第19話 完落ちする戦闘狂
夕暮れ時の赤紫色の光が差し込む、四畳半のボロアパート。
鈴木悠作と高橋すずがスーパーでの買い出しから帰還し、重い玄関のドアを開けた瞬間だった。
『ワフッ! ワフッ!』
部屋の奥から、銀色の毛並みを揺らしながら、小さな毛玉がパタパタと短い足で駆け寄ってきた。S級幻獣フェンリルの幼体である『ポチ』だ。
留守番の寂しさから解放されたポチは、悠作の足元にまとわりつき、短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら『クゥ〜ン、クゥ〜ン』と甘えた声を出して見上げる。その可愛らしい仕草に連動して、室内の温度が急激に下がり、玄関のたたきに薄っすらと霜が降りた。
「よしよし、いい子で留守番してたな」
悠作が頭を撫でようと手を伸ばした時、ポチの黒い鼻がピクピクと動き、すずが持っているスーパーの袋に向かって興味津々に顔を近づけた。
ポチの嗅覚は、袋の中から漏れ出す強烈な『長ネギ』の匂いを正確に捉えていたのだ。
(おっと、危ない。犬にネギ類は猛毒だからな。うっかり齧られでもしたら、動物病院で何万円も治療費を請求されてしまう)
悠作は、愛犬の健康と自身の財布の危機を回避するため、スーパーの袋に鼻先を突っ込もうとしたポチの首根っこを、極めて無造作に、片手でヒョイとつまみ上げた。
「こら、ポチ。これはお前のご飯じゃないぞ。ネギはお腹壊すからダメだ」
『キュゥ?』
宙ぶらりんになったポチは、全く抵抗することなく、むしろ「遊んでくれるの?」と勘違いして嬉しそうに悠作の手首をペロペロと舐め回した。
その後ろで、荷物を持ったすずは息を呑んで硬直していた。
(ああっ……! 恐るべき神域の体術……! S級幻獣であるフェンリルの、音速に近い飛びつきと嗅覚による索敵を、悠作様は視線すら向けずに、片手で完全に制圧してしまわれた……! これが、無意識の領域で発動する『明鏡止水』の極致……!)
すずの限界突破した脳内では、ただ犬をネギから遠ざけただけの日常的な動作が、いとも容易く『神話の戦い』へと変換され、感動の涙を誘っていた。
「よし、すず。食材をキッチンに運んでくれ。特売のLサイズ卵を割らないように気をつけろよ。急いで夕飯の支度をするぞ」
悠作はジャージの袖をまくり上げ、慣れた手つきで調理の準備に取り掛かった。
本日のメインディッシュは、先ほどのタイムセールで勝ち取った特売の鶏もも肉と、極太の長ネギを大量に使った『鶏ネギ塩炒め』である。
「ネギは鮮度と香りが命だ。まずは斜め切りにして、ごま油でじっくりと焦げ目をつける」
熱したフライパンにごま油を引き、切ったネギを投入する。ジュワァァッという音とともに、ネギ特有の甘さとごま油の香ばしさが絡み合い、抗いがたいほど食欲を刺激する匂いが四畳半に充満した。
悠作はネギにこんがりと焼き色がついたところで一度取り出し、同じフライパンで一口大に切った鶏もも肉の皮目を下にしてパリッと焼き上げる。
鶏から溶け出した濃厚な脂がフライパンを満たしたところで、先ほどのネギを戻し入れた。
「味付けは、塩とたっぷりの黒胡椒、少量の鶏ガラスープの素だ。そして仕上げに、こいつを搾る」
悠作は生のレモンを半分に切り、フライパンの上で力強く果汁を搾り入れた。
爽やかな柑橘の香りが、油の重さを一瞬にして中和し、炒め物の完成度を一段階上の次元へと引き上げる。強火で一気に全体を煽り、タレを絡ませて火を止める。
「できたぞ。鈴木流、鶏ネギ塩炒めだ。冷めないうちに食え」
ちゃぶ台に置かれた大皿には、黄金色に輝く鶏肉と、焦げ目のついたネギが美しく盛り付けられていた。
すずは、丁寧に手を合わせてから箸を伸ばし、鶏肉とネギを一緒に口へと運んだ。
「……あっ!」
すずの全身の細胞が、歓喜の声を上げた。
口に入れた瞬間、鶏もも肉の濃厚な脂の甘みと、こんがり焼かれたネギの香ばしさが絶妙なバランスで絡み合う。ネギは加熱されたことで辛味が完全に消え去り、トロトロの食感とともに極上の甘さを引き出されていた。
