな香りを加えてくれるんだ。これを肉によく揉み込んで、冷蔵庫で30分寝かせる」


 肉を漬け込んでいる間に、悠作は部屋の中央に年代物のホットプレートを引っ張り出し、コンセントを繋いだ。

 ちょうど肉の漬け込みが終わった、その時だった。


 ——ドンドン、ドンッ!!


「ユーサク! いるんでしょ! 開けてヨ! アタシよ、フレヤよ!」


 玄関のドアが、外から乱暴に叩かれた。

 聞き覚えのある、カタコトの日本語。ノルウェー出身のA級格闘家、フレヤ・ヨネルだ。

 彼女は宣言通り、今日も悠作のアパートへと押しかけてきたのである。外を包囲しているはずの数万人の群衆は、彼女の放つA級特有の圧倒的な陽キャオーラと威圧感の前に、恐れをなして道を譲ってしまったらしい。


「昨日の続き、ベッドの上でヤり合おうヨ!! アタシ、ユーを絶対に本気にさせてみせるからネ!!」


 ドアの向こうから、周囲の群衆にまで丸聞こえの破廉恥な大声が響き渡る。

 悠作の顔が、瞬時にして険しくなった。


(……おいおい、マジかよ。あの迷惑系YouTuberの女、今日もドッキリ企画の続きをやりに来やがったのか。しかも『ベッドの上でヤり合おう』なんて、明らかに炎上狙いの過激なセリフを大声で叫びやがって。こんなところで外の連中を巻き込んで騒ぎを大きくされたら、絶対に大家から退去勧告を食らってしまう……!)


 極度の事なかれ主義である悠作の論理エンジンが、高速で最悪の事態の回避策を弾き出した。


(外でこれ以上大声で騒がれ続けたら、近所の住人に通報されて一発で退去勧告だ。それに、ハニートラップの動画撮影なら、密室で二人きりになるのが一番危険だ。だが、今のこの部屋にはすずという第三者がいる。彼女を証人として立ち会わせれば、美人局の企みは不発に終わるはずだ)


「チッ……これ以上の被害を防ぐための妥協案を選択するしかないか」


 悠作は素早く玄関の鍵を開けると、ドアの隙間から腕を伸ばし、フレヤの腕を掴んで強引に部屋の中へと引きずり込んだ。そして、間髪入れずにサムターンを回して内鍵を閉める。


「ワオ! アタシを強引に部屋に引きずり込むなんて、ユーも結構積極的ネ! アタシ、そういう乱暴なの嫌いじゃな——」


 フレヤが嬉しそうに頬を赤らめながら言葉を紡ごうとした、その時だった。


「……何のつもりですか、泥棒猫」


 部屋の奥から、氷のように冷たく、そして鋭い声が響いた。

 フレヤが視線を向けると、そこにはエプロン姿の高橋すずが、瞳に強烈な殺気を宿して立っていた。


「……は? ユー、なんでここにいるのヨ。トップアイドルの天音ルミでしょ?」


 フレヤは一瞬驚いたが、すぐに挑発的な笑みを浮かべた。


「アハッ、なるほどネ。ユーもこのクールな男に狙いをつけてたってわけ? でも悪いけど、アタシは昨日、彼に強烈な一撃を防がれて、完全に惚れちゃったのヨ。ユーみたいなひ弱な魔法使いには、彼は釣り合わないワ!」


「気安く話しかけないでください。私は悠作様の一番弟子であり、未来の妻です。あなたのような野蛮で下品なメスゴリラが、悠作様の神聖な四畳半に足を踏み入れるなど、万死に値します!」


 すずの周囲に、鋭い氷の魔力が渦巻く。対するフレヤも、全身から灼熱の闘気を立ち昇らせた。

 トップクラスのA級探索者二人の、プライドと独占欲を懸けた凄まじい殺気の衝突。

 四畳半の空気がビリビリと震え、部屋の隅にいたポチとクロも、そのただならぬ雰囲気に触発されて低く唸り声を上げ始めた。


 一触即発。誰もが次の瞬間に凄惨な戦闘が始まると確信した、その時。


 ——ジュウゥゥゥゥゥッ!!


