第14話 配信の映り込み事故
四畳半のボロアパートに、不本意極まりない同棲生活が始まってから3日が経過した。
鈴木悠作は、ちゃぶ台の前で腕を組み、部屋の隅で何やらゴソゴソと機材をセッティングしている高橋すずを、極めて訝しげな目で見つめていた。
「……おい、お前。さっきから何をしてるんだ。俺の部屋に勝手に変な盗聴器とか仕掛けてるんじゃないだろうな」
「滅相もございません、悠作様! 実は私、少しだけ『リモートでのお仕事』がございまして。1時間ほど、ファン……いえ、顧客の方々とお話をするお時間をいただきたいのです!」
すずは、最新型の魔導スマートフォンと、空中にホログラムモニターを展開する小型の配信機材を器用に組み立てながら、悠作に向かって深々と頭を下げた。
(……リモートの仕事、だと?)
悠作の事なかれ主義の論理エンジンが、瞬時にその言葉を独自解釈する。
(パソコンやスマホ越しに顧客と話す……ネットの悩み相談か、オンラインの愚痴聞きサービスか何かだろう。まさか、架空請求や闇バイトみたいな警察沙汰になる怪しい商売じゃないだろうな。もしそんなことで大家に目をつけられたら、俺まで共犯扱いでアパートを追い出されてしまう。退去勧告はS級ボスのブレスより恐ろしいんだぞ)
悠作は目を細め、すずをジッと睨みつけた。
「おい。変なトラブルや警察沙汰になるような怪しい仕事じゃないだろうな? もし大家や近所から通報されるような真似をしたら、その瞬間に叩き出すからな」
「えっ!? は、はい! もちろんです! 極めて健全な、私を応援してくださる方々との交流ですので、ご安心ください!」
「……まあ、それならいい。絶対に俺を巻き込むなよ。俺は気にせず夕飯の仕込みと、おやつの準備をする。声は出さないが、生活音は我慢しろ」
「はいっ! 悠作様の尊い生活音をBGMに仕事ができるなんて、至上の喜びにございます!」
限界オタク特有の恍惚とした表情を浮かべるすずを完全に無視し、悠作はキッチンへと向かった。
今日の昼間は尋常ではなく暑く、無性に冷たいものが食べたくなる気候だった。
アパートの外は相変わらずマスコミや勘違いした熱狂的な群衆に包囲されているため、悠作は一歩も外に出られない状態が続いている。しかし、食料の心配はなかった。昨夜、家賃と食費の代わりに、すずにA級探索者の特権である『ギルド専用・匿名特急ドローン便』を使わせて、大量の食材を手配させたからだ。
悠作は冷蔵庫を開けた。そこには新鮮な卵と生クリームのパックが並んでいる。さらに、すずが自分のポケットマネーで勝手に買い足していた『最高級のバニラビーンズ』の瓶もある。
「今日は、本格的なバニラアイスクリームを作るか」
悠作の目が、プロの料理人のそれへと切り替わった。
ボウルに卵黄を落とし、グラニュー糖を加えてホイッパーで白っぽくもったりとするまで擦り混ぜる。
小鍋には牛乳と生クリーム、そして隠し味としての微量のハチミツを入れる。さらに、すずが手配した本物のバニラビーンズの鞘を縦に割り、包丁の背で黒い粒をこそげ落として、鞘ごと鍋に放り込んだ。
「よし、弱火で香りを移していくぞ」
甘く、そして暴力的なほどに濃厚で芳醇なバニラの香りが、狭い四畳半のキッチンに爆発的に広がり始めた。
一方その頃。
部屋の隅に陣取ったすずは、自身の魔導スマホのカメラを起動し、専用のARフィルターをオンにしていた。
彼女の表の顔は、登録者数300万人を誇るトップVtuber『天音ルミ』である。カメラはすずの表情と動きを完璧にトレースし、画面上には青みがかった銀髪を持つ、クールで美しい「氷の女王」の3Dアバターが合成されて映し出される。背景は自動的に「氷の城の玉座」へとARで置き換わる設定だ。
『——はい、配信開始しました。……皆様、ごきげんよう。天音ルミです』
すずが声をワントーン落とし、プロの『トップアイドル』としての凛とした冷たい声色を発した瞬間、画面の横に展開されたホログラムモニターのコメント欄が、凄まじい滝のような速度で流れ始めた。
【コメント欄】
《ルミ様キターーー!》
《待ってた! 昨日配信休んだから心配したよ!》
《今日も美しい……氷の女王万歳!》
《最近ダンジョン配信がないけど、今日は雑談枠?》
《ルミちゃん、なんか今日顔色良くない? 恋でもした?w》
すずは内心で(悠作様と同じ空気を吸っているのですから、肌ツヤが良くなるのは当然です!)と限界オタクの叫びを抑え込みつつ、氷の女王の仮面を被って優雅に微笑んだ。
『ええ、本日は雑談配信となります。実はわたくし、少し前に新しい拠点へと居を移しまして。氷の城の奥深く、誰も立ち入れない神聖な場所で、今は静かに魔力の鍛錬を——』
すずが淀みなく嘘八百の設定を語っているその後ろで。
悠作は、アイスクリームのベースとなる『クレーム・アングレーズ』を完璧に仕上げていた。
温めた牛乳の液を卵黄のボウルに少しずつ加え、再び鍋に戻す。焦げ付かないようにゴムベラで絶えず底を掻き混ぜながら、温度が83度に達したその一瞬を見極める。とろみがつき、ヘラで一筋の線が引けるようになった完璧な状態。
悠作は素早く鍋を氷水に当て、一気に急冷させた。
ボウルを冷凍庫に入れ、30分ごとに空気を含ませるようにかき混ぜる作業に入る。
「よし、アイスが固まるまでの間に、明日の飯の準備も進めておくか」
悠作は冷蔵庫から、泥付きの極太の長ネギを3本取り出し、まな板の上に乗せた。
明日の朝食の冷奴と、昼食のチャーハンに大量に使うため、今のうちに全て刻んでタッパーに保存しておく算段だ。
悠作は、愛用の包丁を握り、まな板に向かった。
トントントントントンッ……!!
