第24話 オムライスとエリートの敗北
四畳半のボロアパートに、重苦しい電子音とキーボードを叩く音だけが響き渡っていた。
月曜日の早朝。外が白み始める時間帯になっても、部屋の半分を占拠した計測機材の前に座る瞳の瞳孔は、血走ったまま画面のデータログを睨みつけていた。
「……あり得ない。絶対にあり得ないわ。1秒の隙もなく監視を続けているのに、この男の睡眠時の魔力波長が、完全にゼロのまま推移しているなんて……」
瞳の目の下には、くっきりとした濃いクマが刻まれていた。
S級魔法使いであり、ギルド魔法技術研究所のエリート特待研究員である彼女の常識が、今、音を立てて崩れ去ろうとしている。
人間は、ただ呼吸をし、寝返りを打つだけでも、筋肉の収縮と生命活動の維持に伴う微小なマナを消費する。それが魔法学の絶対的な基礎定理だ。
しかし、彼女が昨夜から徹夜で監視し続けている悠作の計測データは、心電図のようにフラットな「ゼロ」の直線を10時間以上も描き続けていた。
「これではまるで、空間そのものと完全に同化しているか、あるいは……消費した端から、大気中のマナを無意識に100%の効率で吸収・還元しているとでも言うの……? そんなこと、神話の存在にすら不可能よ……」
瞳の優れた頭脳が、必死に未知の現象を数式化しようと空回りを続け、ついにオーバーヒート寸前で煙を吹きそうになっていた。
「……ふわぁ。よく寝た」
そこへ、当の監視対象である悠作が、大きな欠伸をしながら布団から起き上がってきた。
部屋の隅では、すずとフレヤが丸くなって熟睡しており、ポチとクロも仲良く寄り添って寝息を立てている。
悠作は、充血した目で自分を睨みつけている瞳を見て、心底面倒くさそうな顔をした。
(……おいおい、マジかよ。このギルドの監査員、本当に1分も寝ずに俺の監視を続けてたのか。どんだけブラックなノルマを課されてるんだ。機嫌を損ねて『非協力的な態度による追加罰金』なんてふっかけられたら、俺のなけなしの貯金が吹き飛んでしまう)
悠作の脳内で、極めて現実的で打算的な保身の計算が働いた。
(ここは一つ、美味い朝飯でも食わせてご機嫌をとっておくのが一番安全なリスク管理だ。空腹と睡眠不足の人間は気が立っているからな)
「おい。ずっとパソコンを睨んでて疲れただろ。朝飯の準備をするから、そこを片付けてくれ」
悠作はエプロンを締め、冷蔵庫を開けた。
残っている食材を素早く吟味する。昨日すずたちに買わせておいた特売の卵がたっぷりと残っている。鶏肉の端材と玉ねぎもある。
「よし。今日の朝飯は、王道のオムライスにするか」
悠作はまな板を取り出し、玉ねぎと鶏もも肉を丁寧な1cm角に切り揃えた。
フライパンにバターを落とし、玉ねぎが透き通るまで中火でじっくりと炒め、鶏肉を加えて表面に香ばしい焼き色をつける。
ここからが、悠作のこだわりの手順だった。
彼はご飯を入れる前に、フライパンの空いたスペースにケチャップをたっぷりと絞り出したのだ。
「ケチャップは、そのままご飯に混ぜると水分でベチャベチャになるし、酸味が立ちすぎてしまう。先にケチャップだけを炒めて水分を飛ばし、酸味を甘味と旨味に凝縮させるんだ」
ジュワァァッという音とともに、ケチャップが焦げる一歩手前の濃厚な香りが四畳半に広がる。
そこに冷やご飯を投入し、木べらで切るように混ぜ合わせる。米の一粒一粒にバターのコクとケチャップの旨味がコーティングされ、鮮やかなオレンジ色のチキンライスが完成した。
悠作はチキンライスを皿に丸く盛り付けると、フライパンをサッと拭き取り、再び火にかけた。
ボウルに卵を二個割り入れ、少量の牛乳と塩コショウを加えて手早く溶きほぐす。
熱したフライパンに多めのバターを溶かし、卵液を一気に流し込んだ。
ジュッ!