 部屋の中央から、圧倒的に食欲をそそる肉の焼ける音と、焦げた醤油ダレの香ばしい匂いが爆発的に立ち昇った。


「喧嘩するなら外でやれ。飯の時間だ」


 二人の殺気を完全に無視し、悠作はホットプレートの上で、漬け込んだ特売カルビをトングで丁寧に並べていた。

 彼の意識は、A級探索者同士の修羅場などには微塵も向いておらず、「いかに肉を焦がさず、最高の焼き加減で裏返すか」という一点のみに集中していた。


「……お前、名前は知らないが、外で騒がないと約束するなら食っていけ。ただし、タダ飯は食わせないから、食後は皿洗いをしてもらうぞ」


 悠作は、フレヤの存在を「すずの同業者のYouTuberか何かで、コラボ企画の揉め事だろう」と都合よく解釈し、これ以上の面倒を避けるために食事を与えることで黙らせる作戦に出た。


 強烈な肉の匂いの前に、フレヤの腹が『グゥゥッ』と大きく鳴った。


「……い、いいヨ! アタシ、ユーの作ったご飯食べてみたかったし! 皿洗いでも何でもやってあげる!」


 フレヤはあっさりと殺気を引っ込め、ちゃぶ台の前に座り込んだ。すずも「悠作様のお食事を冷めさせるわけにはいきません!」と、慌ててその向かいに正座する。


「ほら、焼けたぞ。焦げないうちに食え」


 悠作は、完璧な焼き色のついたカルビを、フレヤとすずの小皿にそれぞれ取り分けた。

 フレヤは箸を手に取り、熱々の肉をそのまま口へと運ぶ。


 ピタリ。

 フレヤの咀嚼が、完全に止まった。

 彼女は目を見開き、脳髄を直接殴られたような圧倒的な衝撃を受けていた。

 口に入れた瞬間、熱々の肉の脂と、自家製ダレの焦げた香ばしさが一気に広がる。特売の安い肉であるはずなのに、リンゴの酵素によって信じられないほど柔らかく仕上がっており、噛むほどに溢れ出すフルーティーな甘みとニンニクのパンチが、彼女の味覚を完全に支配した。

 すりおろした白ごまの風味が後を引き、次の一口を強烈に要求してくる。


「おい……美味しい……! なにこれ、最高にクールな味じゃん!!」


 フレヤは語彙力を失い、目をキラキラと輝かせて肉を貪り始めた。


「アタシ、高級なレストランのステーキより、こっちのお肉の方が絶対好き! ユーサク、アタシも今日からこの家の子になる! 毎日このお肉焼いて!!」


「ふざけないでください! 妻の座は私が先です!」


 すずが口の周りにタレをつけながら、猛烈に抗議する。


(……おいおい、マジかよ。こいつも居座る気か。だが、ここで強引に追い出しても、またドアの外で大声で騒がれるだけだ。それに、外の連中とグルになって炎上動画を撮ろうとしているなら、家の中に軟禁してすずの監視下に置いた方が安全だ。いっそ家事労働を押し付け、生活費まで巻き上げて『搾取する側』に回れば、相手も下手に動けないはずだ。どうせこんなチンピラ外国人、すぐに飽きて勝手に帰るだろ)


 悠作は極めて打算的なリスク管理の末に、現状のトラブルを一時的に『保留』することを選んだ。


「……お前ら、喧嘩するなら容赦なく叩き出すからな。居座るなら、家賃と食費はきっちり払え。それから、明日の便所掃除はお前の当番だ」


 悠作は深いため息をつきながら、ホットプレートに新しい肉を並べた。

 足元では、ポチとクロが悠作からのおこぼれをもらって、幸せそうに短い尻尾をパタパタと振っている。


 外の世界が『虚無ニキ』の正体と、トップアイドルと同棲しているというスキャンダルで歴史的な狂乱に包まれている中。

 最強の無自覚ポーターの愛する平穏な一人の生活は完全に崩れ去り、二人の厄介な居候と二匹のS級幻獣に囲まれた、奇妙で騒がしい食卓の光景が、ここに幕を開けたのであった。

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