小気味良く、そして機関銃のような恐るべき等間隔のリズムで、ネギが1ミリの狂いもなく小口切りにされていく。
しかし、大量のネギを刻んでいると、細胞が破壊されることで発生する『アリシン』が空気中に揮発し、悠作の目を容赦なく攻撃し始めた。
(……くっ、今日のネギはやけに目に染みるな。だが、ここで目を擦れば手がネギ臭くなる。耐えろ。極限まで精神を統一し、痛覚と涙腺のスイッチを物理的にオフにするんだ)
悠作は、ネギの催涙成分に抗うため、顔の筋肉から一切の緊張を抜き、感情の全てを死滅させた。
深い瞬き一つせず、ただひたすらに前を向いたまま包丁を上下させる、究極の無表情。
そう。それは奇しくも、S級ボスの前で夕飯の角煮を心配していた時に見せた、あの全世界を震撼させた『虚無顔』と全く同じ、完璧な無の境地であった。
その時、配信中のすずの背後で、予期せぬ『事故』が発生した。
すずが身振り手振りを交えて熱弁を振るうあまり、魔導スマホのARフィルターの処理が、わずかにラグを起こしたのだ。
さらに、悠作のカンストした物理的な存在感と、あまりにも速すぎる包丁の残像が、空間認識センサーに微小なバグを発生させた。
氷の城の背景が、一瞬だけ透けた。
そして、画面の右上の端に。
色落ちしたジャージ姿で、一切の感情を持たない『完璧な虚無顔』のまま、信じられない速度で長ネギを刻み続ける男——鈴木悠作の姿が、全世界300万人の登録者を抱えるトップVtuberの配信画面に、ハッキリと映り込んでしまったのである。
その瞬間。
滝のように流れていたコメント欄のスクロールが、まるで時が止まったかのようにピタリと停止した。
すずは、コメント欄の異変に気づき、小首を傾げた。
『……皆様? どうされましたか? 急に静かになって——』
次の瞬間、かつてない大爆発が起きた。
【コメント欄】
《え?》
《は? 今、後ろに男映らなかったか!?》
《氷の城(四畳半の壁紙)》
《ルミちゃんの部屋に男!? 嘘だろ!? 同棲発覚!?》
《炎上不可避wwwww 終わったなこのアイドルwww》
《待て。待て待て待て。お前ら、今の男の顔、よく見ろ》
《あのジャージ……あの無精髭……》
《嘘……だろ……?》
《あの全てを悟ったような無表情……絶対に間違いない!》
《『虚無ニキ』だぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?!?》
《ファッ!?!? なんでトップVtuberの部屋に人類最強がいるんだよ!?》
《ていうか虚無ニキ、後ろでめっちゃ高速でネギ刻んでるんだがwwwww》
《魔竜をワンパンする腕力でネギを刻む男》
《おいやめろ! 虚無ニキがネギ刻んでるってことは、あれはただの料理じゃない! 質量兵器の製造中だ!!》
《ルミちゃん逃げてぇぇぇ! 氷の城ごと消し飛ばされるぞ!!》
「……えっ?」
すずは、コメント欄に踊る「虚無ニキ」「ネギ」「同棲」という単語を見て、顔面から一瞬で血の気を失った。
振り返ると、ARの死角から見事に外れた位置で、悠作が完璧な虚無顔でネギを刻み終え、タッパーに詰めているところだった。
(や、やってしまいました……! 悠作様と私が同じ屋根の下にいることが、全世界にバレてしまった……! 事務所に怒られるとかいうレベルではありません、悠作様に『面倒なことに巻き込みやがって』と見限られ、この神聖な四畳半から追放されてしまいます!)