卵が縁から固まり始めるのと同時に、悠作は菜箸で中心を素早くかき混ぜ、絶妙な半熟のスクランブル状を作る。そして、フライパンの柄をトントンと手首のスナップで叩きながら、卵をフライパンの奥へと滑らせ、美しいラグビーボール型へとまとめ上げた。
表面はつるんとした極薄の黄色い膜。しかし、内側はトロトロの半熟状態が保たれている。
悠作はその完璧なフォルムの卵を、先ほどのチキンライスの上に滑り込ませた。
仕上げに、昨日の昼飯のハンバーグで作った特製デミグラスソースの残りを温め直し、卵の上からとろりと流しかける。
「ほら、完成だ。徹夜の監査業務、お疲れさん。冷めないうちに食べてくれ。これで罰金は勘弁してほしいもんだ」
ちゃぶ台の上にコトンと置かれた、黄金色に輝くオムライス。
立ち昇るバターとデミグラスソースの香りに、瞳のお腹が『グゥゥッ』と、理系エリートにあるまじき大きな音を立てて鳴った。
「わ、私を賄賂で買収しようだなんて、いい度胸ね! 私は真理を追究する研究者よ、こんな……こんな美味しそうな匂いくらいで、私の客観的な評価が歪むとでも——」
瞳は抗議の声を上げながらも、体は正直だった。震える手でスプーンを握りしめ、黄金の卵山にスプーンを差し込む。
極薄の卵の膜を破った瞬間、中からトロトロの半熟卵が雪崩のように溢れ出し、チキンライスを黄金色にコーティングしていく。
瞳はそれをすくい上げ、口に運んだ。
一口噛み締めた瞬間。
瞳はスプーンをくわえたまま、目を見開いて完全にフリーズした。
酸味を完全に飛ばし、旨味だけを抽出したチキンライス。それを包み込む、外側は固形でありながら内側は完全な流体を保っている卵の層。これら二つの異なる温度と状態を持つ物質が、口の中で交わった瞬間に起こる爆発的な相乗効果。
さらに、深く煮込まれたデミグラスソースのビターなコクが、卵の甘味を限界まで引き立てている。
(この卵の凝固点と、チキンライスの内部温度の管理……。コンマ数秒単位の加熱時間の計算と、完璧な熱伝導の制御……! これほどの緻密な演算を、寝起きの目分量だけでやってのけたというの……!?)
瞳の脳内で構築されていた、この料理を客観的に評価しようとする理詰めのプロセスは、次々と押し寄せる圧倒的な『美味しさ』という未知の変数によって急速に侵食されていった。
抗いがたいバターの香りと、完璧に調和した味のオーケストラが、彼女の冷静な思考回路をバターのようにドロドロに溶かしていく。
「……うぅ……っ、美味しい……!」
ついに理系エリートとしての矜持は陥落し、彼女は分析を放棄した。ただ純粋に食欲を満たすだけの生き物へと成り下がり、子供のように夢中で黄金のオムライスをかき込み始めた。
あっという間に皿を空にした瞳は、ふぅ、と深い満足のため息をつき、真剣な目で悠作を見上げた。
「……私の負けよ。あなたの規格外の力も、この計算し尽くされた料理の味も……私の理論を完全に超えているわ」
「はあ。まあ、納得してくれたなら良かったよ。これで罰金はなしってことで頼むぞ」
「ええ。ただし、あなたの謎を完全に解明するまでは、私は絶対にここから離れないわ。監視名目でこの部屋に居座らせてもらうわよ。もちろん、毎月の家賃と食費は私が払うから、毎日このレベルの食事を提供しなさい」
(……また面倒な居候が一人増えた。だが、家賃と食費を余分に払ってくれるなら、悪い取引じゃないか。どうせすぐ飽きて帰るだろ)
悠作は「金が取れるなら追い出すより得だ」という独自の損得勘定に従い、彼女の滞在をあっさりと許可した。
これで四畳半の住人は、悠作、すず、フレヤ、瞳の四人に、幻獣二匹というとんでもない人口密度となったのである。
★★★★★★★★★★★
オムライスの余韻も冷めやらぬまま、瞳が口元を拭いながら立ち上がった。
「さて、室内での安静時のデータは十分に取れたわ。次は、屋外の動的環境下におけるあなたの魔力消費と、周囲への影響を計測するわよ。さあ、外に出なさい」
「はあ? 外に?」
悠作は顔をしかめた。
「冗談じゃない。外にはまだ、俺から罰金を取ろうとしてるマスコミやデモ隊がうじゃうじゃいるんだぞ。そんなところにノコノコ出て行けるか」
「平気よ。私がS級の『広域認識阻害結界』を張って歩くわ。あれだけ大勢の群衆がいても、私たちの姿は誰の網膜にも映らなくなる。これなら問題ないでしょ?」
瞳が理系エリートとしての自信満々の笑みを浮かべる。
だが、悠作の論理は違った。
(そんな大層な手品みたいなことをしたら、逆に魔力探知機か何かで一発でバレるに決まってるだろ。それに、こいつがそんな真っ白で派手な研究着のまま動けば、俺まで悪目立ちしてしまう。……仕方ない、ちょうど今朝のオムライスでケチャップを使い切っちまったから、補充に行く用事がある。俺のやり方で連れて行くしかないな)