そして、後から追いかけてくるレモン汁の酸味が、油のしつこさをスッキリと洗い流し、黒胡椒のピリッとした刺激が次の一口を強烈に要求してくる。
「美味しい……! ネギって、こんなに主役になれる食材だったんですね!? 鶏肉の旨味を完全に引き立てつつ、自分自身の甘さもしっかりと主張しています……!」
すずは語彙力を喪失し、炊きたての白米とともに、猛烈な勢いで炒め物をかき込み始めた。
「ネギは焦げ目をつけることで、辛味が甘みに変わるんだ。スーパーのタイムセールで、太くて水分の多い良い束を急いで選んだ甲斐があったな」
悠作は、自分の目利きの正しさを確信し、満足げに白米を頬張っていた。
彼は、自分がつい1時間前に、その『良いネギ』を一本使ってA級探索者の全力の奥義を粉砕したことなど、食事の満足感の前では完全に記憶の彼方へ放り投げていた。
★★★★★★★★★★★
一方その頃。
夕闇が濃くなり始めた路地裏のコンクリートの上で、フレヤ・ヨネルは仰向けのまま、悠作が消えていった方向をぼんやりと見つめていた。
ようやく右脚の激しい痺れが引いてきた。
彼女はこれまで、自身の圧倒的な魔力と格闘センスで、立ち塞がるすべての探索者やモンスターを暴力でねじ伏せてきた。誰もが彼女の炎を恐れ、ひれ伏し、あるいは媚びへつらってきた。
しかし、あの男は違った。
A級上位である自分の全力の奥義『爆炎流星脚』を、スーパーの袋から取り出したただのネギ一本で、まるで顔の周りを飛ぶ小虫を払うかのような適当な動作で無力化したのだ。
「しかも、あのアタシを……一瞥もくれずに通り過ぎるなんて……」
フレヤの脳裏に、悠作の底知れない冷たい瞳がフラッシュバックする。
「怪しい商売には興味ない」と切り捨て、自分という存在に欠片ほどの価値も見出さなかった、あの絶対的な無関心。
ドクンッ、ドクンッ。
フレヤの胸の奥で、今まで感じたことのない激しい鼓動が鳴り響いた。
戦闘狂としての本能が、自分よりも遥かに強く、絶対に手が届かない高みにいる『圧倒的なオス』を見つけ出し、歓喜に打ち震えているのだ。
「たまんない……。あの冷たい目で見下ろされるの、すっごくゾクゾクした……!」
フレヤの顔が極限まで熱を帯び、彼女はピンクのグラデーションヘアを乱暴にかき揚げた。
恐怖も敗北感も、彼女の中ではすべてが「強烈な恋愛感情」へと変換されていた。
「鈴木悠作……キョムニキ。アタシ、決めたヨ。ユーを絶対にアタシのモノにする。あの無表情を、アタシへの熱い欲望でドロドロに溶かしてやるんだから……!」
彼女はスマートフォンを取り出すと、ノルウェーのギルド本部にいる情報屋のツテを使い、非合法なルートで悠作のアパートの住所の特定を開始した。
ターゲットを定めた陽キャの戦闘狂の行動力は、いかなる常識をも凌駕する。
★★★★★★★★★★★
すっかり夜の帳が下りた頃。
悠作のアパートの周囲は、相変わらず一目その姿を見ようとする数万人の群衆やマスコミによって、隙間なく完全に包囲されていた。
その熱狂と混乱の渦中へ、一人の派手な長身の女が、正面から堂々と足を踏み入れた。
「ちょっと、どきなさいヨ! 邪魔ネ!」
フレヤ・ヨネルは、A級上位特有の圧倒的な魔力と威圧感を放ちながら歩を進めた。彼女の周囲だけ空気が熱を帯び、肌を刺すようなプレッシャーに当てられた群衆が、モーセの十戒のように次々と道を譲っていく。
「お、おい! あれ、ノルウェーの『爆炎の戦乙女』、フレヤ・ヨネルじゃないか!?」
「なんで海外のトップランカーがここに……まさか、虚無ニキに道場破りに来たのか!?」
「すげえ! 世紀の対決が始まるぞ!!」
外の群衆が一気にパニックに陥り、無数のカメラのフラッシュが焚かれる中、フレヤは周囲の狂騒を完全に無視してアパートの階段を上がり、悠作の部屋のドアの前に立った。
四畳半のアパートで、悠作が食後の麦茶を飲んで一息ついていると、突如として玄関のドアが乱暴に叩かれた。
ドンドン、ドンッ!