すずはパニックになり、慌てて魔導スマホのレンズを両手で塞いだ。
『あ、ああああのっ! 違います! 今のは幻覚です! 氷の城に迷い込んだ、ただの通りすがりのネギの妖精さんです! わ、わたくし、今日はこれで急用ができましたので、配信を終了いたします!!』
ブツッ。
画面は強制的に暗転し、配信は切断された。
しかし、すでに「虚無ニキがネギを刻む姿」は無数の視聴者によって切り抜かれ、SNS上で『天音ルミ、人類最強と同棲発覚!?』という見出しと共に、爆発的な勢いで拡散され始めていた。
すずは頭を抱え、その場に崩れ落ちた。
「お、終わりました……。私のアイドル生命も、悠作様のおそばにいる権利も、すべて……」
「おい。さっきから騒がしいぞ。悩み相談の客、怒らせたのか?」
絶望するすずの頭上から、悠作の呆れたような声が降ってきた。
すずが恐る恐る顔を上げると、そこには、ちゃぶ台の上に二つのグラスと、小洒落たガラスの器を並べている悠作の姿があった。
「仕事が終わったなら、こっちに来い。アイスが完成したぞ」
器の中には、黄金色に輝く、美しい球体にくり抜かれた自家製バニラアイスクリームが盛られていた。
バニラビーンズの黒い粒がたっぷりと混ざり合い、市販の安物とは次元の違う、卵黄と乳脂肪分の極めて濃厚な香りが漂っている。
「そして、この濃厚なアイスに合わせるのは……こいつだ」
悠作の手には、キンキンに冷やしたグラスが握られていた。
中には大ぶりの氷が縁まで満たされている。そこに、すずがドローン便で注文していた、ボタニカルの香りが華やかな高級ロンドンドライジンを注ぎ、炭酸が抜けないように静かに、かつ素早くトニックウォーターを這わせるように注ぎ入れた。
シュワシュワと弾ける気泡。最後に、カットした生のライムを一搾りし、そのままグラスへ落とす。
完璧な比率で作られた、究極にシャープな『ジントニック』の完成だ。
「え……アイスクリームに、お酒、ですか?」
すずは、自身の炎上の恐怖すら一瞬忘れて、目を瞬かせた。
「ああ。俺のアイスは、生クリームと卵黄を限界まで使った超・濃厚仕様だ。単体で食べると後半で舌が重くなる。だが、そこにこのジントニックを流し込んでみろ。ジンの持つジュニパーベリーや柑橘系の複雑な香りが、バニラの香りと鼻腔で完璧にリンクする。そして、トニックウォーターの炭酸とライムの強烈な酸味、微かな苦味が、口の中に残った乳脂肪分をスッと洗い流し、味覚を完全にリセットしてくれるんだ」
悠作の熱を帯びた説明を聞きながら、すずはフラフラとちゃぶ台の前に座り、スプーンを手にした。
震える手で、黄金色のアイスを一口すくい、口に含む。
「——っ!!」
すずの瞳孔が限界まで開いた。
口の中でとろける、暴力的なまでの甘味とコク。最高級のバニラビーンズが織りなす芳醇な香りが、脳の快楽中枢を直接殴りつけてくる。
スーパーの安売り卵と半額の生クリームで作られたとは到底信じられない、高級ホテルのデザートすら霞むほどの、絶対的な美味しさ。
「う、美味し……! なんですかこれ、美味しすぎます……!」
「そこで、すかさずジントニックを一口いけ」
悠作の指示に従い、すずはグラスを傾けた。
キリッとした冷たい炭酸が喉を駆け抜け、ライムの酸味とジンのビターなボタニカル香が、口の中の濃厚な甘さを瞬時に切り裂いた。
そして、飲み込んだ後に残る、バニラとハーブが混ざり合った、信じられないほど爽やかで複雑な余韻。
甘味、酸味、苦味、そして炭酸の刺激。それらが無限のループを構築し、スプーンとグラスを持つ手が止まらなくなる。
「ああっ……! 美味しい! 美味しいです悠作様!! 炎上なんて、どうでもよくなりました! 私、一生このアイスとお酒を飲んで、この四畳半で生きていきます!!」
すずは、自身の社会的な立場や、数万人のファンからの追及など完全に記憶の彼方へ放り投げ、ただひたすらにアイスと酒の無限ループへと堕ちていった。
「……なんだかよく分からんが、悩み相談の仕事のストレスでヤバい宗教にでもハマったのか? まあ、大人しく掃除をしてくれるなら、それでいいけどな」
世界中で「虚無ニキとトップアイドルの同棲疑惑」が歴史的な大炎上を引き起こしている中。
最強の無自覚ポーターは、ポチの頭を撫でながら、自分が完璧に計算し尽くしたマリアージュにただ一人静かに満足し、平和な午後の休息を満喫しているのだった。