「お前の手品は却下だ。……スーパーに行く用事があるから、ついてくるなら勝手にしろ。ただし、その目立つ白衣はどうにかしろ。俺の予備のパーカーと帽子を貸してやる。外の連中にバレないように、絶対に目立つなよ」
悠作はそう言うと、瞳の白衣を脱がせ、ダボダボのパーカーを着せると、その細い手首をガシッと力強く掴んだ。
「えっ……ちょ、ちょっと! いきなり何をするのよ!」
瞳の顔が一気に真っ赤に染まる。男性にこれほど強く手を握られた経験など、研究一筋で生きてきた彼女には皆無だったからだ。
「いいから黙ってついてこい。息を殺せよ」
悠作は玄関のドアを細く開け、瞳の手を引いたまま、音もなく外へと滑り出た。
アパートの周囲は、相変わらず数万人の群衆や報道陣が隙間なくひしめき合っている。
瞳は「こんな人混みの中を、結界もなしに強行突破するなんて不可能よ!」とパニックになりかけた。
しかし、次の瞬間。
瞳は自分の目を疑った。
悠作が足を踏み出すたびに、目の前にいる群衆が、まるで「最初からそこに空間が存在していた」かのように、自然と、そして無意識に体をよじって道を空けていくのだ。
悠作は魔力を一ミクロンも使っていない。ただ、群衆の視線の死角、意識の隙間、呼吸のリズムを完璧に読み切り、そこに自らの体を滑り込ませているだけだった。
これが、悠作が10年間の過酷なポーター業務で無意識に極め尽くした、究極の隠密歩行『明鏡止水』の真髄であった。
「な、なにこれ……。認識阻害の魔法陣も構築していないのに、数万人の群衆の意識から、私たちが完全に『消去』されている……! 生態系の頂点に立つ捕食者が、獲物に気づかれずに接近するような、完全な気配の遮断……!」
瞳は、自分の信じてきた魔法理論が再び根底から破壊されるのを感じながらも、悠作の広く頼もしい背中と、力強く引かれている自分の手首の熱に、理系エリートの心拍数が限界を超えて跳ね上がっていくのを自覚していた。
(こ、これじゃ……まるで、ただのデートじゃないの……!)
★★★★★★★★★★★
群衆の包囲網を難なく突破し、2人は駅前のスーパーへと到着した。
悠作は「目立たないこと」を至上命題とするため、瞳の動揺など一切気に留めず、目的の調味料コーナーへと一直線に向かった。
「よし、今日は特大サイズのケチャップが特売で158円だ。お一人様一点限りだから、お前も一つ持ってレジに並べ。金は後で払う」
悠作は真剣な眼差しで、ケチャップを吟味して瞳に手渡した。
瞳は、高級なスーパーか研究室の無機質な食事しか知らなかったため、この庶民的な空間と、10円単位の価格差に命を懸ける悠作の姿に激しいギャップを感じていた。
(あの『災厄の魔竜』をデコピン1発で粉砕し、私の魔法計算式を全てゴミ箱送りにした最強の男が……158円のケチャップを真剣に選んでいるなんて……)
あまりにも生活感に溢れたその姿が、瞳の胸の奥を不思議と温かくしていく。
帰りの裏路地。
スーパーの重いレジ袋を提げた悠作の少し後ろを、瞳は自分の計測機材の入った重いバッグを肩にかけて歩いていた。徹夜明けの体には、機材の重さがいつも以上に堪える。
「……ふぅっ」
瞳が思わず小さなため息を漏らした、その時。
「お前、ずっとそれ持ってて重いだろ。貸せよ」
悠作が振り返り、瞳の肩から機材のバッグをヒョイと持ち上げて、自分の肩にかけ直した。
彼にとっては「歩くのが遅い監査員の機嫌をとって、さっさと帰宅するため」の極めて打算的な行動に過ぎなかった。120kgの荷物を背負ってダンジョンを歩く彼にとって、数kgの機材など羽毛のように軽い。
しかし、瞳の受け取り方は完全に異なっていた。
「べ、別に、重くなんかないわよ……! 私を子ども扱いしないで!」
口ではそう反発しながらも、瞳の頬は夕焼けのように赤く染まり、その視線は悠作の横顔から外せなくなっていた。
(……ズルい男。規格外の暴力と、この自然な優しさ……。こんなの、私のどんな計算式を使っても、心の揺れを制御できるわけがないじゃない……!)
アパートが見えてきた頃、瞳は早鐘のように打つ胸を押さえながら、ツンと顔を背けて言い放った。
「……今日の屋外のデータは、ノイズが多すぎて正確な計測ができなかったわ。だから、明日もスーパーへの計測に付き合ってもらうわよ! 拒否権はないからね!」
「……はあ? マジで面倒くさい監査員だな。まあ、荷物持ちが増えるなら勝手にしろ」
悠作は深いため息をつき、夕飯の献立のことだけを考えながら歩き続けた。
最強の無自覚ポーターの愛する平穏な日常は、理系エリートの完全に計算狂いした「恋心」の介入により、さらなる勘違いの沼へと深く沈んでいくのだった。