「ユーサク! いるんでしょ! 開けてヨ! アタシよ、フレヤよ!」
ドアの向こうから、聞き覚えのあるカタコトの日本語が響き渡った。さらに、外の群衆から上がる「フレヤだ!」「虚無ニキに勝負を挑む気か!?」という怒号のような歓声まで聞こえてくる。
悠作の顔が、一瞬にして険しくなる。
(……おいおい、嘘だろ。夕方のあの迷惑系YouTuberじゃないか。わざわざ俺の帰り道を尾行して家まで特定しやがったのか。しかも、外にいるデモ隊やマスコミみたいな連中まで巻き込んで、動画の撮れ高のために騒ぎをデカくしやがって……!)
極度の面倒くさがりである悠作の論理は、事態を「再生数稼ぎのための、悪質極まりない炎上ストーカー被害」として処理した。
「悠作様、あの方は夕方の……! 私が追い払ってまいります!」
すずが立ち上がり、A級魔法剣士としての鋭い殺気を放つ。
「おい、やめろ。絶対に変な反応をするな。居留守を使うぞ。あんな手品用の火薬を振り回すヤバい奴を相手にして動画のネタにされたら、大家から苦情が来てこのアパートにいられなくなる」
悠作はすずを制止し、息を潜めた。
しかし、外のフレヤのアプローチは止まらない。
「ユーの強さ、最高に痺れたワ! だからアタシと付き合って! 毎晩、ベッドの上でヤり合おうヨ!!」
フレヤは「戦い」と「恋愛」が完全に直結している戦闘狂特有の猛アプローチをかけているつもりだった。その破廉恥極まりない宣言は、外で固唾を飲んで見守っていた群衆の耳にもバッチリ届き、「ベッド!?」「交際宣言キターーー!!」と、さらなる大混乱を引き起こした。
その言葉を聞いた瞬間。
部屋の中で息を潜めていたすずの頭の中で、何かが物理的に弾ける音がした。
「べ、べべべ、ベッド!? な、なんという破廉恥な……!!」
すずの顔が、怒りと猛烈な嫉妬で真っ赤に染まる。
「泥棒猫があああぁぁぁっ!! 悠作様! あのような発情したメス豚は、一番弟子であり未来の妻であるこの私が、今すぐ三十六分割の消し炭にしてまいります!!」
限界オタクにして自称・妻であるすずは完全に我を忘れ、空間からミスリル製の魔法剣を召喚しようと暴れ始めた。
「おい、やめろ馬鹿! お前まで暴れたら部屋が壊れるだろ!」
悠作は、すずの突然の発狂を「同業者同士の縄張り争いか何か」と都合よく勘違いしつつ、必死に彼女の肩を押さえ込んで制止した。
(毎晩ベッドで……美人局のハニートラップ動画か!? 外の連中もグルになって、いかがわしい雰囲気で盛り上げてるんだな。恐ろしい手口だ、絶対にドアは開けないぞ)
悠作は背筋に冷たい汗を流しながら、ドアのチェーンロックをさらに二重に確認した。
『グルルルル……!』
異変を察知したポチが、ドアに向かって低く威嚇の唸り声を上げる。
「よし、ポチ。番犬の仕事をご苦労さん。お前たち、絶対に音を立てるなよ」
悠作はポチの頭を撫で、暴れるすずの口を塞ぎながら、暗くした部屋の中でじっと嵐が過ぎ去るのを待った。
外のフレヤは、しばらくドアを叩いていたが、やがて「照れてるのネ! 可愛いところあるじゃん! 明日も来るからネ!」と陽気に言い残し、足音を遠ざけていった。外の群衆も「虚無ニキは扉を開けなかった!」「やはりフレヤクラスでも相手にされないのか!」と、そのニュースを世界中へ拡散し始めている。
「……ふぅ。とりあえず今日は帰ったか。だが、家がバレた以上、明日からはスーパーの行き帰りもさらに警戒しないとな」
最強の無自覚ポーターの愛する平穏な日常は、ストーカーと化した戦闘狂の出現と、嫉妬に狂う同居人によって、さらなるカオスと勘違いの沼へと突き進んでいくのだった。




